17.森の冒険の終わりに
まぶたの裏に、チカチカとした光の残像が揺れていた。
ゆっくりと目をあけると、見慣れた木造の天井が視界に飛び込んでくる。鼻をくすぐるのは、埃っぽさと、かすかな酒の匂い。
酒場にある、僕の部屋だった。
「……あ」
身体を動かそうとすると、全身に軽い倦怠感があるだけで、ヴァインロードにやられたはずの腕も足も、全く痛まなかった。シーツをめくって確認してみる。血に染まっていたはずの肌は、傷痕ひとつなく白く滑らかなままだった。
ふと、横から気配を感じて視線を動かす。
ベッドのすぐ脇に丸椅子を置き、小さな身体を縮めるようにして、ルナが座っていた。いつもの元気なオーラはどこへやら、黒い大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、僕の顔をじっと見つめている。
「……リンくん」
僕が生きているのを確認すると、ルナの唇が震えた。そのままベッドの端に両手を突き、額を押し付けるようにして頭を下げる。
「ごめんね、リンくん……っ」
消え入りそうな、今にも泣き出しそうな声だった。
「私が……私がちゃんとお手本のカッコいいところを見せて、楽しい冒険にする予定だったのに……。私のせいで、リンくんにあんなに痛くて怖い思いをさせちゃって……。本当にごめんね……!」
ここまで運んでくれたのも、その完璧な回復魔法で傷を綺麗に治してくれたのも、全部彼女だろう。丸椅子の下に置かれたルナの靴が、泥でひどく汚れているのが見えた。僕を背負って、必死に森を走ってくれた彼女の姿が容易に想像できた。
僕は上体を起こし、ベッドの端から手を伸ばして、ルナの黒髪にそっと触れた。
「大丈夫だよ、ルナ。怒ってないし、ほら、傷も全部治ってる。ありがとう」
「でも……っ」
ルナは顔を上げた。涙で濡れた頬を袖で乱暴に拭いながら、悔しそうに唇を噛む。
「私は、リンくんにこの世界を『楽しい』って思ってほしかったの! それなのに、あんな化け物に襲われて、また死にかけちゃうなんて……っ。約束、守れなかった……!」
彼女がどれだけ本気で僕を気遣い、そして今回の事態に責任を感じているかが痛いほど伝わってくる。このままだと、彼女の心が罪悪感で押しつぶされてしまう。
僕は焦りを感じ、何か彼女の意識を切り替えられる話題はないかと、頭をフル回転させた。そして、あの極限状態で脳内に響いたログを思い出す。
「落ち込むことじゃないよ、ルナ! 怪我の功名っていうか、すごいことが分かったんだ!」
「え……?」
ルナが涙目を瞬かせ、きょとんとした顔で僕を見る。
「僕のスキルの『観測者』のことだよ。あれの本当の効果が分かったんだ。……多分これ、他人が使っている技をじっと見たり、その技を理解したりすると、自分も同じものをそのまま習得できちゃうスキルなんだよ!」
僕はベッドから身を乗り出し、確信を込めて言い切った。
ルナの動きが止まる。涙が溢れそうだった大きな黒い瞳が、みるみるうちに驚愕と、それから純粋な好奇心の輝きで満たされていく。
「……それって、本当!?」
「本当だよ。現に、あのヴァインロードに捕まった時、ルナが戦っていた時のイメージを必死に思い出したら、表示がでてスキルが書き込まれたんだ。それで、ルナと同じ『ファイアボール』と『ボルトチェイン』が使えるようになったんだ!」
ルナは丸椅子から勢いよく立ち上がり、僕の手をぎゅっと握り締めた。その顔は、すでにいつもの弾けるような笑顔に戻りつつある。
「すごい! すごすぎるよ、リンくん! それ、とんでもないスキルだよ!?」
「え、そうなの?」
「そうだよ! だって、スキルって普通の人なら生まれ持ったものか、それとも死ぬ気で何年も何十年もとんでもない努力を重ねて、ようやく一つ習得できるかどうかってものなんだよ!? それに魔法なんて、そもそも人によって適正属性が決まってるから、火の適正がない人はどれだけ頑張って勉強しても、一生『ファイアボール』なんて使えないのがこの世界の絶対のルールなんだから!」
