序章 未明の光 1
メイ・シュテルクローネを眠りから覚ましたのは、心臓を貫く激痛だった。
幼さを残す愛らしい顔が苦痛と恐怖に歪む。小さな口から溢れ出た血は肌を伝い落ち、白銀の美しい髪を汚した。
呼吸の度に全身の感覚が薄れていく。視界が徐々に暗くなり、体の芯が冷えていくのをメイはどこか他人事のように感じ、それに強い恐怖を覚えた。
死にたくない。その一心でメイは震える両腕を必死に動かし、ネグリジェから突き出る異物を掴んだ。先端が真っ直ぐになっていることを祈り、覚悟を決め――メイは、異物を一気に引き抜いた。
手の平に伝わる肉の抵抗と、体の内側を削り取るような激痛。声にならない悲鳴が上がり、金色の瞳から大粒の涙がこぼれた。
栓を失った傷口から鮮血が噴き出す。意識が遠退き、しかし即座に発生した温かく清浄な輝きがメイを優しく呼び戻した。
霊光。上位種――精霊が発生させる力だ。
霊光はあらゆるものに影響を与え、どんな傷も治すことができる。異物に貫かれたメイの体は瞬く間に癒え、白い肌には傷跡すら残らない。ネグリジェとベッドも元の姿を取り戻し、血の香りさえも消えた。
だが――死を間近に感じたあの恐怖は、少しも消えていない。
異物を投げ捨て、メイは金瞳に残る涙もそのままに胸に触れる。指を何度も這わせて傷が塞がっていることを十二分に確かめると、早鐘を打つ心臓が少しずつ落ち着きを取り戻してくれた。精霊の血を継いでいることに感謝する余裕も生まれ――
「メイ様!」
切羽詰まった声が薄暗い部屋に響き、照明が一斉に灯る。ベッドの側に発生した霊光は頼もしく、強い安心感を与えてくれるものだ。メイは慌てて涙を拭って体を起こし、花弁と共に現れた精霊の女性を見つめた。
薄紅色の髪を花の飾りがついたバレッタで留め、不安を浮かべた瞳は鮮やかな新緑色。黒いスーツを隙なく着こなし、しかし彼女が発する霊光は乱れている。彼女がここまで取り乱す姿をメイは初めて見た。
「フロース……」
都市の守護を担い、メイにとっては姉のような存在である花の精霊の名を呼ぶ。メイの無事を確認したフロースは少しだけ表情を和らげ、そっと口を開いた。
「悲鳴が聞こえたと報告を受けました。何があったのですか? 何度呼びかけても返事がなかったと……」
これ以上、フロースを心配させるわけにはいかない。メイは嘘をつくことにした。
「心配させてごめんね。これが顔の横に刺さってて、びっくりしちゃって」
言いながらメイはベッドを下りて異物を拾い上げる。華美な装飾が施された金色の杖だ。傘より長く、しかし見た目ほど重くない。不思議と手に馴染み、正装に似合うかなと、そんなことを考えた。
だがこれは、心臓を貫いた凶器。鏃のように鋭い石突に身震いし、メイは部屋を見渡した。
メイの部屋には霊光の加護がかけられている。部屋の前にいる二人の護衛を含め、入室するにはメイとフロース両方の許可が必要だ。フロースに匹敵する精霊であれば加護を無効化することは可能だが――
「フロース? どうしたの?」
鮮やかな花がフロースの周囲に次々と咲いていく。霊光が活性化――いや、暴走しているのだ。しかも咲いているのはすべて毒花。彼等は部屋どころか家全体を侵蝕する勢いで咲き続けており、メイの喉がひりつく痛みを訴える。だが家を侵蝕されることよりも喉の痛みよりも、俯いたまま微動だにしないフロースの方が心配だ。メイはフロースの顔に両手を伸ばした。
「……フロース、落ち着いて。わたしが誰か、わかる?」
