第二段階:揺れ動く人間関係
2007年3月12日(火)
午前9時46分
ブレルトイユ総合病院
1
その日の太陽は眩しかった。
空はどこまでも広がっていて、青く、透き通っていて、まるでガラスみたいだった。ずっと見つめていたら、簡単に割れてしまいそうなくらい脆く見える。
鳥たちは自由に空を横切り、その鳴き声が風に運ばれていた。
その下では、人々がいつもの日常を過ごしている。
誰かと話しながら歩く人。
学校へ向かう学生。
仕事へ向かう大人たち。
まるで今日が、何の変哲もない普通の日であるかのように。
世界は生きていた。
そして、とても暖かそうに見えた。
ブレルトイユは、住みやすい街として知られている。
大きな事故は滅多に起こらず、人口はおよそ二十万人。
住宅街や商店街、そして郊外の自然が程よく混ざり合っている。
三十キロほど離れた場所には大きな都市もあり、公共交通機関も整っていた。
学校もある。
レストランもある。
個人商店もある。
住宅街もある。
客観的に見れば、「平和な街」と呼ばれる場所だった。
セシリアとリアンは、そんな街で生まれ育った。
昔は、二人ともここを「家」だと思っていた。
少なくとも、セシリアもそうだった。
昔は。
でも、それはもう随分前の話だ。
入院する前から、彼女は長く続く友人を作れなかった。
中学一年生を過ぎた頃だっただろうか。
心のどこかが、静かに閉じてしまった。
まるで、自分の内側から扉を閉めるように。
人と話すことが、好きじゃなくなった。
唯一、会いたいと思える相手だけはいる。
兄だった。
別に、いじめられていたわけじゃない。
そんな単純な話ではない。
もっと静かで、もっと曖昧なものだ。
時間をかけて、自分一人で辿り着いた結論。
人は善人じゃない。
少なくとも、そう見えなかった。
人は残酷だ。
ただ、それを隠すのが上手いだけ。
優しさや礼儀で包み込んで、日常の中に溶け込ませている。
この街だってそうだ。
綺麗で、穏やかで、整っている。
でも、それは安心じゃない。
表面を磨き上げているだけ。
その下に何があるのか、誰も見ようとしないだけだ。
……私には変えられない。
こういう人間には無理だ。
弱い。
小さい。
簡単に見過ごされる。
そして今、病院のベッドにいることで、その事実はさらに現実味を帯びていた。
人生は平等なんかじゃない。
公平さなんて待ってくれない。
機会を、全員に同じように配ってくれるわけでもない。
努力すれば夢が叶う世界。
誰にでも同じチャンスがある世界。
そんなものは、今の彼女には幼稚な理想論にしか思えなかった。
努力が報われることもある。
報われないこともある。
それなのに、それを「公平」と呼ぶのは。
人々を安心させるための言葉にしか見えなかった。
もし別の人生があるのなら。
その時は、少し違っていたのかもしれない。
そう思った。
希望としてではなく。
ただ、希望が存在しない場所に浮かんだ考えとして。
2
セシリアは目を開けた。
ゆっくりと目を擦り、身体を起こす。
両腕を伸ばしながら、眠気を追い払おうとした。
隣のベッドを見る。
空っぽだった。
「……いない。」
昨夜、兄が寝ていた場所には誰もいない。
「仕事かな……。」
リアンは配達員として働いている。
彼女の治療費を稼ぐために、一度大学を休学した。
長い労働時間。
短い睡眠時間。
終わりの見えない仕事。
それは知っている。
ずっと前から知っている。
だからこそ、辛かった。
彼が働く一時間。
その一時間は、本来なら失わなくてよかった時間だ。
全部。
私のために。
胸が締め付けられる。
私が唯一、大切だと思っている人。
そして――
今でも私を大切にしてくれる、たった一人の人。
「……お兄ちゃん。」
声が少し震えた。
涙が頬を伝う。
「ごめんなさい……。」
目元を手で拭う。
でも、止まらない。
次から次へと流れてくる。
こんなの、望んでない。
最初から望んでなんかいない。
私なんかのために。
人生を削ってほしくない。
嫌だ。
本当に嫌だ。
嫌いなのは、お兄ちゃんじゃない。
どうして、お兄ちゃんなんだろう。
どうして、私なんだろう。
どうして、こんな人生を選び続けてくれるんだろう。
セシリアの中には、整理しきれない後悔が積み重なっていた。
妹としての後悔。
娘としての後悔。
そして、今に繋がってしまった全ての選択への後悔。
彼女は窓の方を見る。
外の世界は静かだった。
明るくて。
綺麗で。
まるで何事もないふりをしているみたいだった。
……綺麗だな。
そう思った。
でも、遠い。
長い間、外に出ていない。
もう、自分の居場所のようには感じられなかった。
知らない場所みたいだった。
この部屋の中は安心する。
だからだろうか。
外へ手を伸ばすことを、いつの間にかやめてしまったのは。
ここにいる時間が長くなるほど。
世界は小さくなっていく。
そして、小さくなるほど。
そこへ戻る想像ができなくなっていく。