ルナは興奮を抑えきれない様子で、両手をぶんぶんと振り回しながら熱弁する。
適正属性を無視して、見ただけで他人の魔法をコピーする。それは、この世界の前提を根本からひっくり返すような異常な能力だということだ。
心臓がドクドクと高鳴りを始める。
舞い上がっちゃダメだ。ここで調子に乗ったら、絶対にまた足元をすくわれる。
あの最初の日に兎に負けたこと、そして今日のヴァインロードの圧倒的な恐怖。どれだけ強力な手札があっても、僕自身のレベルや身体能力が追いついていなければ、簡単に死ぬ。それは今日、身をもって学んだはずだ。
「……いや、落ち着こう。どれだけ凄いスキルでも、僕がレベル4のままだと、また今日みたいに死にかける。もっと慎重に使わないと」
僕は深く息を吐き出し、自分に言い聞かせるように呟いた。
その様子を見ていたルナは、ふっと表情を和らげ、嬉しそうに目を細めた。僕の手を握る力を緩め、丸椅子に座り直す。
「うん……そうだね。リンくんは強い力を持っても、ちゃんと冷静でいられるんだね。そこも、すっごく素敵だと思う」
少し落ち着きを取り戻したルナは、ベッドの横に置かれていた僕のボロボロの服を綺麗に畳んだ。どうやら、泥や血を魔法か何かで落としてくれたらしい。
「よし! リンくんが元気なのも分かったし、私はそろそろ帰るね。……明日の酒場の仕事、頑張ってね?」
ルナはそう言うと、すっと立ち上がって部屋の木扉へと歩き出した。
その背中を見送りながら、僕は一瞬、頭の中が疑問符でいっぱいになった。
「え? ちょっと待って、ルナ。……明日も冒険に行くんじゃないの?」
扉に手をかけていたルナが、驚いたように肩をびくつかせて振り返った。
「え……? だって、あんなに危ない目にあったんだよ? リンくん、絶対に『もう冒険なんてこりごりだ! 酒場に引きこもる!』って怒って辞めちゃうと思ってたんだけど……」
ルナは申し訳なさそうに、人差し指同士をツンツンと合わせながら僕の顔を伺ってくる。
確かに、彼女の言う通りだ。植物の化け物に生きたまま喰われそうになった恐怖は、今でも思い出すだけで身体が震える。平穏な酒場での暮らしは、今でも魅力的で、安全で、居心地が良い。
けれど、
胸に手を当てて、自分の内側を覗き込んでみる。そこにあるのは、恐怖だけではなかった。
「確かに、めちゃくちゃ怖かったよ。もう二度とあんな目にはあいたくない」
僕は苦笑しながら、正直な気持ちを言葉に乗せていく。
「でもさ……ルナと一緒に戦って、シンドラーベアーを倒して、レベルが上がった時。あの時の、なんて言うか……言葉にできないくらいの達成感とか、ルナとハイタッチした時の嬉しさとか。その気持ちの方が、恐怖よりもずっと大きかったんだ」
ルナの黒い瞳が、じっと僕の言葉を吸い込んでいく。
「これからの冒険で、どんな景色が見られるんだろう、どんな凄いことが待ってるんだろうって思うと……今も、胸の奥がワクワクして止まらない自分がいるんだよ。だから、僕は冒険を辞めない。明日も、明後日も、ルナと一緒に世界を見に行きたい」
嘘偽りのない、僕の素直な本心だった。
それを聞いた瞬間、ルナの顔が、まるで夜の闇をすべて照らし出す太陽のような、満面の笑顔に変わった。その大きな黒い瞳から、一粒の涙が嬉しそうにこぼれ落ちる。
「――うんっ! よかった……! 本当によかったぁ!」
ルナは胸の前で両手をギュッと握りしめ、小さく足踏みをして喜びを爆発させた。
「じゃあ決まりね! 明日も朝一番で迎えに来るから、しっかり休んでね! また明日ね、リンくん!」
言うが早いか、ルナはバタバタと騒がしい足音を立てて、弾むように部屋を飛び出していった。閉まった扉の向こうから、酒場の廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。
僕はベッドに背中を預け、天井を見上げて小さく笑った。
身体を包むシーツは温かく、僕の胸の奥にある高鳴りは、次の朝を待ちきれないように脈打っていた。




