終章 花霞の彼方 1
柔らかな春の風がカーテンを揺らし、淡いピンク色の花弁が執務机の上に乗る。窓は閉めてたはずなのに。そっと息を吐き、メイはペンを走らせる手を止めた。
「メイー、迎えに来たよー」
窓から身を乗り出して手を振っているのはエフィだ。メイは椅子から立ち上がり、上着に袖を通しながらエフィに近づいた。
「ドアから入ってきてよ」
「こっちの方が楽だし。安心してよ、フロースの許可は取ってるから」
言いながら手を差し出してくるエフィ。その手を取る前にメイは室内を振り返り、ドアの向こうに声をかけた。
「いってきます!」
いってらっしゃいませ、とカルロとセシルの声が揃って返ってくる。エフィに向き直って手を掴み、メイは風に身を任せた。
あっという間に――とまではいかないが、他愛のない会話をしている間にメイとエフィはリュリアガの県都ハズモフィに到着し、刃風会が経営するホテル、ヴェラミナの屋上に降り立つ。恭しく出迎えてくれた支配人と軽い挨拶を交わし、その隣でひどく緊張している入国審査官に必要な書類を渡すと、エフィはメイを振り向いた。
「ぼくはリュール達迎えに行くけどメイはどうする? 一緒に行く?」
気遣うような問いに部屋で待ってると言いかけ、メイは空を見上げる。いい天気だ。エフィがリュールを連れてくるまで、近くを散歩するのも悪くないだろう。エフィにそう伝えると、彼はこくりと頷いた。部屋の鍵と書類を受け取ると支配人と入国審査官を下がらせ、エフィは悪戯っぽく笑った。
「迷子にならないでよ?」
「ならないよ」
肩を竦め、エフィが飛翔する。舞い落ちる羽根を受け止め、メイは屋上から飛び降りた。常人なら死んでしまう行いだが、メイは半精霊。地面に叩きつけられることはない。それにエフィの加護もある。地面まで数メートルのところで落下速度は緩やかになり、メイの靴底はそっとコンクリートを踏んだ。窓の箇所、そして周囲に誰もいないことを確認してから飛び降りたから、騒ぎになることもないだろう。メイは霊光を抑え、髪と目の色が変わったことを確認してからヴェラミナの敷地から出た。
春の温かな陽気はハズモフィの街を優しく包み込み、通りを行く人々の顔は穏やかだ。精霊達は眠たげで、メイに気づくと欠伸をしながら手を振ってくる。不審がられない程度に彼等に声をかけ、メイはそっと息を吐いた。
あれから――界蝕光騒動から半年が経つ。世間一般は当時本当に起きたことを知らないから当然なのだが、こののほほんとした景色を見ていると、とても人間界に危機が迫っていただなんて思えない。だが界蝕光が出現したのは紛れもない事実で、メイは今でもあのときの光景を鮮明に覚えている。いや、忘れるなんて絶対に許されないことだ。
「……」
シリウスの霊光で作られた白い街から出たあと、メイはフロース、そして魔鎧型の壱號と弐號と共に鋼鉄の魔女達と合流した。彼女達は誰一人欠けることなくメイの――メイとルカの帰りを待ち続けており、真っ先に駆け寄ってきたのはエヴァンとメリナだった。二人はメイの無事を喜び、フロースに驚き、それからルカはどこかと訊ね、言い淀むメイを見て何かを察したらしい。メイを責めるでもなく、ただ「あの馬鹿」とエヴァンが吐き捨てたのをよく覚えている。キミは悪くないよと慰めの言葉をかけてくれたメリナにどう返答すればいいかわからず、無言で俯くことしかできなかった己の無様も。