もう少し人に心を開いていたら。
もう少し頑張っていたら。
もう少し違う人間だったら――
そこで、考えるのをやめた。
3
セシリアにとって、たった一人の友達だったその子は、数年後には彼女の前からいなくなっていた。
二人が出会ったのは小学四年生の頃だった。
あの頃は、何もかもが小さくて、単純だった。
子供だからこそ許される、あの独特な世界の狭さがあった。
幼くて、静かで、そしてどこかで、この毎日がずっと続くものだと信じていた。
彼女は今でも覚えている。
一緒に学校へ行ったこと。
一緒に帰ったこと。
昼休みに隣同士で座って、お昼ご飯を食べたこと。
思いついたことを何でも話したこと。
それが大事かどうかなんて、考えたこともなかった。
あの頃は、そんなことどうでもよかった。
ただ、一緒にいたかった。
笑いたかった。
話したかった。
時間が重く感じないまま、過ごしたかった。
友達になって一年ほど経った頃、その男の子は彼女に天文学を教えてくれた。
それは、本当に突然だった。
「絶対面白いって! セシリアって綺麗なもの好きだろ? だから絶対気に入るよ!」
「……うん。分かった。信じる。」
「よっしゃあ!」
星なんかのことで、どうしてそこまで嬉しそうなんだろう。
当時の彼女はそう思っていた。
でも、彼についていった。
それから少しずつ、彼は知っていることを全部教えてくれた。
星座。
恒星の名前。
星団。
夜空に隠された神話の話。
新しいことを知るたびに、彼女の中で何かが少しずつ変わっていった。
まるで、自分の視線を置ける場所を見つけたみたいに。
「じゃあ、これは?」
「ああ、オリオン座だね。有名だよ。ベテルギウスとリゲルっていう星があるんだ。」
彼はいつも、当たり前みたいな顔で言う。
後になって知ったことだけれど、その知識はお父さんから教わっていたらしい。
家では毎日のように星の話を聞いていて、そのあと自分でも調べていたそうだ。
まるで、一生かけても理解しきれないものを追いかけているみたいに。
しばらくの間、二人はずっと一緒だった。
それが特別なことだなんて、考えたこともない。
学校では、他の誰ともあまり話さなかった。
そして、他の誰も彼らに話しかけなかった。
クラスメイトたちは、二人の少し変わった趣味ごと、そっと放っておいてくれた。
まるで、自分たちだけ別の世界にいるみたいだった。
だから、うまくいっていたのかもしれない。
世界に受け入れてもらう必要がなかったから。
「……元気にしてるといいな。バカ。」
セシリアは横向きになって、再びベッドへ沈み込んだ。
食欲はない。
動きたくもない。
何かを考え続ける気力もない。
ただ、疲れていた。
「……疲れた。」
小さく呟きながら、彼女は目を閉じる。
今だけは。
眠ることだけが、何かを思い出すことを求めてこなかった。
4
リアンは努力家だった。
朝から晩まで働いている。
妹の治療費を払うため。
家賃を払うため。
食費を払うため。
服を買うため。
生活を続けるために必要なもの、その全部のために。
簡単なことではない。
むしろ、簡単だと思える日はほとんどない。
それでも働き続けていた。
彼の中では、他の選択肢なんて存在しなかったからだ。
妹は、自分が世界で一番大切にしている存在だった。
その事実だけで十分だった。
「あと数件で休憩だな……。」
大学時代の彼は、それなりに充実した生活を送っていた。
今は休学しているが、街の人たちは今でも彼のことを覚えている。
真面目で、優しくて、頼れる人。
理由なんてなくても、自然と信頼されるような人間だった。
明るい人だ、と言う人もいる。
運動が好きで、活発で、人と話す時はよく笑う。
まるで太陽みたいだ、と。
妹とは正反対だ、と言う人もいるだろう。
でも、リアン自身はそんな風に考えたことはなかった。
彼女は光でも闇でもない。
ただ、少し複雑な人間なだけだ。
全部を理解できるわけじゃない。
それでも、傍にいたいと思う相手だった。
彼の人生観は、とても単純だった。
人が好きだ。
お客さんとの何気ない会話も好きだ。
配達中に交わす短いやり取りも好きだ。
長く続かなくてもいい。
その瞬間に意味があれば、それでいいと思っていた。
人生は永遠の何かを探すものじゃない。
日々の小さな欠片を積み重ねていくものだ。
そんな風に考えていた。
「やっと休憩だ……。」
彼は静かな公園のベンチに腰掛ける。
バッグの中から昼食を取り出した。
水のペットボトル。
そして、鶏肉とレタス、チーズに少し辛いソースを挟んだサンドイッチ。
「さて……食べながら少し読もうかな。」
スマホを取り出し、電子書籍アプリを開く。
今読んでいるのは、好きなホラー系ファンタジー小説だった。
大した理由はない。
ただ、休憩時間に読むのが好きなだけだ。
安全な場所で怖がること。
それが少しだけ心地よかった。
「リアーーーン!!」
遠くから声が聞こえた。
彼は画面から顔を上げる。
