第一段階:点字を読む少女
2007年3月12日
午前2時37分
ブレルテウレ総合病院
1
蛍光灯のジジジ……という音が耳に響いている。
うるさい。
私はもう、どれくらいここに座っているんだろう。
時間を確認することすら、自分じゃできない。看護師さんに聞かなきゃいけないなんて、本当に不便だ。
お兄ちゃんも、そろそろ来るはずなんだけど……。
……今日は来ないのかな。
いや、そんなはずない。
絶対に来る。
来られないなら、電話くらいするはずだし。
開いた窓から風が入り込み、病弱な少女の肌を優しく撫でていく。
「……寒い」
弱々しい声が部屋の中に溶けていった。
……文句ばっかり言うの、やめようかな。
別に、そんなことしたって状況が良くなるわけじゃないし。
でも、本当にそうなんだろうか。
文句を言ったら、うまくいくこともある。
たまにだけど。
なんでなんだろう。
ただの偶然?
自分の選択の結果なのに、被害者みたいな顔をして文句ばっかり言う嫌な人間が報われるなんて、普通はあり得ない。
……でも、たまにあるんだよね。
不思議。
また眠くなってきた。
でも、まだ寝ちゃだめ。
もうすぐ来るはずだから。
あの古びた白いドアを開けて、お兄ちゃんが入ってくる。
絶対に。
少なくとも、私のためには来てほしい。
きっと、いつもと同じ服を着てるんだろうな。
触ると、いつも同じ感触がするあの服。
そして、私の好きなダークチョコレートを持ってきてくれる。
機嫌が良ければ、オレンジジュースも……。
「――っ、ごほっ、ごほっ、ごほっ、ごほっ……!」
「もう、どこにいるのよっ!!」
四つの感覚しか持たない少女は、思わず叫んだ。
追い詰められると叫んでしまう。
それって、人間らしいことなんじゃないかなって、私は思っている。
少なくとも、自分ではそう信じていた。
それから、十二秒後。
自動ドアの開く音が部屋に響いた。
……来た?
七時間も待っていた人が。
「セシリアちゃん、大丈夫ですか!?」
……違った。
「……うん。たぶん、大丈夫」
「ロビーまで聞こえるくらい叫んでましたよ!?」
茶髪の看護師――エリンさんが心配そうに言った。
まるで、これが初めてだったかのように。
「大丈夫って言ったでしょ。なんでもないから」
もちろん嘘だ。
子供みたいに見られたくなかっただけ。
「分かりました! 何かあったら、すぐ呼んでくださいね!」
私は小さく頷いた。
……エリンさんって優しいよね。
いつも私のことを気にかけてくれる。
もう少し感謝しないといけないのかも。
もし隣の部屋の担当の看護師だったら、たぶん私はとっくに死にたくなってたと思うし。
……お腹空いたな。
お兄ちゃん、まだかな。
エリンさんに電話してもらえばよかった。
それか、何か食べるものをお願いするとか。
でも、もう迷惑をかけたくない。
だから、待とう。
いつもみたいに。
ずっと。
ただ待つだけ。
目を覚まして、ご飯を食べて、看護師さんと話して、眠る。
それだけの毎日。
午後になると、お兄ちゃんが来る。
たまに夜になることもあるけど。
……今日は来ないのかな。
せめて電話くらいしてくれてもいいのに。
無料なんだから。
ねぇ、リアン。
……いや、もう少し待とう。
私がせっかちなだけかもしれない。
でも、結局のところ、誰にも分からないんだよね。
本当に知っているのは、物語を書く作者くらい。
あるいは――神様。
もし、本当に存在するなら。
……でも、私は信じてない。
だって、もし神様がいるなら、こんなことになってるはずがないから。
病室で、バカみたいな顔をしながら、自分の行動の結果に文句を言い続ける人生なんて、送ってない。
もし神様が本当にいるなら、お兄ちゃんと私はもっと幸せな人生を送れていたはずだ。
どうして、そんな人生を送る資格がないっていうの?
私たちが何をしたっていうの?