エヴァンとメリナだけではない。鋼鉄の魔女と不撓の魔人、エフィ、そしてリュールも――誰一人としてメイのことを責めはしなかった。労いと慰めの言葉をかけ、決まってルカへの不満を漏らす。彼等なりに気持ちに折り合いをつけているのだとメイは十分理解しているつもりだが、使命を果たしたルカが侮辱されているようにメイには聞こえた。そうして生じた憤りはそもそもの原因がメイ自身であることから即座に冷め、胸を深く抉る痛みは決して消えない。彼等がメイのことを罵ってくれたら、少しはマシになったかもしれないのに。そんな自分勝手な考えをしたのは一度や二度ではなく、その度にメイは強い自己嫌悪に陥っていた。
だが、いつまでもそうやって塞ぎ込んでいるわけにはいかない。守護精霊リュールの霊光で強化された偽光帯が問題なく消滅したことを世間に伝えなければならないし、界蝕光だと知っている者達への報告はもちろん、精霊達の様子を気にかける必要もある。フォビドとユーフォリアが霊光で浄化されたことについてもだ。そこに盈月祭の準備と開催と後処理も加わり、メイは日々を忙しなく過ごした。
そんな日々に弱音を吐きたくなることもあったが、メイには優秀な補佐官がいる。フロースのおかげでメイの負担はいくらか減り、こうして休日を得ることもできた。今頃、彼女も自身の社で休んでいることだろう。メイは心の中でフロースに感謝を述べ、もう一つ、メイの支えになっているものに思いを馳せた。
『人間界を頼みます、メイさん』
別れ際、ルカから託された言葉。界蝕光を消すことに囚われたメイに導師の使命は一つだけではないと思い出させ、そして恐らくは、メイが罪悪感なく人間界に戻れるようにかけられた優しい言葉に――願いに、メイは応えなければならない。
(ルカさん……)
あのときルカは微笑を浮かべており、真っ直ぐメイに向けられた瞳は慈しみに満ちていた。導師の霊光を吸収したルカにそんな余裕があるはずがないのに、それでもメイを見つめて微笑んだルカは本当に優しくて強い人だ。ルカに恥じない導師でいるためにも、メイに弱音を吐く暇なんてない。休日を過ごすことも憚られるほどだ。根を詰め過ぎて倒れたら元も子もないとフロースに説得されていなければ、今も執務室に籠もっていたと断言できる。
「エフィ、どうしたの?」
着信音が鳴り、メイは道の脇に寄ってスマホを耳に当てる。『そろそろ着くよ』というエフィの声の後ろで、リュールがメイの名を呼ぶのが聞こえた。
「わかった。エヴァンさんとメリナさんも一緒に来るんだよね?」
『急に任務が入ったんだって。騎士って大変だね』
残念だが仕方がない。メイはエヴァンとメリナが無事任務を遂行できるよう祈った。
「お菓子屋さんの近くにいるけど、何か買って――」
一際強い風が吹き、メイは左手でスカートを抑える。右耳に着けたイヤリングが軽やかな音を奏でる中、あれこれリクエストするリュールに呆れるエフィの声が聞こえた。髪とスカートを整えながら二人の会話に混ざるメイは、そこでふと、聞き覚えのある音を聞いた。金装飾が触れ合う、少し高い音。つい先程も聞いた――
『だからクッキー三箱は多過ぎ――メイ?』
小さな音だ。すぐ傍で鳴ったのならともかく、普通は聞こえるはずがない軽やかな音。だがメイの耳は間違いなくその音を捉えており、右耳で揺れるイヤリングが音の発生源でないことは確かだ。風が止み、イヤリングの揺れも収まっている。あの音は、どこから……。
『メイ? 聞こえてる?』
「ごめん、あとでかけ直すね」
スマホをポケットに突っ込み、メイは目を閉じて意識を凝らす。平日とはいえ人通りは多く、車や信号機の音も聞こえる。春の陽気に当てられた精霊達の賑やかな霊光も探知の妨げになったが、メイは落ち着いて周囲を探っていく。あれは――あの軽やかな音を奏でるイヤリングは、メイの霊光で作られている。誰よりも慣れ親しんだ霊光を見つけられないはずがない。右耳で揺れる片割れに少しだけ意識を向け、メイは目を開けた。
