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第十二話

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『人魚に気をつけろ』

 船乗りの間では、役に立たない幾つかの教訓や、初めての航海で受ける洗礼と共に、必ず語られる言葉がある。陸であまり語られることのない人魚の伝説は、船乗りたちの冒険心や虚栄心を少なからず刺激した。

 船乗りから船の墓場と呼ばれる、海底から隆起した岩場や洞窟などで出来た無人島が連なる場所がある。霧が深く地形も複雑なため船乗り泣かせなその海域には、別の名も存在していた。

「なあ、何か聞こえないか?」

「ああ? 風の音じゃねえのか?」

「いや、違う…何か、人の声のような…。ほら、また!」

「…聞こえねえじゃねえか。どうせお前、あれだろ? さっき見た幽霊船にビビってんだろ」

 視界の悪い甲板で、作業中の航海士とその航海士よりいくらか年嵩の水夫が海面を覗き込む。水夫の言う幽霊船とは、船の墓場という名に相応しく、座礁したまま朽ちて打ち捨てられていた船のことだろう。

 男が水夫に言い返そうと口を開いた瞬間、二人の体は甲板に投げ出された。それと同時に、金属が擦り合わされる耳障りな音が辺りに響き渡る。

「なんだ? 敵襲か⁉︎」

「違う! 誰かが錨を下ろしてるんだ!」

 腹に響くような重低音を(とど)ろかせて、船は動きを止めた。打ちつけた背中が痛むが気にしてはいられない。勝手に錨を下ろした不届き者は誰だと二人が立ち上がると、舳先の方から次々と海に何かが落ちるような水音がする。何かそれなりに大きなもの、例えば人間位の重さの、とそこまで考えが至ったところで、男たちは慌てて船の舳先へと走った。


『人魚に気をつけろ』その言葉には続きがある。大概の船乗りたちは、人を食べるという人魚ですら歓迎したくなるほど、女っ気のない海上生活にうんざりしていた。

 (しらみ)の湧く頭、()えた匂いのするベッド、ドロドロのオートミール。清潔で甘やかな肌を求めるのは多分、当然のことなんだろう。

『人魚に気をつけろ。霧の向こうの歌声は、愛しい娘のものじゃない。人魚の声が聞こえたら、耳を塞いで目を潰せ。そうすりゃ命は助かるだろう』

 欲に目の眩んだ男たちは、都合良く教訓を忘れた。もう一度忠告してくれるものなどいない。何故なら、人魚の狩場から戻った者などいないのだから。


「ただの与太話じゃなかったのか」

 正気を失って飛び降りようとしている仲間を羽交い締めにしたまま、男が呟く。

 不定期に続く水音に紛れて、故郷で良く歌われていたバラッドが聞こえた。懐かしい女の声が、郷愁を誘う旋律をなぞる。その切ない歌声は人魚のものなのか、それとも国に置いてきた女のものなのか。男は霧が覆う海面に目を凝らし、耳を澄ませた。

「フェデリカ…?」

 男の腕が緩んだ隙に仲間が暴れ出し、船のへりで揉み合いになる。航海士というどちらかといえば頭を使うことの多い男の力では、屈強な水夫に腕力で勝てる訳もない。二人がそのまま海に足を滑らせて落ちるのは、当然のことだった。



 ***



 子育てを協力して行う人魚たちは、大多数が固まって生活している。

 船が速度を自然と落とすことになるような難所は、人魚たちにとっては格好の狩場だ。視界の悪さに用心して周りの様子を窺う人間は、経験の浅い人魚のかぼそい声ですら聞き逃さぬよう、耳を澄ませてくれる。

 人魚は皆、美しい姿を持って生まれた。そのたおやかな外見は獲物を誘うために磨かれ、(たえ)なる声は聞くもの全てを魅了し、虜にするために囁かれるのだ。

 狩りをするのは主に女性の役割で、とても誇り高い仕事だとされている。自らの魅力のみで相手を虜にすることが出来れば、年齢を問わず一人前として扱われた。そうなれば、自由に住処から出ることも可能になる。年若い人魚たちの中にはそれを望む者も多かった。


「ヤスミン、それ本当?」

 集められた人間の中に、魅了が効かない者がいるらしい。ウラニスがその噂を聞いたのは、毎日繰り返される千里眼の訓練にうんざりして身を投げ出した時だった。

「多分ね。部屋から出てきた姉様たちがイライラしてるもの。怖いったらないわ」

 ヤスミンと呼ばれた少女は、海中のトンネルを通ってウラニスのいる洞窟に遊びに来ていた。足場になる岩の上に腰掛けて、時折尾びれを揺らしては水を跳ねさせている。いかにも退屈そうな様子で、への字に結んだ口元からは少し機嫌が悪いことが窺えた。年上の人魚から八つ当たりでもされたのかもしれない。

「ヤスミン、その人本当に人間なの? 魅了が効かないだなんて、私初めて聞いたわ」

「魚人なら流石に分かるでしょ? あ、でも獣人って可能性も…ないわ、それもすぐ分かるだろうし」

「掟通りなら解放されるのかしら」

「でも人間って泳げないんでしょ? 海の真ん中で解放されても困るんじゃない?」

 退屈な日常を壊してくれそうな話題に、ウラニスとヤスミンは不謹慎ながらワクワクしていた。二人ともまだ女性というよりは、少女という形容詞がしっくりくる年頃である。周りの大人たちに求められる役割をこなすことよりも、自分たちにとって楽しいこと面白いことを日々探すことの方が重要だった。

 世界は魚人だけのものではない。もちろん人間だけのものでも、獣人だけのものでもないことはある程度周知された事実だ。そのことから、互いにあまり干渉しないというのは暗黙の了解とされている。

 人魚がこうして狩りをして人を捕らえることが見逃されているのも、人間側に逃げる機会を与えているからでもあった。

「ねえ、ウラニス。捕まってる人が王子様だったらどうする? それで結婚を申し込まれちゃったりなんかして、ここから二人で逃げるの。ロマンチックよねえ…」

 芝居がかった様子でうっとりと自分の体を抱きしめるヤスミンは、どんな未来を想像しているのか。わざわざ千里眼で視なくても分かる妄想に、ウラニスも思わず笑ってしまった。

「期待し過ぎちゃだめよ。それに…(にえ)にはしないの?」

「今食べたって意味がないもの。私、ウラニスみたいに能力持ちでもないし。それに結婚を申し込まれたってなれば、相手を魅了したってことにもなるでしょ? そうしたら姉様たちのことも見返してやれるじゃない」

 人間の血肉は人魚の糧になる。だが群れの全ての人魚が、人間を必要とする訳ではなかった。大体は身籠った者や子育て中の者が精力をつける為に口にすることが多い。他には何らかの力を持った者が、能力の向上を期待して食べることもある。

「私は食べたくなんてないわ。だって姉様たちが連れてくる人間ってみんな野蛮だし、不潔なんだもの」

「ううむ、そうそう王子様なんているわけがないかー」

「…外の世界ならきっと見つかるわよ。それに多分そう遠いことじゃないわ」

 ちらりと視えた一瞬の映像に、満足そうに微笑むヤスミンの姿があった。周りに誰も見えないことが少し気になるが、その笑顔は普段ウラニスが見ているものより柔らかく、悪い未来じゃないことが窺える。

 閃きのようなものなのでいつとははっきり言うことは出来ないが、ヤスミンにとって良い未来なら早く来て欲しいと、ウラニスは願った。


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