名を呼び、フロースの顔を両手で挟んで前を向かせる。すると夢と現を揺蕩っているような瞳がメイを捉え、どこからともなく伸びた蔓がメイの細い首に緩く巻きついた。締めつける力は次第に強くなり、しかしメイは金瞳をフロースから逸らさない。十数秒そうしているとフロースは何度かゆっくりと瞬きをし、それでようやく自分が何をしているのか理解したのだろう。部屋を侵蝕していく花達が一斉に消えた。
「も、申し訳ありませんメイ様……!」
平伏する勢いで謝るフロース。蔓がメイの首から離れ、怯えたように萎れて枯れた。
ほっと息を吐き、メイはフロースの顔から手を離した。すると何を勘違いしたのかフロースは床に下りようとする。土下座でもするつもりなのかもしれない。メイは慌てて彼女の手を握り、にこりと笑ってみせた。
「ちょっと苦しかったけど、大丈夫だよ」
「ですが、」
「本当に大丈夫だから。ねぇ、フロースはこの杖を知ってるの?」
フロースは嫌なものを見る目を杖に向けた。それでもメイの問いに答えようとした唇が動き、しかし言葉は何も出ない。よほどこの杖に嫌な記憶があるのだろう。メイは杖がフロースの視界に入らないようにした。
静かな部屋に秒針が進む音だけが鳴る。メイは何の気なしにアンティークの柱時計に顔を向けた。丁度日付が変わり
「――ッ!?」
膨大な霊光が発生する。メイは全身の霊光が昂ぶり、内奥に眠る力が身じろぎするのを感じた。それを必死に抑えつけながらフロースを見れば、彼女は目を閉じて眉間に皺を寄せている。メイ同様、荒ぶりそうになる力に耐えているのだろう。
(何が起きたの……?)
困惑しながらメイはバルコニーに近づく。意識を凝らさなくても精霊達の様子が普段と違うことが感じ取れた。彼等は昼夜問わず賑やかだが今はフロースに怒られそうなほど騒がしく、霊光は異常に活性化している。夜中に騒いでフロースにこっぴどく怒られたことがあるから、この時間に精霊達が騒ぐことはないはずなのに。
仮に精霊達が原因だとしても、メイとフロースに影響を与えられるとは思えない。正体不明の気持ち悪さを感じながらメイはバルコニーに出た。
警備魔具が次々に落下していく。その原因を捉えたメイは金瞳を驚きに見開いた。
夜空に淡く溶け、美しい虹色の輝きを放つ帯状の高濃度霊光の塊。静かにこぼれ落ちる霊光粒子が弾けると、星を霞ませる閃光がいくつも刻まれた。
「なんで霊光帯が……」
霊光帯は精霊界と人間界を隔てる境界が解けた際に出現するものだ。この現象は毎年四月に起き、二日後には境界が修復されて霊光帯は姿を消す。出現している三日間に大規模なお祭りが開催されるため霊光帯の出現を心待ちにする人は多い。メイもその一人だ。
だが今は十月。霊光帯が出現するはずがない。
精霊達が悪戯で作る偽光帯かも。メイはそう考えた。いつもより眩しくて霊光濃度が高いのは、精霊達が張り切って作ったから――
「界蝕光……」
怖気がした。音もなく近づいてきたフロースに対してではない。彼女が口にしたものにメイは強い恐怖を感じたのだ。
かつて人間界を滅ぼしかけたもの。それが界蝕光だ。
界蝕光が出現したのは今から三千年ほど前。虹色の輝きが空を蝕み、こぼれ落ちる霊光粒子が大地を穿つ。上がり続ける霊光濃度は人間に耐えられるものではなく、多くの人が霊光中毒を起こした。常に鮮やかな空と極端に変わる気温で体調を崩した人も大勢いるだろう。
界蝕光の影響を一番受けたのは精霊達だ。霊光を活性化させた彼等は自我を失い、暴走した。風の精霊は大嵐を、水の精霊は水害を起こす。地の精霊は大地を揺らし、火の精霊は何度も大火を起こした。
暴走したのは彼等だけではない。異常生長し家屋を破壊した植物は花の精霊、天から無数に降り注ぐ眩い柱は光の精霊によるものだ。死者達が行き着く場所、幽界から這い出てきた精霊達は、生き延びている人々を次々と死に誘った。
