美味い物が食べたいのです!
「それで一体どういう事何や?」
目には見えない物を見る為の顕微鏡を作る。
その目的が美味い物を食べる為?
意味が分からない一貫斎は、松陰にその真意を尋ねた。
「それはこういう訳でございまする。」
松陰が説明を始めた。
今現在萩の松陰の自宅にて父百合之助が畑をやっている事。
えひめAIと呼ばれる微生物を培養した液体を作っている事。
それを作物に噴霧したいのだが、今は噴霧する器具が無い為、不十分な事。
そして顕微鏡はそのえひめAIを安定して作る為に必要な事。
微生物を経験によって増やすのではなく、特定し、分離し、純粋培養したい事。
それには目には見えない物を見る顕微鏡が必要な事。
発酵が目には見えない微生物という生き物の働きによって行われている事を理解するには、それを見るのが必要な事。
分離し、培養するにはガラス製品が欲しい事。
そしてそれらの目的が、つまる所作物を健康に、たくさん、美味しく作る為である事。
作物が健康に育てば、病気にも害虫にも強い事。
それは安定した生産に繋がる事。
安定した生産は安定した収入に繋がり、それは即ち生産者の安定した生活に繋がる事。
農に携わる者の生活が安定すれば、社会の安定にも繋がる事。
つまり、天下国家の為である事。
また、えひめAIを作る麹菌、納豆菌、乳酸菌、酵母菌といった微生物は、他の発酵食品にも使える事。
酒、酢、味噌、醤油、納豆といった食品を、高い品質で、安定して生産する事が出来ようになる事。
それは民の食をより豊かなモノにし、社会の豊かさにも繋がる事。
微生物の中には、病原性のある他の微生物を抑える物質を生産するモノもあり、それを作り出せれば、今は治癒を神様に祈るしかない様な病気が治るやもしれぬ事。
そうした事を淡々と説明する松陰に、一貫斎は言葉を失くし、聞き入った。
一貫斎はそもそもが幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生また鉄砲鍛冶である。
彦根藩の御用掛となり、大筒の製作を依頼され、その出来栄えが認められ、今日に至るのだ。
照明器具や万年筆といった道具も作ってきたが、基本は人を殺す為の鉄砲鍛冶である。
今は天下泰平の徳川治世であり、鉄砲も害獣駆除としての狩猟に使われる程度であるが、それでも鉄砲は鉄砲でしかない。
いくらその出来を褒められても、釈然としない気持ちは残っていた。
江戸で目にした望遠鏡の再現は、出来上がった物の性能は素晴らしかったが、望遠鏡は望遠鏡であった。
その使い道は天体を観測する位。
今まで目にはしていたがよくわからなかった、月や太陽の事を観察するのは面白かった。
しかし、それも所詮は自己満足にしか思えなかったのだ。
太陽の黒点が太陽の活動と結びついており、それによって地球の気候が影響を受ける事がわかるのは当分先の事である。
一貫斎がそう思うのも無理は無い。
天保の飢饉が国友村にも及んだ際、望遠鏡が高く売れた事によって食料を多く買え、村の助けになった。
その事は、望遠鏡を製作した自分には誇らしく思えたのだが、この松陰という少年の考えの前には随分小さな事に思えた。
人を殺す為の鉄砲を褒められ、天体を観測する為の望遠鏡といった物を発明しても、今の今まで心のどこかで何かひっかかりを感じていた。
それが目の前の少年の語る顕微鏡と、それを用いて為したいという計画である。
望遠鏡とそう変わらない器具でありそうな物なのに、それによってもたらされる未来の何と明るい事か!