公園の向こうから、一人の女性が走ってきていた。
ちゃんと見るまでもない。
すぐに誰か分かった。
茶色い髪。
緑色の瞳。
緑色のヘアピン。
オレンジ色の服装。
小さなバッグ。
歩きやすそうなブーツ。
エリンだった。
セシリアを一年三か月担当している看護師だ。
今日は彼女の休日だった。
つまり、今病院ではナスヤがセシリアを担当している。
……そのことについては、二人とも深く考えなかった。
二人の関係は少し不思議だった。
病院では、とても仕事らしい関係になる。
丁寧で、落ち着いていて、少し距離がある。
でも、一歩外へ出ると、空気が柔らかくなる。
友達のようでもあり。
それ以上の何かのようでもあり。
でも、どちらでもない。
そんな曖昧な場所に落ち着いていた。
セシリアの入院が、知らないうちに二人を近づけていたのだ。
「あれ、エリン。こんなところで会うなんて珍しいね。元気?」
リアンが立ち上がりながら言う。
すると、エリンはいつもの勢いで返した。
「元気に決まってるでしょ、このノロマ頭!」
そしてそのまま、一気に話し始める。
天気が最高なこと。
本屋へ行くこと。
大好きなライトノベルの英訳版を九か月待っていたこと。
出版社が遅すぎること。
もう全部、止まらない。
リアンは一瞬だけ頭を整理する時間が必要だった。
「……元気すぎるよ。ちょっと脳みそが追いついてない。」
エリンは彼をじっと見つめる。
そして笑った。
「ほらね。だからノロマ頭って言ったじゃん。」
「うるさい。」
別に喧嘩ではない。
いつものことだ。
そのあと話題は自然と移っていった。
マイナー作品の翻訳が遅すぎること。
リアンがドイツ人作家の新刊を三年間待っていること。
二人とも、その手の不満だけはすぐに意気投合する。
「小さい作品だって大事なのにね!」
エリンは身振り手振りを交えて力説する。
少し大袈裟なくらいに。
リアンは苦笑いしながら見ていた。
慣れている。
慣れているけど、たまに勢いに押される。
そんな感じだった。
すると突然。
ぐぅぅぅ……
エリンのお腹が鳴った。
彼女はすぐにサンドイッチを見た。
すごく分かりやすい目だった。
リアンは苦笑いしながら包み紙を閉じる。
「……ちゃんとしたご飯でも食べに行く?」
「え、本当に?」
「今日は俺が払うよ。」
「わぁ。危険な優しさだね、それ。」
「その言い方は信用できないな。」
「大丈夫大丈夫。お財布壊してあげる。」
「……全然大丈夫じゃない。」
そう言いながらも、二人は歩き出した。
何気なく。
本当に何気なく。
リアンはエリンの手を取った。
エリンは離さなかった。
むしろ空いている方の手を空へ向かって突き上げる。
「わーい!!」
周囲の視線なんて気にしていない。
リアンは小さく息を吐いた。
本来なら、騒がしいと思うはずなのに。
なぜか、少しだけ心地よかった。
5
仲の良すぎる二人は、先ほどリアンが話していたレストランの数メートル手前に立っていた。
そこはかなり高級感のある店で、トルコ料理、フランス料理、そして日本料理を一つの屋根の下で提供している。この町では唯一そんな形態のレストランだった。
他の店といえば、ハンバーガーショップやピザ屋、タコススタンドのような軽食店ばかりで、特別高級というわけではない。
「わぁ、すごいねここ。」
エリンは建物を見上げながら、リアンの隣へ近づいた。
「前に来たことあるんだよね? でも、全部高そうだし……ちょっとお財布が心配になってきた。」
「セシリアの十三歳の誕生日に来たんだよ。」
リアンは懐かしそうに答える。
「あの時はすごく楽しみにしてたな。高級レストランに来るのが夢みたいだったんだよ。フランスとかゲルマンの王族の本ばっかり読んでたから、少し影響されたんだと思う。」
セシリアは、まだ体が自由だった頃はよく本を読んでいた。
熱狂的というほどではないが、習慣として続けていた。
二百五十ページほどの本なら、三〜四週間くらいで読み終えていたし、たいていは寝る前の時間を使っていた。
「私は可愛いと思うけどなぁ。」
エリンはそう言いながら、何気なくリアンの頭をぽんぽんと叩いた。
「私たちだって毎日くだらないファンタジー小説読んでるじゃん。何が違うのよ、こののろまくん。」
「え、あっ……いや、そうだけど……。」
リアンは少し戸惑いながら返す。
「でも、そこまで夢中になってたわけじゃないっていうか……そういう意味でさ。」
「どもらないの、のろまくん。」
エリンは手を離した。
「それに、十三歳だったんだから許してあげなよ。」
「分かったって。でも、その呼び方やめてくれない? こう見えて結構頭はいいんだから。」
それは事実だった。
彼は天体物理学者を目指して物理学を専攻していたし、学生だった頃の成績も悪くなかった。
「でも、感情面の賢さはあんまりなさそうだけど?」
エリンはにやっと笑う。
もちろん、学力の話ではない。
「いや、感情面だってちゃんとしてるよ。」
リアンは反論した。