この災厄から人間界を救ったのはシリウスという英雄だ。霊光に導かれて聖域に向かった彼は界蝕光を封印し、暴走し続ける精霊達を眠らせたと伝えられている。
ふと思ってメイは部屋を振り返る。ベッドの上に置いた金色の杖が淡く輝き、霊光に姿を変えるのが見えた。半ば無意識に手を向けると黄金色の霊光はメイに吸い寄せられていき、触れると同時に同化する。即座に馴染んだ霊光が全身を巡り、メイは活力、そして強い使命感が湧き上がるのを感じた。
シリウスを導いた霊光が、この金杖だとしたら。そう考えればフロースの反応にも納得できる。彼女は悠に三千年以上生きているのだ。導きの杖の出現が何を意味するかを知っていたに違いない。当時の惨状を思い出してしまったから、霊光を暴走させてしまったのだろう。
「……フロース、大丈夫?」
「大丈夫です。もう二度と、あのような過ちは犯しません」
毅然と答えるフロース。メイは頷き、意識を外に凝らした。
精霊達に意識を繋いでいく。霊光を活性化させているものの、彼等は少しずつ落ち着きを取り戻していた。誰が作った偽光帯なのかな。そう呑気に話し合っている声も聞こえた。
霊光を暴走させている精霊がいないことにほっと息を吐き、メイは精霊達の目と耳を借りてこの地に暮らす人々の様子を見る。突如出現した霊光の塊に対してまた精霊様の悪戯かと笑う人もいれば、美しい輝きを写真に収める人もいる。霊光の影響を受けて不具合を起こした魔具に文句を言っている人もいた。一番多いのは簡易祭壇に祈りを捧げる信徒達。今のところ、空に浮かぶものが界蝕光だと気づいている人はいない。きっと、この都市以外の人間も同じだろう。メイは度々偽光帯を出現させる精霊達に感謝した。
精霊達との繋がりを切り、メイは意識を更に遠くへ――都市の外へと向ける。直後、各地の守護精霊達の様子が苦痛を伴ってメイに雪崩れ込んだ。視界と声が入り乱れ、怒りや恐怖といった感情までもが次々と流れ込み――
「メイ様!」
耳朶に響く声がメイを呼び戻す。荒い呼吸を繰り返しながらメイは痛む胸を押さえた。あと少し、フロースが声をかけてくれるのが遅かったら。メイは身震いした。
「……ごめん。助けてくれて、ありがとう」
「焦る気持ちはわかります。ですが、遠方の守護精霊に意識を繋ぐなど無謀ですよ」
怒った声だった。メイはもう一度謝り、フロースに促されるまま部屋に戻った。
「各所への連絡は私にお任せを。メイ様は、お休みになってください」
「……界蝕光の封印が解けたのに、休んでる暇なんてあるの?」
「幾日かの猶予があります。その間に準備を整えて、共に聖域に向かいましょう」
メイの目を真っ直ぐ見つめてフロースはそう言った。一番信頼できる精霊の言葉にメイは頷き、フロースが差し出した白い花――安眠効果のある花の束を受け取る。ほのかな香りに早速眠気が訪れ、メイは欠伸を堪えながらフロースを見つめた。
「おやすみ、フロース。貴女もちゃんと休んでね」
おやすみなさいませ、と微笑んでフロースが姿を消す。彼女の霊光を辿ると、部屋の前にいる護衛達と話しているのが感じ取れた。フロース達の会話に混ざりたい気持ちはあるがとにかく眠い。メイは花束をサイドテーブルに置き、倒れるようにしてベッドに転がり目を閉じ
「メーイー?」
可愛らしいが、不機嫌な声がメイの耳元で囁く。一拍遅れてドアが勢いよく開き、吹き荒れる突風が花の香りごと強烈な眠気を消し去った。
突然のことにメイは飛び起き、すぐ側でこちらを見つめる顔に悲鳴を上げそうになった。その反応がよほど気に食わないのだろう。精霊は眉をひそめた。
「は……? 可愛いぼくを見てそんな顔するなんて、ひどくない?」
