第37話 ロザリーと聖地サント
──十日前
「おお、神よ!」
静寂が支配する中で、冷たさに耐えながら白亜の石畳へと直に膝をつき、胸の前で深く手を組む素足の少女たち。
ここは聖地サントの大聖堂、そして少女たちは聖職者としての修行をしている。
清廉でどこか神聖を帯びた白色の光が彼女たちを包み込んでいる。その粒子は教会のステンドグラスを透過する陽光と交じり合い、まるで天から舞い降りた天使のような神々しい光景を作り出している。
「我らは願いません。乞いません。ただ、祈ります。ただ、誓います。神にその身を捧げ、生涯を尽くすことを」
少女たちを代表するように、亜麻色の巻き毛の少女が高らかに祈りの言葉を告げた。その透き通るような声は聖堂内を優美に反響し、微かな余韻を残しては消えていく。
「神の御言葉を賜りしその時は従いましょう。我らは神の下僕なり」
祈りの言葉が切れると、大聖堂はしんと静まり返った。
少女たちは一斉に深く頭を垂れ、静かな黙祷を捧げる。
「……素晴らしい。良き祈祷でした、アリー」
粛々とした黙祷の静寂を破り、掛けられたその声に亜麻色の巻き毛の少女はハッとして顔を上げた。
そこには妙齢の女性が凛とした佇まいで立っていた。
「ユリアンヌ様……!」
組んでいた手を解き、ゆっくりと体を起こす少女。その瞳には喜びの色が浮かび上がっている。
「その若さで、まるで何十年も修行したかのような尊く美しく堂々とした言の葉。まさに、聖女になるべくしてなろうとしているその片鱗を感じましたよ」
「そんな……勿体無いお言葉です。ユリアンヌ様」
アリーと呼ばれた彼女こそは、この大聖堂に集う修行者たちの誰もが「次代の聖女」と認めて疑わない、筆頭候補であった。
立ち振る舞いの優雅さ、紡ぐ言葉の気高さ、そして何よりその身に宿す神聖魔力の圧倒的な精緻さ。同世代の修行者たちにとって、彼女は嫉妬の対象にすらならない程に遥か高みに位置する絶対的な存在である。
そして、そのアリーが唯一、心からの敬意を抱いて仰ぎ見る師のような存在。それこそがユリアンヌであった。
二人の姿は、この世界の聖書に書かれる神の生まれ変わりである者とその師の姿そのままであると、この地に住まう人々の誰もが讃えていた。
「類稀な才能。それに胡座をかかない、弛まぬ努力。まさに理想の姿と言えましょう」
現在行われているのは祈祷の訓練。一回につき、約三十分は掛かる内容(祈祷の文句はその日によって異なる)を一言一句違えずに何度も繰り返す。長い時には十時間にも及ぶこともある。
特に冬ともなると氷点下の冷気が大聖堂を包み込む中、感覚が麻痺するような冷たい石畳の上に素足で佇み行うのだ。
「ですが、だからこそ、綻びがあればすぐに分かってしまうというもの。祈祷の言葉を僅かに早めていましたね?」
「……やはり、ユリアンヌ様には見抜かれてしまいましたか」
アリーは申し訳無さそうに視線を逸らした。
「申し訳ございません。修行者の中に具合の悪そうな方がいらしたので、早めに終わらせねばと。祈祷を途中で止めることは出来ませんから……」
アリーがチラッと向けた視線の先には、見るからに顔が青ざめ、今にも倒れそうな少女がいた。
「誰か、その子を部屋まで連れて行きなさい」
ユリアンヌが静かにそう命じると、何人かの修行者がすぐさま歩み寄り、倒れかけていた少女の身体を支えた。
それを見ながら、ユリアンヌは青ざめた顔の少女に淡々とした口調で言葉を重ねる。
「貴女、今日はもう部屋から出なくていいですよ。その代わり、明日には体調を万全に戻しなさい」
「は、はい……。すみませんでした……」
消え入るような声で謝罪した少女が支えられながら大聖堂を去っていくのを、アリーは心配そうに見送っていた。
その表情の陰りに気付いたユリアンヌは、すぐに視線をアリーへと戻す。
「アリー。貴女のその誰にも分け隔てない優しさは美徳です。ですが、それは人としての優しさであり、神に仕える者としての優しさではありません」
ユリアンヌは背筋をすっと伸ばし、諭すように問い掛けた。
「神は全ての人間を幸福にはしません。何故だと思いますか?」
「……幸福とは普遍的なものではなく、人それぞれに異なるからでしょうか?」
問いの意図を測りかね、アリーは一瞬言葉を詰まらせたが、意を決したように言葉を返す。
「ええ、その通りです。そして、他の誰かの不幸の上に成り立つこともまた、この世の摂理。全員が等しく幸福になるということは有り得ません。神はそれを分かっているからこそ、そのような無駄なことはなさらないのです」
ユリアンヌの言葉が、アリーには大聖堂の石畳のように冷たく聞こえていた。