……たぶん、何もしてない。
まあ、あの偉そうな存在が違うって言うなら、聞かせてほしいけど。
私たちが何をしたから、こんな人生になったのかを。
2
開け放たれた窓から、駐車場に車が入ってくる音が聞こえた。
私の病室は二階の北側にあるから、正面玄関のほうから聞こえてくる音は意外とよく届く。
「今度こそ、お兄ちゃんかな……」
そう呟くと、セシリアの口元に小さな笑みが浮かんだ。
……何を話そうかな。
遅れたことを責めて、少し意地悪してみようかな。
でも、お兄ちゃんにも事情があったのかもしれない。
仕事が忙しかったのかもしれないし、何かトラブルがあったのかもしれない。
いつだって私のところに来られるわけじゃない。
だって、お兄ちゃんも人間なんだから。
……でも、七時間は長い。
看護師さんに伝言を頼むことだってできたはずだし、電話だってできた。
何の連絡もなく、ただ待たされるのって、結構ひどいと思う。
許していいのかな。
……許すべきなのかな。
分からない。
エンジン音が聞こえてから、もう五分が過ぎていた。
「たぶん看護師さんたちと話してるんだよね……。うん、大丈夫。待てるから」
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
静かで、どこか聞き覚えのある歩き方。
誰かがこちらへ近づいてくる。
今度こそ。
今度こそ、お兄ちゃんだ。
病室の引き戸が開く音が響いた瞬間、セシリアの胸の中にあった喜びが一気に膨れ上がった。
心臓が少しずつ速くなっていく。
またお兄ちゃんと話せる。
そのことだけで、体中が落ち着かなくなるほど嬉しかった。
「さて、誰が来たでしょう?」
落ち着いた声の男がそう言った。
左手には一つの袋を提げている。
「お兄ちゃん! 遅い!」
少女はそう言いながら、頬に小さな涙を流した。
「うん、ごめん。ちょっと用事があってさ。思ったより時間がかかっちゃった。でも、その分ちゃんと埋め合わせは持ってきたよ」
袋を揺らしながら、彼はゆっくりとベッドへ近づいてくる。
「それ、ちゃんと価値あるものなんでしょうね、このバカ」
セシリアは不機嫌そうに笑った。
リアンは袋の中から二つの物を取り出した。
一つはベッド横のテーブルへ。
もう一つは妹の手の中へ。
セシリアはすぐに指先で形を確かめ始める。
そして――。
「やっぱり!」
彼女は嬉しそうに叫んだ。
「大好きなチョコレート! 絶対持ってきてくれると思ってた!」
……忘れてなかった。
ちゃんと覚えてくれてた。
私がずっと好きだった、このチョコレートを。
「ははっ。これを持ってこないで来るなんてありえないだろ?」
「お兄ちゃん、こっち来て。ぎゅーってしてあげる。そうしたら許してあげてもいいかも」
両手を広げながら、彼女はそう言った。
「はいはい。でも、ちゃんと許してよ?」
……この状況なら、許してあげてもいいのかな。
リアンが近づいた瞬間、セシリアは勢いよく抱きついた。
「うわっ、痛い痛い! 強すぎるって! ハグが重い!」
もちろん演技だ。
でも、それがリアンなりの優しさだった。
セシリアに自信を持たせるための。
「ふふん。相変わらず弱いんだから。自分が強いのくらい知ってるもん」
彼女はその言葉を誇らしげに受け取った。
「はいはい。それよりチョコ食べなよ。せっかく買ってきたんだからさ、この心配性さん」
疑い深い少女は箱を開け始める。
その動作は慣れたものだった。
何度も繰り返してきたから。
四角いダークチョコレートを一つ取り出して、そのまま口の中へ放り込む。
すると――。
表情が一変した。
一瞬だけ。
世界で一番幸せな女の子みたいな顔になった。
太陽みたいに輝いて見えるくらいに。
「まだ大好きなんだな」
リアンも自然と笑っていた。
妹がこんな顔をする瞬間が、何より嬉しかった。
「当たり前でしょ。一番好きなんだから。ありがとう、お兄ちゃん」
「入院してからの二年間で、一番嬉しそうな顔してるかもしれないな」
「その二年間で、一番長く私を放っておいたのは誰だと思ってるの?」
頬を膨らませながら彼女は言った。
「今日は泊まっていってもいいよ。遅刻したお詫びに、いつもの愚痴も聞いてあげる」