「落ち着いて集中しなきゃいけない場面なら、わりと得意だと思うけど。」
エリンはじっと彼を見つめた。
その視線だけで、まったく同意していないことが分かった。
「はいはい、そういうことにしとこっか。」
そんなやり取りをしながら、二人は店の中へ入った。
店内は暖かく、落ち着いた空気に包まれていた。
客たちは程よい声量で会話を交わしていて、静かすぎず、うるさすぎもしない。心地よいざわめきが空間を満たしている。
店全体のテーマは海洋生物だった。
大きな水槽には様々な魚が泳ぎ、壁や椅子も柔らかな青色で統一されている。
外の世界から切り離されたような、不思議な安心感のある場所だった。
「リアン、カウンターで二人席お願いしよ。」
「そうだな。」
空いている席はまだいくつかあったが、二人は窓際の席を選んだ。
そこからは通りを歩く人々が見えた。
そして、窓のすぐ外には大量のカラスがいた。
何羽も並び、ほとんど動かず、ただこちらを見つめている。
まるで何かを待っているかのように。
「……ねぇ、あのカラスたち、ちょっと変じゃない?」
エリンは少し窓から離れながら言った。
「食べ物を狙ってるだけじゃないか?」
リアンは答える。
「でも、まだ料理も来てないよ? なのにずっとこっち見てるじゃん。」
エリンは肩をすくめた。
「なんか気味悪いなぁ……。」
彼女は視線を逸らすためにメニューを開いた。
一方で、リアンはまだカラスを見ていた。
怖いわけではない。
ただ、妙な違和感があった。
理由は説明できない。
論理的な根拠もない。
ただ、何かがおかしい。
そんな感覚だけが残っていた。
でも、それに気を取られるほど重要なことなのかまでは分からなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
五分ほど経った頃、ウェイトレスがテーブルへやって来た。
かなり早い。
リアンはまだメニューをほとんど見ていなかった。
「バニラスムージーと……ピ、ピデをお願いします!」
エリンが少し噛みながら注文した。
ウェイトレスは笑顔で頷く。
ピデはトルコの伝統料理で、チーズやスパイスの効いた肉、ソーセージ、ほうれん草などを乗せて焼いた平たいパンだ。
よく「トルコ風ピザ」と例えられることもある。
「スムージーのトッピングはいかがいたしますか?」
「ダークチョコレートでお願いします!」
エリンは嬉しそうに答えた。
ウェイトレスは今度はリアンへ視線を向ける。
「お客様はいかがなさいますか?」
リアンはもう一度だけメニューを見た。
しかし、結局いつも通りの無難な選択に落ち着いた。
「フライドポテトと、サラダをお願いします。」
シンプルでいい。
面倒な注文はしたくなかった。
厨房の人たちを困らせたくもないし、自分自身も楽だからだ。
配達員として働いている彼は、料理人たちの大変さもよく知っていた。
ウェイトレスが去った瞬間、エリンが彼を見た。
「臆病者。」
「……え?」
「こんな高級レストランでサラダとポテトだけって、何なの? 妖怪? それとも化け物?」
「さすがに言いすぎじゃないか?」
リアンは少し苦笑した。
「美味しいとは思うけどさ。大げさだって。」
「そこじゃないの。」
エリンはメニューを指差す。
「ちゃんと見てもいないで決めたのが問題なの。」
メニューは三つのカテゴリーに分かれていた。
フランス料理。
『ムール・フリット』『キッシュ・ロレーヌ』『ブフ・ブルギニョン』『ステーク・タルタル』。
トルコ料理。
『ピデ』『マントゥ』『シシケバブ』。
そして日本料理。
『寿司』『お好み焼き』『刺身』『うなぎ』。
特に日本料理は値段が高かった。
海鮮料理が中心だからだろう。
その中でも、リアンの視線は自然とうなぎに止まった。
昔は大好きだった。
甘辛いタレが絡んだ柔らかな身。
何度食べても飽きなかった。
でも、それはセシリアが入院する前の話だ。
今では、こういう外食ですら贅沢に感じてしまう。
一方、エリンがピデを選んだのは決して欲張りだったからではない。
彼女は自分の分をこっそり払うつもりだった。
リアンの事情を知っているからこそ、これ以上負担を増やしたくなかったのだ。
「メニューが豪華なのは分かってるよ。」
リアンは言う。
「でも、やっぱりこれでいい。」
「臆病者。」
「やめろって、おチビさん。」
「私の方が年上なんだけど、このオタク。」
もちろん、リアンもそれは知っている。
ただ、からかうのが好きなだけだった。
少し間を空けて、彼が話題を変える。
「そうだ、エリン。『約束の地(The Promised Land)』って読んだことある?」
二人とも本やライトノベルが好きだった。
会うたびによく話題になる。
「うーん、ないかなぁ。名前だけは聞いたことあるけど。」
「どんな話なの?」
リアンは説明し始めた。
十六世紀を舞台にした、四人家族の物語。
荒廃していく社会と、自分のことしか考えない王から逃れながら、自分たちが本当に生きるべき場所を探して旅を続ける。
