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『成長条件は、自分で探せ。~異世界の食堂から始めるレベルアップ~』  作者: ジャズ


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第12話 約束の分だけ



「……何を見てるの?」


彼女の声で、俺は目の前へ意識を戻した。


浮かんだ文字が消える。


イシス。


その名前の意味を考えるより先に、支えている手が動いた。


「離して。もう立てるから」

「待って。傷に土がついてる」


彼女は掌を見た。

赤く擦れたところに、小さな砂粒が残っている。


握ろうとして、やめた。


「……分かってるわよ」


背後で、男が足を鳴らした。


「いつまでやってる。邪魔なんだよ」


振り向きかけたとき、横から水筒が差し出された。


「水なら、これを使え」


馬車の脇にいた御者だった。

俺たちへ水筒を渡すと、男を見た。


「荷の前で人を押すな。馬が驚くだろうが」

「大げさなんだよ。ちょっと触っただけだ」


御者は答えず、俺へ顎を向けた。


「早く洗ってやれ」


俺は礼を言って、彼女を見た。


「流すよ」


彼女が小さく頷いた。


水を細く落とす。

傷についていた土が、薄い血と一緒に流れた。


指先が、俺の手の上で少し強張る。


痛いのだろう。


その手を見ていると、胸の奥の熱が、また動いた。


腕を伝って、指先へ。


さっきより、はっきり分かった。


火を作るときとは違う。

剣へ力を通したときとも、少し違う。


流れていこうとするものを、邪魔しないようにする。


彼女の手首を支えたまま、もう片方の手を傷の上へ近づけた。


「今度は、何——」


言葉が止まった。


俺の指の下に、淡い光が灯っていた。


*


光は、傷の上を薄く覆った。


眩しくはない。

朝の明るさの中では、目を凝らさないと見落としそうだった。


けれど、そこにあった。


彼女が息をのむ。


「傷が……」


赤く擦れていた端が、少しずつ塞がっていく。


血がにじんでいたところに、薄い皮膚ができていた。

全部ではない。

深く擦れた真ん中は、まだ赤い。


それでも、さっきまでとは明らかに違った。


「痛い?」

「……さっきより、痛くない」


俺は彼女の顔と、手を交互に見た。


これが、イシス。


「回復の、魔法なのか」


口に出した途端、腕の奥が重くなった。


流している力が、思っていたより多い。


俺は慌てて意識を緩めた。


光が薄くなり、消える。


彼女は自分の掌を顔へ近づけた。

指をゆっくり伸ばし、また曲げる。


「治ってる……」


その声を聞いて、ようやく俺も息を吐いた。


何とかしたいと思った傷が、少し治った。


嬉しかった。


でも、もう一度すぐにやれと言われたら、困る気もした。


視界に、新しい文字が浮かんだ。


【魔力が1上昇しました】


初めて使えた魔法で、また少し伸びたらしい。


ただ、腕の重さが消えたわけではなかった。


俺は支えていた手をゆっくり離した。


「全部は、治ってない」

「分かってる」


彼女はそう言ったあと、傷の端を見つめた。


「でも、ここ。さっきまで切れてた」


俺も頷いた。


確かに、そこは治っていた。


*


「へえ。そんなことはできるのか」


男の声がした。


顔を上げると、俺の手を見ていた。


「だったら、もういいだろ。そいつも動ける。箱を戻せよ」


彼女の目つきが変わった。


俺は水筒の栓を閉め、御者へ返した。


「何で、戻す必要があるんだ」

「積み直すって言っただろ」

「どこへ運ぶ荷物なんだ?」


男の眉が動いた。


俺は立ち上がった。

脚が少し痛んだが、支えは要らなかった。


「下ろす場所を間違えたのか。それとも、馬車が変わったのか」

「お前に説明する必要があるか」

「俺にはなくても、この人にはあるだろ。仕事を増やすなら」


彼女が隣へ立った。


「私が聞いたのは、荷台の箱を全部下ろして、ここに並べることです。鐘が鳴るまでに終えたら、銅貨八枚」


彼女は並んだ箱を示した。


「終わっています。まだ、鐘も鳴っていません」


男は鼻を鳴らした。


「俺が終わりだと言うまでが仕事なんだよ」


便利だ。


頼んだ側の気が変われば、終わりがなくなる。


俺は一度、男から視線を外した。


木箱。

荷台。

その脇の御者。


「この馬車の持ち主は、どこにいますか」


御者が東門のほうを見た。


「今、戻ってきた」


*


荷札を手にした男が、こちらへ歩いてきていた。


俺たちより年上で、袖口には細かい埃がついている。


空になった荷台を見て、足を止めた。


「終わってるな。どうした」


嫌な男が、先に口を開いた。


「こいつが報酬でもめてるんですよ。仕事が遅いくせに、満額払えと」

「遅い?」


持ち主は門のほうを見た。


鐘は、まだ鳴っていなかった。


「昼の鐘までに下ろせればいい、と言ったはずだが」


彼女が一歩前へ出た。


「私も、そう聞きました。荷下ろしまでで銅貨八枚です。でも、半分しか渡されませんでした」


男が舌打ちする。


「だから、積み直しが残って——」

「積み直し?」


持ち主の声が低くなった。


「どの荷を」

「これを、一度——」

「それは、向こうの倉へ入れる荷だ。何で戻す」


男の口が止まった。


御者が腕を組んだ。


「戻せと言われて、この子が持とうとした。それから押されて、転んだ」


「勝手に足を引っかけたんだ」

「俺も見ました」


俺は言った。


「肩を押されて、後ろの箱につまずいた」


持ち主は彼女の手を見た。

水で濡れた袖口と、まだ赤い傷へ目を留める。


それから、男へ向き直った。