その言葉に、セシリアは嬉しそうに頷いた。
こんな場所では、笑う理由を見つけることすら難しい。
ましてや、また笑える未来なんて、信じることすら難しい。
だからこそ、こういう時間が大切だった。
リアンはロビーへ向かい、泊まるためのマットレスを借りに行った。
……もう、ここに来るの嫌になってたりしないのかな。
二年間。
ほとんど毎日、私のところへ来てくれてる。
疲れないわけがない。
私は、お兄ちゃんにとって重荷なんじゃないかな。
治療費を払うために働いて。
大学まで休学して。
全部、私のため。
動かない足。
誰かの助けがなきゃ何もできない自分。
……お兄ちゃんが唯一、大切にしてくれている存在なのに。
もし、あの日。
ヒーローぶったりしなければ。
お父さんも、お母さんも、まだ生きていたのかな。
「ただいまー!」
リアンが白いマットレスと枕を抱えて戻ってきた。
ベッドの横にそれらを置くと、白い封筒をそっと引き出しの中へ入れた。
セシリアは気づいていたけれど、特に聞こうとはしなかった。
「そういえば、来る前に看護師さんたちと話したんだけどさ。大きな叫び声が聞こえたって言ってたよ。何かあったの?」
少し困ったような笑顔だった。
声からも分かる。
その感情を、彼女は聞き逃さなかった。
「別に大したことじゃないよ。ちょっと……イライラしただけ。でも、もう大丈夫」
リアンは小さくため息をついた。
嘘だ。
そう分かっている。
でも、無理やり本音を引き出せる相手でもなかった。
セシリアは昔から頑固だった。
大切な人に対しても、自分の気持ちを上手く伝えるのが苦手だった。
「そっか。じゃあ、今はそういうことにしておくよ」
……お兄ちゃん、がっかりしてる。
そう分かっていても、何も言えなかった。
十分ほど。
二人の間に言葉はなかった。
気まずい。
少し恥ずかしい。
どちらも沈黙を壊す勇気が出なかった。
……私、また何か間違えたのかな。
叫んだこと、話したほうがいいのかな。
でも、意味ないし。
別に知らなくてもいいことだし。
「水、取ってくるよ」
少しだけ苛立ちを混ぜた声で、リアンが言った。
セシリアは静かに頷いた。
……私、お兄ちゃんにすら素直になれないんだ。
3
リアンは部屋の反対側に置いていた鞄からペットボトルを取り出し、ベッド脇のテーブルに置かれていたプラスチックのコップへ水を注いだ。
セシリアはそれを受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。
けれど、頭の中は別のことでいっぱいだった。
……謝らなきゃ。
謝らなきゃ。
謝らなきゃ。
今しないと、きっともっと悪くなる。
今しかない。
この機会を逃したら、もう二度とできないかもしれない。
彼女はコップを置いた。
ちょうどその頃、リアンは寝るための簡易ベッドを整え始めていた。
窓の外は真っ暗だった。
少し怖いくらいに。
でも、同時に美しかった。
星々は力強く輝いていて、たとえ目が見えない人でも、そこに星座があると想像できそうなほどだった。
「お兄ちゃん……」
少女は小さく呟いた。
だが、リアンには聞こえなかった。
彼の視線は夜空へ向いていた。
「お兄ちゃん!」
今度は少し大きな声で呼ぶ。
「あっ、ごめん。呼んだ?」
ようやく彼の意識がこちらへ戻ってきた。
「アンドロメダ座って知ってる?」
少し唐突な質問だった。
リアンはきょとんとする。
「名前くらいは聞いたことあるかな……。でも、なんで急に?」
セシリアは窓のほうへ顔を向けた。
そして、静かに数え始める。
「一つ……二つ……三つ……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……十……十一……十二……十三……十四……十五……十六」
十六個。
窓から見える星の数。
今でも見ることのできる、数少ないものの一つだった。
セシリアは完全に失明したわけではない。
暗闇の中にある強い光なら、まだ認識できる。
見ることもできるし、数えることもできる。
少しだけなら、観察することだってできる。
星は、そんな数少ない「自分のもの」だった。