全二十巻にわたる長い冒険譚だった。
「へぇ~。」
エリンの目が少し輝く。
「面白そうじゃん。」
「でも、今十作品くらい積んでるんだよねぇ……。いや、でも始めちゃおうかなぁ……。」
彼女は気になった作品があると、すぐに読書リストへ追加してしまう癖があった。
「働きすぎだよ。」
リアンは呆れたように言う。
「一つずつ読めばいいじゃないか。その方がちゃんと楽しめると思うけど。」
「でも時間かかるんだもん。」
エリンは頬を膨らませる。
「それに話題も欲しいし。追いつかなきゃいけないの! もう私、歳なんだからぁ~、リアーン!」
「二十代なんて全然若いだろ。」
リアンは笑った。
「人生全体で見たら、まだまだだよ。」
「いやいやいや!」
エリンは突然大げさな動きを始める。
「もうおばあちゃんだよぉ~! 老化してるぅ~! 助けてぇぇ~!!」
もちろん冗談だ。
「だから、レストランでそういうこと叫ぶのやめような。」
「子供にもなりたくないし、おばあちゃんにもなりたくないの! もう地獄なんだけど!」
一瞬、静寂が訪れた。
「……エリン、頼むから。」
リアンが静かに言った。
「……はい。」
少し反省したように、彼女は視線を逸らした。
そして空気を変えるように、別の話題を持ち出す。
「そういえばさ。」
「引っ越そうかなって思ってるんだよね。」
「別の街じゃなくて、今のアパートを出たいの。」
「古いし、ちょっと嫌になってきちゃって。」
「もう少し新鮮な空気が欲しいなって。」
「へぇ、今のところを出るのか。」
リアンは頷く。
「手伝えるよ。どんな場所がいいんだ?」
「街の少し外かなぁ。」
「仕事から遠すぎない場所で……一部屋あって、キッチンがあって、リビングもあって、お風呂も綺麗で、あと収納部屋も欲しい!」
彼女は想像しながら少し笑った。
「……完璧。」
「それなら家よりアパートの方が良くないか?」
リアンは首を傾げる。
「一部屋しかない一軒家って、そこまで多くないと思うけど。」
「うーん……。」
エリンも納得した。
「たしかにそうかも。」
「じゃあ私は家を探すから、リアンはアパート担当ね!」
「分担作業だな。」
「いいよ。」
リアンは頷いた。
「不動産関係の友達がいるから、その人にも聞いてみる。」
社交的な彼らしい人脈だった。
「やったぁ!」
エリンは嬉しそうに両手を上げた。
「ありがとう、小エビくん! お礼に今日は私が奢るね!」
「えっ……いや、その……本当に?」
リアンは少し戸惑った。
お金の話題はあまり得意ではない。
「もちろん!」
「余裕で払えるから気にしないで!」
「……じゃあ、ありがとう。」
彼は少しだけ頬を赤くした。
ほんの少しだけ。
でも、エリンは見逃さない。
「おやおや~? 照れてる?」
「次は奢らせてあげてもいいよ~?」
そして、いつものからかいが始まる。
「違う違う!」
「今のは違う! フリだから!」
「はいはい。」
エリンは笑う。
「次はもっと高いところ行こうね~。」
「……急に行きたくなくなってきたな。」
理由は説明できなかった。
「残念だなぁ~。」
リアンはわざとらしく言った。
「今月のお給料が入るまで、一緒に遊べないなぁ~。悲しいなぁ~。」
エリンは笑顔のまま返す。
「またそういうこと言ったら、この前みたいに股間蹴るよ?」
「……。」
リアンは無言で自分の足元を見た。
「ふふっ。」
「そういうこと。」
エリンのからかいは終わらない。
「あ、あー……。」
リアンは慌てて話題を変える。
「そろそろ料理来るんじゃないかな。」
「だね。」
「七、八分くらい経ったし。」
「もうすぐ来ると思うよ。」
リアンは最後にもう一度店内を見渡した。
そして、再び窓へ視線を向ける。
二人とも、もう気にしないようにしていたはずだった。
けれど――
まだ、何かがおかしかった。
6
リアンは、窓の外に集まる大量のカラスを見つめていた。
前に見たときよりも、明らかに数が増えている気がした。
群れは異様なほど密集していて、いつの間にかレストランの前の空間を占領してしまったかのようだった。
それでも彼らは動かない。
ただ、そこにいる。
ただ、見ている。
見れば見るほど、胸の奥がざわついた。
理由もなく、身体のどこかが強く緊張していく。
呼吸が少しずつ乱れ、背中に汗がにじみ始める。
心臓の鼓動が、店内の穏やかな喧騒よりもはっきりと聞こえてくる。
なぜなのか分からない。
ただ、この感覚が普通ではないことだけは分かった。
まるで、思考が追いつく前に、身体のほうが何かに反応しているようだった。
すると、さらに数羽のカラスが窓際へ降り立った。
一羽、また一羽と増えていく。
気づけば、窓の外は黒い羽で埋め尽くされていた。
そして何よりも嫌だったのは――
その視線だった。
彼らはレストラン全体を見ているわけではない。
明らかに、リアンだけを見ている。
(……何を見てるんだ?)
