第36話 才子佳人
謀反の動きとはいっても、明州府は瑞慶府から離れていることもあり、幸いまだ城門は閉じられておらず、班は転がり込むように今夜の雇い主である李常卿の邸に入った。
快く迎え入れてくれた李は府の有力者の一人で、父の代から自分が壮年に至るまで班を雇い自邸で芝居を見てきただけあって、所望する外題もみな通好みであった。夕刻に予定されている大庁での芝居に備え、皆が荷を解いていると当主の李常卿自らがそわそわした様子で顔を出した。よほど芝居を愛し、情熱を傾けているのだろう。
「…このような火急のときに、私達が出入りをしてはお邪魔になりませぬか」
忠賢の遠慮がちな問いに、常卿は肩をすくめて答えた。
「ここで私が観劇をやめたからといって、瑞慶府がどうにかなるわけでもないだろう。今夜は親戚一同を呼んでしまっているし。だいたい謀反騒ぎのことなら、瑞慶府から来る早馬の情報が錯綜してこちらもかなわない。王宮に兵が乱入しただの、王が自ら剣を取られて闘い負傷なさっただの、王妃が病に倒れて枕も上がらぬ状態だの…」
忠賢の傍らで、箱から芝居の衣装を出していた宝余は思わず振り返った。
――大旗が負傷?私が重病?
それはどちらも偽の情報なのか、それとも自分が王宮に不在であることは秘匿されているのか、彼女は首をひねった。
忠賢にとって李常卿は雇い主ともいえども気安い存在らしく、一笑して
「あなた様はきっと天が落ちてくるその時でも、芝居をご覧になっているでしょう」
と言った。
「何をいう。芝居好きが高じて貴門の実家を飛び出し、班に身を投じたそなたにはかなわない」
そう返された忠賢の笑顔に影が一瞬よぎったのを、宝余は見逃さなかった。
さて、上演の支度が整い酒膳の支度も終わり、がやがやと声が遠くから響いたと思うと、着飾った李家の親族が老若男女を取り交ぜ現れた。今日の主賓はとし七十を迎えた李の老母で、まず乾杯が終わると芝居を選ぶ目録が彼女に差し出され、三つの外題が選ばれた。宝余は愛姐とともに、薄暗い大庁の隅に陣取った。宝余にとって、一座の芝居を通しで観るのはこれが初めてである。
――さてもさても、四世同堂のめでたきかな美しきかな
今宵は拙き歌をまずき舞を、お目汚しにをばまず一曲
楼台に風ひるがりて貴人が杯を交わせば
詩文のなだれ落ちること紅雨のごとく
玉閣に霧晴れて仙女のそで舞い上がれば
糸竹の音尽きざること真砂のごとし
芝居の前口上が歌われ、舞台の中央では名妓の唐三娘に扮した女形の藍芝が、異郷の地にいる想い人の鄭夢春を懐かしみ、侍女とひとしきり機知に富む会話を交わす。三娘は好色な州知事の側室にされそうなところ、罠を仕掛けて知事をぎゃふんといわせ、高官として郷里に戻ってきた想い人からの求婚を受ける――。
たわいないといえばたわいない筋であるが、会話の冴えと名妓としての貫禄と芸の腕、さらには男を思い慕う若い女性の華やぎを同時に出せなければならず、唐三娘役の技量が問われる難曲である。
衣装の美しさ、灯りに浮かぶ藍芝の艶めいた眼差し、夢春を演じる忠賢の凛々しさ、まるで舞台の狭さを感じさせない二人の洗練された挙措――宝余はいつしか時も忘れ、才子佳人の織り成す鮮やかな恋模様を食い入るように見つめていた。
「あんた、芝居を観たことないのー?」
あまりに夢中になっていたからであろう、愛姐が笑いながら宝余を突いた。
芝居がはねたあと、李とその老母は班に十分な報酬と食事、さらに宿も提供してくれた。一同はあてがわれた使用人の部屋に道具を入れ、食後の一服を楽しんでいる。
こうして皆が休んでいる間が宝余と愛姐にとっての働きどきで、裏庭での洗い物の最中、宝余は気になっていたことを愛姐に聞いてみた。
「班主は、芝居好きが高じてうちの班に来たって?誰がそんなことを?」
愛姐は変な顔をした。そこで宝余が李常卿と忠賢との会話の内容を聞かせると、愛姐はぷっと噴き出した。
「それは表向きの話で、真っ赤な嘘だよー」
「嘘?」
「そう」
愛姐は急に真顔になり、声を潜めた。
「本人には、私が言ったなんて内緒にしておくれよ。班主はね、実は烏翠のお貴族様だったのさー。一族皆殺しにされた、魯公理さまの御次男さね。もちろん班主も捕らえられて殺されるところ、逃げのびてうちの班に転がり込んだわけさ」
宝余はそれで得心した。
――あれだけの粛清をやらかした後だというのに、まだ懲りないのか。
耳元に、彼の言葉がよみがえる。謀反の噂を聞いたときの彼の尋常ならざる態度は、自身の過去があってのことだったのだ。
芝居を見ているひと時だけは忘れていられたが、改めて瑞慶府の謀反の噂が気になった。




