彦根藩への旅路 その2
「松陰先生、この船で西洋まで行く事は可能なのですか?」
船員達への説法を終え、ついに香霊大明神を奉る香霊教まで作ってしまった松陰に、三郎太が質問した。
「いや、それは止めた方が身の為だぜ。」
順調すぎて手持ち無沙汰な平蔵が三郎太の質問に答えた。
「何故でございますか?」
「こんな海だから想像もつかねーと思うが、沖の海ってのは荒れだしたら恐ろしいもんだ。こんな船なんか一呑みにしちまいそうなでっけぇ波が、途切れる事無く襲ってくるんだぜ? 弁財船は、横波横風に滅法弱ぇのさ。ま、この船で外国に行こうなんざ、朝鮮くらいで止めとくべきだな。」
平蔵は言い切った。
蝦夷、長州間の航海だけでも、一度海が時化れば死を覚悟する程だ。
海が荒れない可能性もあるが、そんな可能性に賭けるのは馬鹿のやる事であろう。
「成程。でも、それなら、朝鮮まで出てそれから近海を進めば辿り着くのではないですか?」
「む、そう言われればそうかもしれねーな……。だがよ、岸辺伝いを進むってのも、あれはあれで生半可な事じゃねーんだぜ? 時間が掛かるし、どこに岩礁が隠れているのか覚えてなきゃならねーしな。だからよ、知りもしねー外国の海を進むのはやっぱ考えもんだと思うぜ。」
「わかりました。素人が生意気な事を言って申し訳ありません。」
「いや、ガキがそんな事気にすんなって! 亦介はてんで使えねーが、松陰先生始め、賢い奴ばかりじゃねーか! うちのボンクラどもも鍛えて欲しいくらいだぜ! おい、仙吉! オメーもここに来て話を聞け!」
平蔵はそう言って、同船していた息子を呼んだ。
海は穏やかで順風。
すこぶる平和な航海に、つい暇になりがちであった。
「仙吉は俺の上の倅で、年は15になる。お美代様に助けてもらったのは下の倅でな、今はまだがきんちょさ。」
平蔵は息子を紹介した。
「松陰先生、西洋の船と日本の船の何がちごうちょるのですか?」
長州弁で聞いてきたのは重之助だ。
ちごうちょるとは違うという意味である。
山口県のマスコットキャラクターは「ちょるる」であるが、山口の方言では語尾に「ちょる」を付ける事が多いのでそう命名されたらしい。
「している」を「しちょる」とも「しちょお」とも言うのだが、「する」を「すちょる」とは言わない、多分。
そんな重之助に、
「そうですね、最も違うのは竜骨があるかないかでしょうか。」
「竜骨とは何でありますか?」
ありますか、というのも山口の尊敬語の方言らしい。
ありますか、などは軍隊で使われていたイメージがあるが、それは陸軍が長州藩出身者で作られたので、長州人が上官に使う言葉、○○であります、が一般化されたかららしい。
「竜骨とは、船の先から後ろまで貫いている柱の事ですね。この弁財船を始め日本の船には竜骨が無く、板を張り合わせて作ってあるのが特徴です。それぞれの長所と短所ですが、日本の船の長所は何と言っても経済性ですね。板を釘とカスガイで止めるだけなので作るのも早いし、床を作れば自立するので、比較的簡単に強固な構造物を作れる事でしょうか。それと、浅い日本の湾内でも運行できる事は大きな長所でしょうね。短所は、横風、横波に弱く転覆し易い事でしょうか。つまり、遠路航行には不向きというわけです。」
松陰が説明する。
「西洋の竜骨を持った船の長所は、堅牢な事でしょうか。中央に竜骨が走り、所々に脇材が入り、それに曲材を貼り付けるのです。衝撃に強いし、船体下部に錘を載せれば復原力も上がるので転覆しにくいのです。短所は、建造に時間と費用が掛かる事でしょうか。それと、喫水線が深いので浅瀬には入れないし、同程度の大きさの日本の船に比べたら積荷が少ない事ですね。」
「色々とちごうちょるのですねぇ。」
「なんでそんな事を知ってるんだ? 西洋の船なんて、俺もまだ見た事ないぜ?」
「松陰先生、ふくげんりょくって何ですか?」
皆がそれぞれの感想を言う。三郎太の質問には、
「そうですね。空の樽を海に浮かべる場面を考えてみましょう。栓をした空の樽を海に浮かべたらどうなると思います?」
「まあ、沈まずに海に浮かんでるだろうな。」
横から平蔵が答える。
「地面に置くように浮きますか?」
「いや、横倒しになるだろうな。」
「では、地面に置く様な状態で海に浮かべるにはどうしたら良いですか?」
松陰の質問に平蔵は暫く考え、答えを出した。
「うーん、そうだな、底に石か何か少し入れておけば、沈まず横倒しにもならず、浮かんでるだろうな。」
「それは復原力が働いているからなのですよ。大事なのは錘を底に、という事です。蓋に錘を載せても姿勢は保てるでしょう。しかし、ちょっと揺らせば容易くひっくり返ります。錘を底に置けば、ちょっとの揺れでもユラユラ揺れるだけでひっくり返りません。船を真っ直ぐに保つ力、これが復原力です。」
「なるほどー。」
「よくわかりました。」
「さすが先生、よう知っちょる!」
「親父、俺はよくわからんぞ……」
「テメーに頭を期待した俺が馬鹿だったな……」
韓国のフェリーが転覆した事故がある。
荷物の積載量を増やす為、本来船底に貯めるバラスト(重りの事)を捨てて喫水線を下げ、より荷物を積めるようにしたのだ。
バラストは普通海水なので、無駄と言えば無駄である。
従って、バラストを捨てればその分船は軽くなり、より荷物を積めるという訳だ。