(何が目的なんだ……?)
(なんでこっちを……いや、違う……)
(俺を……見てる……?)
(なんで、俺なんだ……?)
「すごい数の鳥だね。」
エリンが軽く笑いながら窓の外を見た。
「何が起きてるんだろ。こんなの初めて見たよ。ちょっと面白いかも。」
「ぼ、僕……ちょっとトイレ行ってくる。」
リアンは突然立ち上がった。
あまりにも急な動作だった。
返事を待つことなく、そのまま背を向ける。
「えっ、リアン!? 大丈夫!?」
エリンが声をかける。
「だ、大丈夫……。」
振り返ることなく、彼は答えた。
少し掠れた声だった。
「料理、待ってて……お願い。」
そう言い残すと、足早にトイレへ向かっていった。
レストランのトイレは、客席から少し離れた場所に設置されていた。
匂いが店内に広がらないようにするためだろう。
それでも、リアンはかなりの速さでそこへ向かっていった。
エリンは、その背中を見送った。
何かがおかしい。
リアンは、あんな反応をする人じゃない。
普段は落ち着いていて、穏やかで、健康そのものみたいな人だ。
だからこそ、違和感があった。
(……変だな。)
周囲を見渡す。
レストランの様子は何も変わっていない。
客たちは食事をしながら談笑している。
店員たちは忙しそうに動き回っている。
キッチンも変わらず稼働している。
何も起きていない。
異変が起きているのは、自分たちだけみたいだった。
そのとき、一人の人物がトイレの方向へ歩いていくのが見えた。
でも、特に気にも留めなかった。
それよりも気になったのは、別のことだった。
カラスが集まっているのは、自分たちの窓だけ。
他の窓には一羽もいない。
それなのに、誰も外を見ようとしない。
誰一人として気にしていない。
まるで、これが普通のことみたいに。
(……このレストラン、なんか嫌になってきた。)
エリンは椅子にもたれかかった。
不安はあった。
でも、リアンのような恐怖ではない。
ただ、説明できない気持ち悪さだけが残っていた。
(様子を見に行ったほうがいいかな……。)
(でも、今行くのも迷惑かもしれないし……。)
(あと五分待とう。それでも戻ってこなかったら見に行こう。)
気を紛らわせるために、彼女はバッグから日記帳を取り出した。
子供の頃から続けている習慣だった。
頭の中が散らかっているとき。
落ち着かないとき。
彼女は絵を描く。
誰かに見せるためではない。
評価されるためでもない。
ただ、自分のためだけに。
描いている間だけは、頭の中の雑音が少し静かになる。
彼女は何も考えず、ペンを走らせ始めた。
長い黒いドレスを着た女性。
赤い髪。
緑色の瞳。
ブーツ。
特に意味はない。
聞かれても説明できない。
ただ、自然と手が動いた。
下描き。
線画。
色塗り。
影付け。
いつもの工程だった。
そして、いつものように満足できなかった。
線が少し違う。
バランスも気になる。
もっと直せるところがある。
練習しても、何年経っても、それは変わらない。
他人から見れば、十分上手いのかもしれない。
でも、彼女には関係なかった。
絵は自分のために描いている。
誰かに褒められるためじゃない。
家族や友人に聞かれたときだけ、たまに見せるくらいだった。
承認欲求というものが、あまり好きではなかった。
誰かに認められるためだけに芸術を磨くのは、どこか空虚に思えた。
描き終えると、彼女は日記帳をバッグに戻した。
十五分ほど経っていた。
そして、いつものように納得はしていなかった。
「はぁ……リアン、何してるんだろ。」
小さく呟く。
「もう十分くらい経ってるよね……。あと五分待って戻ってこなかったら、トイレ見に行こうかな。ちょっと変だけど。」
すると、一人のウェイトレスがパンと水を持ってきた。
「お待たせしました。少々混み合っておりまして……。お料理はもう少しでお持ちできます。」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます。」
エリンは微笑んだ。
「ちなみに、あとどれくらいかかりそうですか?」
「そうですね……五割から六割くらいはできてると思います。あくまで予想ですけど、もうすぐですよ。」
「ありがとうございます。」
ウェイトレスは去っていった。
エリンは少しだけテーブルを見つめる。
そして、立ち上がった。
リアンのことは気になる。
でも、それだけじゃなかった。