無論、一貫斎には微生物とは何かといった事はわからない。
目には見えない生き物がいると言われても、実際に見た事がないので本当なのかも判断できない。
しかし、酒作りでは酸っぱくなって失敗する事がある事も知っているし、漬物の管理が悪くて糠床が臭くなる事も知っている。
それらが、その微生物という目には見えない生き物の働きによって為されていると聞くと、成程とも思えるのだ。
この少年の言う、顕微鏡なる物でそれを見る事が出来るなら、そういった失敗は少なくなるに違いない。
原理がわからず経験に頼るしかないのなら、失敗する事も多々あるに違いないのだから。
そして一貫斎は更なる疑問を感じていた。
この吉田松陰なる少年の正体である。
長州藩士である事はわかった。
実家で父親が畑を作っている事も聞いた。
武士であれ、家禄が少なければ食べていくもの大変で、百姓の真似事をしている者も多い事は知っている。
譜代大名である彦根藩井伊家の懐事情はましな方であるが、それでも京都大阪の商人から資金を融通してもらっている事も事実だ。
他藩の台所事情も様々らしいが、財政問題が逼迫している藩は多いらしい。
江戸の町には武士が多いが、傘張りといった内職をして糊口を凌ぐ者も多かった。
一貫斎も江戸で見てきた現実である。
成程、そんな下級武士の家に生まれたこの少年が、家の畑の事を考えるのは不思議ではない。
もしもそれが一家の食卓を支えているならば切実であろう。
食べる物が十分にあれば、健康も維持出来よう。
しかし、この少年の志はそれに留まらない。
家の畑での経験を、この国に住む民の為に活かす事を考えているのだ。
事実、えひめアイなる物を作って実験をしているではないか。
一貫斎にはしかとは分かりかねるが、微生物なる生き物を活用しようと考え、既に効果も出ているらしい。
己の経験を、世の為人の為に使おうと考えているのだ。
そして、その為には一貫斎の発明が必要だと、ここに来たらしい。
自分の発明が世の中の為になると考え、頼ってくれたのだ。
家禄が十分でないからこそ、畑を耕す父君なのだろう。
それは予想できる一貫斎である。
現に、目の前の少年が身につけている衣服は、所々に当て布で補修された、年季の入った代物である。
自己紹介では父が無給通とあった。
無給通といえば長州藩では下級の藩士であり、家禄は十分ではないはずだ。
中には家老といった役柄にありながら、無駄遣いを厳に慎み、質素倹約を旨とする者もいるが、この少年の場合は違うだろう。
見たまま、のはず。
しかし、その様な貧しいであろう生活の中にいるはずなのに、考えているのは誠に気宇壮大、天下国家の安定らしい。
己の知見を世間の為に役立てようとしているのだ。
そんな大きな志を持った人間が、この自分を頼ってきた事に、一貫斎は胸が熱くなる。
既に齢60を越え、足腰の衰えを覚え、このまま朽ちるのかと寂しく思い始めていた時の事であり、尚更一貫斎の心を揺さぶった。
これまで見た事も聞いた事も無かった、初めて接する西洋の器具を前に感じた様な、興奮に満ちた感情が体を駆け巡るのを感じる。
まだまだやれる事はある! と確信に満ちた思いが湧き上がる。
激情に似た感情は脳を刺激し、機能を活性化する。
先程まで感じていた退屈さなど最早消え去り、今は知的好奇心に溢れ返っている。
その、えひめアイなる代物を使った畑を見たいと感じていた。
この少年をここまで思わせる物が何なのかを知りたいと思った。
そして、それに自分の発明がどう役立つのか見てみたいとも。
しかしながら、一貫斎も伊達に長年彦根藩の御用掛としてやってきた訳ではない。
発明には費用が掛かるし、その様な大それた企みを成功させるには、それなりの権力の後ろ盾が無ければ難しいのだ。
一介の下級武士の倅がどうこうできるとも思えない。
「成程、美味いモンを食いたい言うのんわ、わかりましたわ。その為にワイに顕微鏡なるモンを発明してもらいたい言うのも。」
目の前の少年の目を見れば、この松陰なる者が本気なのは分かる。
冗談で言っているのではないのは理解出来る。
しかし、志だけでは解決出来ない事が多いのもまた現実である。
勿論、そんな大きな夢は、そもそも篤い志でもなければ始めようとも思わないだろう。
一人で出来ない事ならば、誰かの協力を必要とするだろう。
しかし、口先だけは調子の良い、大それた夢を言うが、それを本気で為そうとしていない人間に、誰が手を差し伸べようとするだろうか?
一貫斎は既にこの松陰なる少年の志に共感し、その持てる力を提供する腹積もりでいるが、それもこれも松陰の目にその本気を見、それが既に始められているらしいからである。
あの話が全て作り話ならば大した物だ。
目には見えない生き物がいて、それが働いて酒が出来、酢を醸し、腐敗も起こるなど、誰が聞いても笑い飛ばす御伽噺にしか思えない。
ならばその生き物を見せてみろ! と笑われて終わるだけである。
しかし、この少年は、それを見る為の器具の製作を依頼してきたのだ。
しかも、西洋にはそれらが既にあり、この国にも持ち込まれていると言う。
この者の言う事を疑い、その顕微鏡なる器具の事を探させれば裏付けは取れる。
一貫斎は聞いた事が無かったが、江戸にあるらしい。
江戸には現在でも付き合いのある知人は多い。
彼らに聞けば詳しい事が判明するだろう。
けれども一貫斎は、この松陰なる少年の言う事を信じた。
嘘や妄想を口にしているとは思えなかったからだ。
出鱈目、騙す為の狂言ではない。
それはまるで、知っている事実をただ述べているに過ぎない様に感じたのだ。
まるで、何かの本で得た知識を実行し、結果確信した、ただの事実だとして話している様に。
西洋の本から得た知識なのか?