「アリー。叶う筈もない理想を追うことは、聖女のすべきことではありません。先代の聖女が亡くなり、空位になった今、その重責を担う筆頭である貴女は、その現実を受け入れなければならない。全員を救うのが聖女ではありません。救うべき者を救うのが聖女なのですから」
「……はい。精進します」
「それでは、次の修行へ移りなさい」
アリーは、他の修行者たちと一緒に身を清めるための滝行へと向かった。
「……やれやれ。あの子には聖女になって貰わないと困るのですよ。この体は聖女になれませんでしたからね」
ユリアンヌは胸元にそっと手を当て、微かな吐息をついた。
「……そう言えば、近い内に来客があるのでしたっけ。フフフ、あの人は恐らく来ないでしょうね。私に会いたく無いでしょうから」
そう独り言を呟く彼女の影が、一瞬揺らめく。
「……誰かそこにいるのですか?」
声を飛ばすが、何も返っては来ない。
視線を滑らせても、静けさに包まれた石柱が佇んでいるだけだった。
「気のせい……ですか。まあ、良いでしょう」
疑問を深追いすることもなく、ユリアンヌはそのまま背を向けて奥へと消えていった。
「……神、ねえ」
大聖堂の二階、影の差す回廊の暗がりから、誰にも気付かれずに一部始終をじっと見下ろしていた人物がいた。
「その神とは、一体誰にとっての神なんだろうねえ」
声の主は、鼠色のローブの深いフードに顔を隠し、嘲笑うでもなく、ただ冷ややかな感慨を込めて呟く。
「……ここはまだ私の出る幕ではない。彼女たちに任せるとしよう」
誰に聞かせるでもなくそう言い残すと、鼠色の影は滑るような足取りで回廊の闇へと溶け込み、跡形もなく姿を消した。
──現在
「ハァ、ハァ。やっと、やっと着きましたわ!!ここが……」
「聖地サントなんだね!!」
聖地サントは山の頂にあるため、移動馬車で登ることは出来ず、停留所からは徒歩で行かねばならなかった。
それ程高い山ではなく、巡礼などで訪れる者も多いので山道は整備されており、モンスターや魔獣に遭遇することは無かったものの、それでも数時間の登山は旅慣れていないロザリーにはキツいものであった。
「うわあ……凄いなあ……」
聖職者たちの修行地の総本山であり、何処か荘厳な雰囲気が辺りに漂っている。
普通の生活をしている内は、なかなか訪れる機会も無い場所なだけに、サピオの目がキラキラと輝いていた。
「さ、サピオは全然元気ですのね……。さ、流石は、男の子ですわ」
乱れた息を整えるのに必死なロザリーは、少しは息を切らしながらも、もうピンピンしているサピオを見て言った。
「ホッホッホ。前衛では無いとはいえ、お嬢様も少しは体力を鍛えた方がよろしいですかな?」
「お嬢様!ジョギングでしたら手伝いますです!一緒に走りましょう!」
ジュールとテスカに関しては、息一つ乱していない。
執事とメイドの二人、どちらも動きやすい格好ではないのに、それをまるで意に介していないようであった。
「そ、それはまた何れということで」
数分経つと、ロザリーも体力が回復し始め、息も整い始める。
「……うぅ、急に体が冷えてきましたわ。汗を掻いたからかしら?」
「標高が高いですからな。地上よりも冷えますし、何よりも今は季節が冬ですので」
そう言いながら、ジュールはここへ来るまでにいつの間にか露店から買ってきていた温かいスープの入った木製のカップを差し出す。キノコを豆のミルクで煮た珍しいスープであった。
ロザリーはそれを受け取ると、まずスープの熱で悴む手を温めながら、ふーふーする。
それを横目で見ながら、サピオが首を傾げた。
「そう言えば、雪は降らないんだね?」
「この辺一帯は土地柄、雪があまり降らないのでございます。だからこそ、修行の場として抜擢されたとも言えるでしょうな。降雪は交通面で不便です故、冬の間の滞在が困難になりますから」
「ズズッ……あー、温まりますわ!」
ロザリーは息を吹き返したかのように言った。
「しかし、ワタクシが今着ているのは冬用の厚手のドレスですけれども、こうも寒いともう一つ何かを羽織りたいところですわね」
「あ、お嬢様!あそこで防寒具が売ってますですよ!」
「聖地サントは観光地としても有名で、多くの観光客が訪れます。そういった方にも、という心遣いでしょう」
見渡せば、山頂の広場には巡礼の信者だけでなく、土産物を品定めする旅行客で賑わっていた。
湯気の立つ露店や珍しい土産物に目移りしながら、寒さに身をすくめたロザリーの視線が、一際暖かそうな毛皮や織物が並ぶ防寒具屋でぴたりと止まる。
露店の店主と目が合い、吸い寄せられるように足を一歩踏み出そうとした、まさにその時であった。
「あれ?もしかして……ロザリー!?」
聞き覚えのある声に、ロザリーは思わず振り返った。
「あ、貴女たちは!!」
ロザリーがそこで目にしたもの。
それは、学園での友人たち。ミシェル、グレアー、ダイルの三人であった。