「っ、待って……!」
雑踏に見知った髪色が消える。脇目も振らずにメイは駆け出し、通行人を掻き分けながら白銀の髪を追った。信号が変わるのをもどかしく待ち、青になると同時にメイは地面を蹴る。他の通行人が迷惑そうに見てくるが、構っていられなかった。霊光を抑える心の余裕もなく、メイの黒く染まった髪は白銀に戻り、瞳の青を金が呑み込む。半精霊の身体能力も戻り、メイは走る速度を上げた。
「通して、通してください……!」
メイの姿に気づいた何人かが振り向き、足を止め、近づいてこようとする者もいる。彼等に悪意がないことは重々承知だが、相手をしている暇などない。メイは彼等を避け、視界から消えかける背中を必死に追った。
大通りから離れ、花霞が見え始めた場所にメイは見覚えがあった。個人経営の飲食店やお菓子屋さん、古本屋にアンティークショップなどがひっそりと建ち並び、小さな公園もある十字路――あの日以来、メイが特に訪れることを避けていた場所だ。メイがこの場所を訪れたから、ルカは……。
「この場所」
公園の前で立ち止まり、前を向いたまま彼が話す。近づきたい気持ちを必死に抑えつけて、メイは言葉の続きを待った。
「春になると、桜が満開になってすごく綺麗なんです」
彼が言う通り、周囲一帯は淡いピンク色に満たされて夢幻的に美しい。小さな公園を彩る桜も並木道のものに負けず劣らずの美しさを誇っており、メイは一瞬、この景色に飲み込まれそうになった。思考さえ奪うような美しい花々を意識から追いやり、メイは小さく頷く。背中を向けたままの彼が、嬉しそうに微笑むのがわかった。
「いつか貴女と見に行きたいって、ずっと思っていたんです」
視界を塞ぐほどの花吹雪が吹きつけ、メイはひどく焦った。彼が、いなくなると思ったからだ。そんなメイを落ち着かせるようにイヤリングが揺れ、霊光と霊光が呼応する。風が止み、淡い花弁の群れが消え――メイは、金瞳を瞠った。
微風に揺れる柔らかな鳶色の髪、メイを優しく見つめる美しく澄んだ紺碧色の瞳。どこか子犬に似ている顔には微笑が浮かんでおり、左耳でメイと同じイヤリングが揺れている。深紅色の上着が印象的な騎士服は傷一つなく、腰に下げた剣から霊光は感じない。メイが最後に見た姿とは違う、本来の彼がそこにいた。
「ルカ、さん……?」
メイの声は掠れて上擦り、メイ自身、ひどく聞き取りにくいものに感じた。そんなメイを咎めるでもなく、彼はメイの方へ歩み寄ってくる。二メートルほどの距離を保って足を止めると、彼は笑みを――メイがよく知る、優しい笑みを浮かべた。
「ルカ・グリント、ただいま帰還しました」
胸の奥にじわりとしたものが広がるのを感じたときには、もう手遅れだった。堪えようとしても視界が滲み、金瞳から溢れた涙が頬を伝っていく。せめて嗚咽だけは漏らさないようにしたかったが、駄目だった。ひどい顔をしているのは疑いようもない。メイは止めどなく溢れる涙を霊光で無理矢理止めて両目を拭った。
改めてルカを見つめる。泣いているメイを心配そうに見つめる姿も、「大丈夫ですか?」とかけられた耳に心地いい優しい声も、間違いなくルカのものだ。
何より――あの日以来感じられなくなったルカとの契約の繋がりが、はっきりと感じられる。胸の奥、魂の奥底の温かな繋がりが。再び溢れてくる涙を気にすることなく、メイは胸の前で両手を握った。ルカは、本当に帰ってきたのだ。シリウスの情けか、白い世界に導師ではないと気づかれたからなのか。何にせよ、ルカが帰ってきたことは素直に喜んでいいはずだ。
ルカに話したいことは山ほどある。だが、メイが今一番言うべき言葉は一つだけ。
「――おかえりなさい、ルカさん……ッ!」