無視できない何かがあった。
彼女はスマートフォンを手に取り、バッグを席に置いたままレストランの外へ出た。
入口のすぐ近くに立つ。
ここなら、自分たちの席も見える。
「……あの子に電話しよう。」
「ちょっと確認だけ。」
7
エリンはスマートフォンを右耳に当てたまま、呼び出し音を聞いていた。
レストランの外に立ち、ガラス越しに自分たちの席をじっと見つめている。
その表情は、普段とは違って妙に真剣だった。
「まだ鳴ってる……。ナスヤ、早く出てよ……。」
少し焦りが混じっている。
まだパニックではない。
けれど、それに近い何かだった。
今すぐ、この電話が繋がってほしい。
そんな切迫感があった。
すると、ようやく通話が繋がる。
『やっほー、エリン! 元気してるー?』
いつもの明るいナスヤの声が聞こえた。
「こんにちは、ナスヤ。私は元気だよ。いつも通りって感じかな。せっかくの休日だし、結構いい日になってるよ。そっちは?」
エリンは努めて普段通りの口調で答えた。
本当は世間話なんてしている場合じゃない。
先に伝えなければいけないことがあった。
『あははっ、よかったー! 私の大好きなエリンが元気なら安心した! ……まぁ、一番って言っても一人目なんだけどね。あ、まあいっか! 私も元気だよー。セシリアの相手はちょっと大変だけど、ちゃんとやれてるし! 今度どうやって扱ってるのか教えてよー。それで、どうしたの?』
「セシリアにはあんまり厳しくしないでね。まだ十六歳なんだから。」
エリンはすぐに言った。
「それで……その流れなんだけど、セシリアに電話代わってもらえる? ちょっと伝えたいことがあるの。少し急ぎなんだ。」
自分でも分かった。
口調と『急ぎ』という言葉が、どこか噛み合っていない。
でも、訂正はしなかった。
料理を注文してから、二分三十秒。
まだ何も運ばれてきていない。
リアンも、まだトイレから戻ってこない。
エリンは、もう一度ガラス越しに席を見る。
そのタイミングの悪さが、余計に落ち着かなさを増幅させていた。
『あ、うんうん! ちょっと待っててねー。』
通話の向こう側で足音が聞こえる。
スマホが少し揺れた。
ナスヤがどれくらい離れているのかは分からない。
でも、近くではなさそうだった。
(……何を話せばいいんだろ。)
今になって、その考えが強く押し寄せてきた。
何かがおかしい。
だから電話をかけた。
でも、その『何か』が何なのか、自分でも分からない。
右足が地面を叩き始める。
一秒ごとに速くなっていく。
待っているというより、時間に追われている感覚だった。
まるで、見えない場所で何かのカウントダウンが始まっているみたいに。
『もしもし、エリン? 私に用事だったの?』
ようやくセシリアの声が聞こえた。
ナスヤよりも落ち着いた声。
少し慎重で、少し控えめな声。
「うん、そう。」
エリンはすぐに答えた。
「ごめんね。今日はいつものおしゃべりしてる時間がないの。ちょっと……急いでて。」
『あ、うん。大丈――』
「大事な話があるの。」
言葉を遮った。
初めてだった。
エリンがセシリアの言葉を途中で止めたのは。
ほんの一瞬、沈黙が流れる。
そしてエリンが話し始めた。
「一人の女の人がいるの。」
「……悪い目的を持ってる人。」
「あなたにも、その周りの人たちにも、良くないことをしようとしてる。」
「名前は分からない。」
「どういう性格なのかも分からない。」
「どう考える人なのかも分からない。」
「でも、見た目だけは知ってる。」
彼女の声が少しだけ強張る。
それでも、その部分だけは妙に確信に満ちていた。
「身長は百十七センチくらい。」
「黒いロングドレスを着ていて、その上に緑色のジャケットを羽織ってる。」
「茶色のブーツ。」
「赤い髪。」
「緑色の瞳。」
「少し日焼けした肌。」
「それから、黒いウシャンカ帽子をいつも被ってる。緑色のラインが入ってるやつ。」
少しだけ間が空く。
「セシリア……。」
「お願いだから、気をつけて。」
「私のためにも……。」
「リアンのためにも……。」
通話の向こう側から返事は来なかった。
セシリアは頭の中で整理しようとしていた。
でも、全然繋がらない。
妙に具体的。
なのに、何も分からない。
(誰の話……?)
(なんで、知らない人なのにそんなに怖がってるの……?)
(私が危ないってこと……?)
(それとも、リアンのこと……?)