一貫斎は推測する。
ならば全ては納得出来る。
西洋からもたらされた書物から、微生物やその微生物を見る事が出来る顕微鏡なる物の知識を得、実験し、それを確かめ、こうやって話しておるわけか。
そう一貫斎は結論付けた。
進んだ西洋の知識ならば、一貫斎がまるで理解できなかったのも無理は無いだろう。
これまで聞いた事も無かったのも不思議は無い。
それに、西洋で確かめられた事ならば、それらは事実なのだろう。
いくら受け入れ難い話でも、世の理に西も東もないのだから。
照らす太陽が、見る場所によって変わる訳でもないだろう。
この少年の言う事は、つまりは自分が知らないだけのただの事実なのだろう。
しかし、だからと言って直ぐに協力とはいかない。
悲しい事に、先立つ物はお金であるのもまた、世の東西を問わず、変わらぬ現実なのだから。
「アンタさんの志はようわかりましたわ。けんど、先立つ物は銭ですわ。何や、えらい大きな夢を語ってくれはりましたけんど、それをやり切る銭は、どないされる言うのや? ワイの所に来たんや、それなりの算段をつけて来たんやろうねえ?」
志に集まる者はいるだろう。
それはこの者の後ろに控える者達を見れば一目瞭然である。
共感し、資金を提供してくれる者も現れるだろう。
しかし、現実問題として、レンズ一枚を作るだけでも大きな金額が必要になるのだ。
今からそれを集めてきます、ではいつになるのか分からない。
そんな一貫斎の考えを理解し、試作品らしきレンズを使っての簡単な実験で、顕微鏡の製作に繋がる何かを掴んだらしい事にも弾みをつけた松陰は、一貫斎が心配する資金についての説明を始めた。
「資金は長州藩の家老、村田清風様にお願いして、長州藩が蓄える撫育方から拠出して頂く手はずとなっています。 生憎、手元に引き出して頂いた訳ではないので、御確認して頂く事は出来ません。ですが、藩がこれから行っていく産業振興の、農業部門における資金援助の第一号に選ばれておりますれば、一貫斎様が心配なされる資金の問題はないと思っております。」
またもや出てくる聞きなれない言葉。
何だかそんな事ばかりである。
「藩が行う産業振興? 資金援助? 農業部門? 一体全体何や、それは?」
「はい。長州藩がこれから始める政策でございます。藩が主導するのではなく、藩士自らが、百姓が、商人が、職人が、それぞれが考えた新しい案を実行したい、けれども資金がない、そんな時に藩がそれを手助けしようという政策にございます。」
「何やそれは? そないな事が可能なんか?」
「可能なのかではなく、やるのです。」
訝しがる一貫斎に、松陰は断言する。
「しかし、お役人と結託して、調子の良い事言うてちょろまかす輩が出るやろ?」
一貫斎の懸念も尤もだ。
「綱紀粛正を平行して進めていくのです。公金横領は厳罰に処していきます。提出される案は厳密に精査し、その提案者からの賄賂などもっての他としてゆきます。」
「いや、アンタさん、ただの藩士やろ? その産業振興とやらはまだやってないんやろ? これからやっていくって、アンタさんがそないな事を言うても仕方ないんやないの?」
これまた尤もな一貫斎の指摘である。
「ご心配には及びませんよ。村田様がそうしてゆきますから。」
「いや、意味わからんわ。その村田様が、どうしてアンタさんの意見を実現してくれるんかいな? そないに信頼されとるんか?」
一貫斎の質問はいちいち尤もである。
「そこはもう、私を信頼して欲しいとしか言えません。」
「わかった! わかったでえ! もうええ! ワイも信じるわ! 信じさせてもらいます! この国友一貫斎、アンタさんの依頼、受けさせてもらいますわ!」
一貫斎の口から、悲鳴にも似た言葉が漏れた。
こうして、国友一貫斎の協力を得た松陰であった。
しかし、史実では、一貫斎は翌年1840年12月26日に、その63年の生涯を終えるのである。
ところが、松陰と出会い、その話に好奇心を漲らせ、活性化された脳がその機能まで蘇らせ、ついでに体まで若干若返らせる奇跡が起こる事は、この時の松陰はまだ知らない。
説明回の、ご都合主義でございます。