「外にある星座も分かるけど……今日は、その由来を話したかったの」
「由来?」
リアンは頭を掻いた。
彼女が昔から天文学を好きだったことは知っている。
あの日以来、以前のようには続けられなくなったけれど、その気持ちだけは変わっていなかった。
「うん。聞いてくれる?」
「もちろん。君が好きなことを話してる時の顔、好きだからさ」
少し照れくさそうに彼は笑った。
「アンドロメダ座は、古代ギリシャ神話が元になってるの。
アンドロメダっていう王女がいて、お母さんのカシオペイアの傲慢さのせいで、岩に鎖で繋がれちゃうの。
でも、英雄のペルセウスが助けてくれて、そのあと結婚するの」
彼女の視線は、ずっと窓の外へ向いたままだった。
「空を見るとね、落ちていくアンドロメダの姿が見えるの。
その近くにはカシオペイアとケフェウスもいる。
お父さんとお母さん」
「お母さんのせいなのに……なんで娘が罰を受けるんだろうな。普通、お母さんじゃない?」
「カシオペイアがお姫様の美しさを自慢したの。
その傲慢さに怒ったポセイドンが、アンドロメダを連れ去ったんだよ」
「ネレイデスって、あのロックバンドのネレイデス? イングァー・ロアって人、歌上手いよな」
……やっぱり、この人は天文学には向いてない。
リアンはまた頭を掻いていた。
少し面白い。
いつもそうだから。
私が好きな話をすると、わざと分からないふりをする。
少しだけ困った顔をして。
話を続けさせてくれる。
ちゃんと聞いてるよって、そう伝えてくれる。
昔からの癖だ。
……私を楽しませようとしてる。
こんな状況なのに。
本当に、お兄ちゃんらしい。
私は、この人がお兄ちゃんでよかった。
「変なふりするの、やめなさいよ。バカ」
そう言いながら、彼の頭を軽く叩いた。
「はいはい、ごめんなさい。じゃあさ、俺も『うちの妹は世界一可愛いぞー!』って叫んだら、ネレイデスを怒らせられるかな」
冗談っぽく言っているのに、少しだけ本気っぽい。
「今そんなこと叫んだら殺す」
「えっ」
「本気だから。隣の引き出しにナイフあるし」
朝食用に使われたナイフを、看護師が回収し忘れていたのだ。
たぶん、明日には気づくだろう。
「いやいや、まずなんで病室にナイフがあるんだよ。あと、誰に向かってそんなこと言ってるの?」
「すっごく遅れてきた人。私のこと忘れてたみたいな人」
腕を組みながら、ぷいっと顔を逸らす。
……ツンデレのつもりなんだろうけど。
正直、あんまり向いてない。
アニメの見過ぎなんじゃないかな。
「だから、ごめんって。急用だったんだよ。今日はどうしても仕方なかった。またこんなことにはならない。約束する」
……急用、ね。
都合のいい言葉。
「……もういい」
そう言うと、リアンは簡易ベッドへ横になった。
床に置かれたシンプルなマットレス。
看護師たちも慣れたもので、泊まる日は毎回用意してくれている。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「昔、部屋で筋トレしてるの見られてさ。恥ずかしくて次の日から鍵かけるようになったの覚えてる? あはは」
「うっ……な、何の話かな。俺は男だからな。そういうので恥ずかしがったりしないんだよ」
彼女はこういうのが好きだった。
昔の恥ずかしい話を掘り返して、彼を困らせる。
でも、自分の話は絶対にしない。
「ビビり、ビビり、ビビりさん。
……あ、違うな。『気弱さん』のほうが似合うかも。
なんか可愛いし」
「気弱さんって……」
「お兄ちゃん、ちょっとバカっぽい」
……それは言わないほうがよかった。
「はい、もう終わり。ふざけるのはそこまで」
彼は少しだけ厳しい声を出した。
「もう遅い。寝なさい。今度は本気だからな」
「……」
「聞こえてるだろ」
「おやすみ、バカ」
ちゃんと聞いていた。
少しだけ不満そうだったけれど。
「おやすみ、セシリア」
病室の明かりが消える。
星空だけは、いつも通りそこにあった。
静かで。
綺麗で。
何一つ変わらないまま。
二人はそれぞれのベッドに横になり、ゆっくりと目を閉じる。
約束なんてしてくれない明日へ。
それでも、ほんの少しだけ期待しながら。