可憐な少女と見紛う華奢な少年だ。白緑色の長髪に、髪と同色の大きな瞳。身につけているのは明らかに女性物のルームウェアだが違和感は少しもない。何より目を引くのは純白の美しい腰羽だ。
風の精霊エフィ。フロースと同格の守護精霊だ。
「エフィ……? こんな時間にどうしたの? あれ、フロース達は……?」
「邪魔だから気絶させた」
意味がわからない。メイは呆然としたが、エフィは気にすることなく部屋を物色している。ほどなくして彼は長方形の薄い物体――エフィ曰く、人類の叡智の結晶であるスマートフォン片手にメイの元へと戻ってきた。その顔は、まだ不機嫌なままだ。
「未読スルーはマナー違反だよ。次から気をつけてね」
そう言ってメイにスマホを渡すと、エフィはどこからともなく取り出したトランクケースを押しつけてくる。理解が及ばないメイは首を横に振った。
「待ってよ。急に来て何がしたいの? フロース達にあんなひどいことまでして……!」
「そんなに怒んないでよ。殺してないんだからさぁ」
髪を指に巻きつけているエフィに反省の色はない。それどころか腰羽でメイを叩いて「はーやーくー」と急かしてきた。
「界蝕光のことは知ってるでしょ。迎えに来てあげたんだから感謝してよ」
「勝手なこと言わないで! 聖域にはフロースと一緒に、」
「へぇ?」
片眉を上げ、エフィは倒れたフロースに目を向ける。侮蔑しているようにも、哀れんでいるようにも見える目だった。
「予想通りってわけか……。メイ、眠り姫にならなくてよかったね?」
眠り姫。その言葉にメイは室内を見る。エフィの風によって花弁を散らされた、安眠効果のある白い花達。一輪あれば十分に効果を発揮してくれるものだ。それをフロースは花束にしてメイに渡した。ぐっすり眠ってほしいという気遣いだとメイは思っていたが――
「……わたしが眠ってる間に、フロースだけで聖域に行こうとしてたってこと?」
エフィが気怠げに頷く。メイはネグリジェをぎゅっと握った。裏切られたとは感じない。ただ、嘘をつかれるほど頼りないと思われる自分が嫌だった。
「界蝕光はメイにしか封印できないのにね」
「そうなの……?」
「そうじゃなかったら、こんな時間に押しかけるわけないじゃん」
エフィの言う通りだ。フロースに界蝕光の封印ができるのなら、エフィは今頃彼を祀る社で眠っているはず。服装が何よりの証拠だ。
「じゃあ、どうしてフロースはわたしを眠らせようとしたの……?」
「知らないよ。とにかく、界蝕光を封印するのはメイの役目なの。ほら、早く準備して」
ぺちぺちと腰羽が叩いてくる。「わかったから、やめて」と言ってメイは荷造りをし、それを終えるとエフィを呼んだ。彼はいつの間にかベッドに寝転がってうとうとしていた。そういえば、彼の霊光は普段より弱いような……。
「……遅いよばーか。本当に寝ちゃうとこだったじゃん」
メイの視線に気づくとエフィは悪態をつきながらベッドを下り、手を差し出してきた。その手を取りかけ、メイはまだ意識を失っているフロース達を振り返る。自然と、足が動いた。
「メイ?」
「ちょっと待ってて」
エフィの舌打ちを無視してメイは気絶させられたフロースと二人の護衛の傍に屈んだ。三人とも普段からは想像できないくらい無防備な姿をしている。怪我はしていないようだが、メイはフロース達にそっと両手をかざした。少し力を込めると温かな霊光がこぼれ、彼女達の体を優しく包み込む。これで目が覚めたときに全身が痛い、なんてことにはならない。フロース達が倒れているのは大理石の廊下なのだ。
本当は、部屋に運びたいけど。二回目の舌打ちが聞こえる前にメイは立ち上がった。
「――いってきます」