「俺が協会へ頼んだのは、荷下ろしの人手を集めて、現場を見てもらうことだ。勝手に仕事を増やせとは言ってない」


これで、ようやく関係が分かった。


馬車と荷の持ち主。

その依頼を受け、人を集めて仕切っていた男。


この男は、荷物の行き先を決める人ではなかった。


「人を集めるのだって、楽じゃないんですよ」

「その手間の分は、別に話をつけてある」


持ち主は、彼女を見た。


「八枚と約束したんだな」

「はい」

「ほかに、途中で減らす条件は?」

「聞いていません」


男は何か言いかけた。


持ち主が、それを遮った。


「約束した分を払え」


*


男は腰の袋を開いた。


硬貨を出し、指先で数える。

さっきより、ずっと長くかかった。


彼女へ手を差し出す。


俺は動かなかった。

彼女も、すぐには手を伸ばさなかった。


「八枚ですね」


彼女が言った。


「そうだよ。さっさと——」

「ここへ置いてください」


木箱の上を示す。


男は乱暴に硬貨を置いた。


彼女は一枚ずつ数えた。


一、二、三。


風で額の髪が動いたが、払わなかった。


四、五、六。


俺も、硬貨を見ていた。


七、八。


彼女は、もう一度だけ確かめた。

それから、自分の袋へ入れた。


「受け取りました」


強く言い返したわけではなかった。


ただ、仕事の終わりを、自分でも確かめるような声だった。


持ち主が頷いた。


「悪かったな。こちらの荷の仕事で、怪我までさせた」


彼女は少し迷ってから、答えた。


「次からは、最初の条件を変えないでください」

「ああ」


持ち主は男へ向いた。


「お前は残れ。協会に出す仕事の記録も、ここで確認する」


男の顔が歪んだ。


こちらを見たので、俺も見返した。


言いたいことは、まだあった。


けれど、彼女の報酬は払われた。

ここから先の言い合いまで、俺が引き受ける必要はない。


俺は視線を戻した。


地面へ沈んだ木箱が、まだそのままだった。


「あの箱も、見てもらえますか」


持ち主が眉を寄せる。


「箱?」

「この男が手を置いてから、急に動かなくなったんです」


「余計なことを——」


男が口を挟んだ。


持ち主は、その声のほうを見た。


「何をした」


少し、間があった。


男は答えず、木箱へ近づいた。


掌を置く。


俺は、その手を見ていた。


男が何かを小さく呟くと、箱の周りの土が、わずかに崩れた。


御者が反対側を持つ。


今度は、持ち上がった。


彼女が短く息を吐いた。


俺は、土に残った深い跡を見た。


さっき一瞬、彼女はこれを浮かせていた。


そのことを聞きかけて、やめた。


彼女はもう、包むように右手を押さえていた。


今日は、先に済ませることがあった。


*


馬車から少し離れたところで、俺は立ち止まった。


隣を歩いてきた彼女も止まる。


そこで初めて、お互い、次にどちらへ行くのか知らないことに気づいた。


「もう、大丈夫?」


俺が聞くと、彼女は少し眉を上げた。


「お金なら、もらったでしょう」

「手のほう」


彼女は掌を開いた。


傷は残っていた。

でも、新しく血がにじむことはなかった。


「……大丈夫」

「よかった」


俺は自分の手を見た。


さっき、ここから光が出ていた。


触れた傷が、治っていった。


思い出すと、まだ少し落ち着かなかった。


「あなたこそ」


顔を上げると、彼女がこちらを見ていた。


「ちょっと、顔色悪くない?」

「そう?」

「さっきより」


魔力を使ったせいだろうか。


俺は一度、深く息をした。


「少し疲れただけ」

「人には大丈夫かって聞くのに、自分はそれなのね」


返す言葉が、あまりなかった。


近くの低い石の縁へ腰を下ろす。


彼女は俺を見下ろしてから、もう一度、自分の手へ目を落とした。


「……さっきの」


「うん?」


「手に、何かしてくれたでしょう」


俺は頷いた。


「たぶん、回復の魔法」

「たぶん?」

「使えたの、初めてで」


彼女は目を丸くした。


「初めて?」

「うん」

「初めてで、人の手に?」


そう言われると、もっともだった。


「ごめん。痛そうだったから、何とかしたくて」


彼女は俺の顔を見た。

何か言いかけて、口を閉じる。


それから、少しだけ声を落とした。


「……治ったから、いいけど」


指をゆっくり曲げる。


さっきのようには、顔をしかめなかった。


「全部じゃないけど。さっきより、ずっと楽だから」


その顔を見て、俺もようやく肩の力が抜けた。


「ありがとう」


小さな声だった。


聞き返すほどではない。

でも、通りの音に混ざれば、聞き逃していたかもしれない。


「手のも。お金の話も」


俺は頷いた。


「どういたしまして」


彼女は目をそらした。


「助けてって、言ったわけじゃないからね」

「うん」

「……また、それ」


少しだけ、口元が緩んだ。


*


馬車のほうから、持ち主の低い声が聞こえていた。


まだ、話は続いているらしい。


彼女はそちらを一度見たが、戻ろうとはしなかった。


代わりに、俺へ顔を向けた。


「あなた、名前は?」


そこで、ようやく気づいた。


知っているのは、働いた分の銅貨をちゃんと受け取ろうとする人だということ。

怪我をしたあとでも、俺が巻き込まれるのを心配した人だということ。


名前は、まだ知らなかった。


「ジャズ。俺は、ジャズ」


彼女は、その名前を一度、小さく繰り返した。


それから、右手を下ろした。


今度は、傷を隠すためではなさそうだった。


「私は、セレネ」


まっすぐ、目が合った。


「……覚えておいて」

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