「……どういう意味なの、エリン?」
ようやく出てきた言葉は、思った以上に小さかった。
エリンは少し黙る。
「……私も、分からないの。」
そう答えた。
「すごく複雑なの。」
「そのうち分かると思う。」
「だから……お願い。」
「気をつけて。」
「私のためにも、リアンのためにも。」
再び沈黙が訪れる。
そして、セシリアが口を開いた。
「約束して。」
もうお願いではなかった。
不安定な何かを繋ぎ止めようとしている言葉だった。
エリンは躊躇した。
「約束――……うん。」
「大丈夫。」
「私たちは無事だから。」
「きっと……。」
最後まで言い切る前に止まってしまった。
セシリアはすぐに気づいた。
「約束して、エリン。」
「お願い……。」
また沈黙が流れる。
エリンはスマホを強く握った。
頭の中は混乱していた。
何を言えばいいのか分からない。
どの言葉も嘘に感じる。
でも、本当のことも言えない。
「……」
『エリン……?』
セシリアの声が少し震える。
『エリン、どうしたの……?』
「……ごめん。」
そこで通話は切れた。
エリンはゆっくりとスマートフォンを下ろした。
手が震えている。
(……こんなこと、しなきゃよかった。)
呼吸も少し乱れていた。
気づかないうちに、指先で頭を掻いている。
何度も、何度も。
落ち着かない。
後悔はすぐに押し寄せてきた。
想像していたより、ずっと重かった。
そのとき。
ガラス越しのレストランの中で、人影が動く。
誰かがトイレから出てきた。
最初は、何もおかしくなかった。
でも。
何かが引っかかった。
全身黒い服装。
サングラス。
ニット帽。
身長は百八十五センチくらい。
妙に急いでいるような歩き方。
ただ移動しているというより、何か目的があるように見えた。
エリンは少し目を細める。
その人物から視線を離さなかった。
そして――
その瞬間、彼女は見てしまった。
8
血。
男の服の前面には、血が付いていた。
隠そうとしている。
服を整え、無意識に覆い隠そうとしている。
けれど、ちゃんと見ている人なら、注意深い人なら、その染みにはすぐ気づく。
もう誤魔化せる量ではなかった。
そこに、確かにあった。
その瞬間。
エリンの全身を、強烈な緊張が襲った。
頭で考えるよりも先に、身体が反応する。
手が震え始める。
胸の奥に、鋭い恐怖が突き刺さった。
もう単なる不安じゃない。
何かが、決定的におかしい。
そう理解してしまった。
見てはいけないものを見てしまった。
足が動かない。
自分で止めているわけじゃない。
身体と心が、うまく噛み合わなくなっていた。
片方は衝撃で固まり。
もう片方は、無数の可能性に押し潰されそうになっている。
(リアン……。)
その名前だけが、頭の中を貫いた。
「……今すぐ、リアンのところに行かなきゃ。」
「手遅れになる前に……。」
エリンはスマートフォンを右のポケットへしまった。
さっきの電話越しのセシリアの不安が、まだ心の中に残っている気がした。
無視なんてできない。
喉が締め付けられる。
考えたくない。
『それ』だけは。
考えるだけで、この三十分間の自分の行動すべてを疑ってしまう。
ただの考えすぎであってほしい。
そう思いたかった。
それでも、足は動かない。
「り……リア……ン……。」
喉が痛い。
未知への恐怖が、そこに残っている。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
そんな矛盾した感情だった。
けれど、本当に何かを変えたいなら、もう動くしかない。
エリンはゆっくりとレストランの入口へ向かって歩き始めた。
そして、リアンとの思い出が頭に浮かび始める。
(最初に会ったのは病院だったな……。)
(正直、あんな出会い方はしたくなかったけど。)
(セシリアが集中治療室のベッドで寝ていて……。)
(リアンは泣いていた。)
(言葉もまともに出ていなかった。)
(私たち……お医者さんや看護師たちは、必死に処置室へ向かっていた。)
(でも、リアンは待合室で待つしかなかった。)
(あの時の彼の目……。)
(何も映っていなかった。)
(全部終わったって思ってるみたいだった。)
(世界がなくなったみたいな顔をしてた。)
(私が、セシリアの状態を説明しに行ったんだよね。)
(そしたら、すごく安心した顔をして……。)
『あ、ありがとうございます……。』
『先生たちにも、ありがとうございますって伝えてください。』
『……あ、いや、自分で言います。』
(あの笑顔、まだ覚えてる。)
(妹が生きてるって分かった瞬間の顔。)
(あの時の彼には、それ以外何も必要なかった。)
(それから二週間経って。)
(少し落ち着いてきて。)
(セシリアがまだ入院してる頃……。)
(リアンと毎日少しずつ話すようになった。)
(彼が妹のお見舞いに来るたびに。)
(私、そこが好きだったな。)
(本当に妹のことを大事にしてる人なんだって、すぐ分かった。)
(あんな兄妹、なかなかいない。)
(それから少しずつ、お互いのことも知っていった。)
(本のこと。)
(音楽のこと。)
(絵を描くこととか、物理学みたいな普段話さないようなことまで。)
(公園にも行った。)
(レストランにも行った。)
(水族館にも行った。)
(予定していた日もあれば、偶然だった日もある。)
(リアンと話すと、なんだか一日が少し楽になった。)
(嬉しい日も。)
(辛い日も。)
(彼は、そこにいてくれた。)
(これ以上の友達なんて、きっといない。)
「……リアン。」
「……セシリアのためにも。」
「……私のためにも。」
「お願い……。」
男子トイレに近づくにつれて、異臭が鼻をついた。
酷い臭いだった。
扉の取っ手も半分壊れている。
「……?」
エリンはゆっくりと扉を押した。
壊れた便器。
床に広がる、水と血が混ざった赤い液体。
吐き気がするほど酷い光景だった。
一瞬だけ、躊躇した。
でも、開けなければいけない。
そして――
彼女は、それを見た。
「……リアン?」
そこにいたのは、リアンだった。
いや。
正確には――
「……っ!!」
リアンの、死体だった。