しかし、バラストは船底、つまり船で最も低い位置にあるから意味がある。
そうでないと復原力が下がるからだ。
荷物も、積み方によってはバラストと同じ役割を果たすだろうが、それでもし重心が上がってしまったなら最悪だ。
バラストが無い状態で、上部に荷物が偏ってしまったら、船が横に少し傾いただけでも、容易く転覆してしまうだろう。
それがあの事故では起こってしまったのだ。
「西洋の船はわかりましたが、彼らはどうやって海を渡るのですか? 何も目印がないのに、何を目標にして進むのですか?」
「おう、そうだ! それは俺も不思議に思うぜ。」
「勘でしちょるのでは?」
「おめえ、勘な訳がないだろ?」
「いえ、半分は勘ですね。」
「何ぃ? 本当か?」
勘では、と言った重之助の言葉を笑った平蔵は驚いた。
まさかそんな訳は無いだろうと思って松陰を見る。
「はい。今までは、ですが。」
と松陰は説明していった。
「緯度経度という物はご存知ですか? この星の姿が丸い球であるのは既にご存知だと思います。それを横と縦に分割する線を緯度、経度と呼びます。緯度を計測するのは比較的簡単で、北極星を観測します。この角度によって現在地の緯度がわかります。揺れる船の上では大まかなものですが。緯度は、北に行く程その角度は急になり、南に行けば北極星の位置は低くなります。それによって、どの位北に位置するのかはわかります。」
北極星を見て現在地を特定するのは、平蔵もやっている事なので良く理解できた。
「しかし、経度は特定するのが難しいのです。正確な時を刻む時計があれば、太陽が最も高く上った時間を計測する事により、時刻のずれで位置がわかるのですが、この正確な時を刻む時計が難しい……」
こうして、グロッキーな亦介を他所に、船の上でも松陰の講義が続き、旅は進んでいく。
香霊大明神のご加護もあって、海路は頗る順調に、平蔵達が真面目に香霊教への入信を考える程に快調に飛ばし、早くても5日だろうという予測を上回る、僅か3日で若狭湾に着いた。
「えらい早かったなぁ。こりゃあ本当に、香霊大明神様にお参りに行くようにしないといけねーな。」
平蔵が半分呆れ顔で呟いた。
まさか航海の全て、順風が吹くとは思ってもいなかったのだ。
幾度と無く日本海を渡ってきたが、この様な事など初めてであった。
「残念ながら、お社はまだありませんよ。」
「何だよ、まさかおめーさんしか信じてないとか言うなよ?」
「はっはっは! 何を仰る! 香霊様は、いずれこの日本を幸福で覆い尽くされる偉大な神様でございますぞ!」
カレーにはその力がある。
そう確信しているし、前世はそうであったので、松陰の言葉は誠に力強かった。
しかし平蔵はいささか覚めた目で松陰を見ている。
が、思い直した様に、
「……まあ、いいさ。今回のは、村田様に頼まれたモノで最初は正直気が進まなかったが、道中為になる話も聞けて楽しかったぜ。」
「私達の方こそ、無理なお願いを聞いて下さり、安全にここまで連れてきていただけて、本当に助かっております。ありがとうございました!」
「「ありがとうございました。」」
三郎太と重之助も元気に感謝の言葉を述べる。
「おう! 船が必要になったらまた俺に言いな! どこへでも連れて行ってやるぜ。」
「そんな事を言っても大丈夫でございますか? 次は清国にでも行きたいと考えておるのですよ?」
「清国だぁ?! がっはっは! 豪気じゃねーか! よし、俺が必ず連れて行ってやるよ!」
松陰が冗談めかせて今後の計画を口にする。
平蔵はそれを冗談だと思っているので快く承知した。
しかし、松陰は本気である。
来年始まるアヘン戦争を見物に行きたいと考えているのだ。
勿論、平蔵はそれを知らない。
安請け合いは程ほどに、であろうか。
口は災いの元かもしれない。
松陰は、前世の記憶を持つといっても、実際の現実としてのアヘン戦争を知っている訳ではない。
この目でしっかりと西洋列強の強さを見極め、今後の長州藩のあり方を考える材料としたいのだ。
そして、出来ればイギリスと密貿易をしたいとも思っていた。
藩の膨大な借銀は、密貿易でもして銀を稼がないと無理な様なのだ。
幸いな事に、日本には、西洋の金持ちが大金をはたいて購入したいと思う様な品々が一杯である。
それでイギリスを輸入超過にして失敗したのが清国であるが、日本にはイギリスから購入したい物は数多い。
主に軍事関係の蒸気船、大砲、銃、化学の知識などである。
その渡りも付けておきたいと考えているのだ。
冗談と思っているとはいえ、清国行きを了承した平蔵である。
これで船頭は確保した! と内心ガッツポーズの松陰であった。
そして一行は陸に降り立ち、今後は陸路を彦根藩国友に向け、歩を進める事になる。
これでやっと固い大地を歩めるのでござるな! と亦介は涙を流して喜んでいた。
二度とあんな船には乗らんでござる! とも絶叫していたのだが、清国には亦介も連れて行こうと目論んでいる松陰は、ニヤニヤした笑いを浮かべて亦介を見つめるのだった。
未だに船酔いが醒めきってはいない亦介がそれに気づく事は無い。
気づかないまま、知らないままって、幸せな事であったりする。
山口弁は、作者の地域の方言になります。
ですので萩とは異なるかもしれません。多用するつもりはありません。
語尾に付けるくらいにとどめたいです。
普段使っていないから間違いそうです・・・。




