Piano
初めてかわされた,この指揮棒。
相手は恐れることなく,笑みを浮かべている。
この俺の力で踊らされ,俺の獲物となるはずの相手なのに。
その相手は俺の間合いから逃れ,生きている。
掠夜は息苦しいのも分からなくなるくらい,私の顔を驚愕の面持ちで見ていた。私はそれを余裕の笑みで迎える。
「驚きました?」
彼の口は開くが,言葉が出てこない。
時間としてはたった数秒だが,掠夜は自分を支えきれず,床に倒れこんだ。
時間が無い。
私が彼をこのままにしていたら,補うモノがなくて,死に至る。
私は手にしていたトランペットを置き,掠夜のそばに座って背中をさすった。
「諸刃の剣なんですね,貴方は。」
そう呟き,2階に上がってピアノに向かった。そして,呼吸を整えてから鍵盤に手を置く。
「グラナドス作曲,スペイン舞曲第2番,オリエンタル。」
曲名を言い,弾き始める。私はそんなに上手くない。むしろ,下手な部類だ。だが,好きな曲は別。熱の入れようが違うのが歴然としているが,そんなのは構わない。
弾きたいのを弾きたいときに弾く。
曲が流れるにつれて,掠夜の身体から力が抜けていった。
(これで死ぬのか?俺が?)
散々人を自分の獲物としてきたのに,糧としてきたのに。そう思うことに苦笑する掠夜。
だが,彼は気付いた。
これは死ではない。
生である。
曲の終盤。息切れは嘘のように無くなり,掠夜はすくっと立ち上がった。力を使った倦怠感は全く無く,身体どころか心までもが癒された気持ちであった。
「どうですか?」
私は立ち上がって不思議そうに手を握り締めている掠夜に声を掛けた。掠夜は2階から見下ろす私を見てうなずく。
「上手いね。」
「ありがとう。でも,そういう意味で言ったわけじゃないんですけれど。」
掠夜は薄笑いを浮かべた。
(こいつを手に入れる。)
「君の音は癒しを含んでいるんだね。しかも,死んだ人を蘇らせるほど強い癒しだ。」
私はにっこり笑う。掠夜の評価が気に入った。
「もちろん,逆も出来ますけれどね。でも,基本的に貴方にした事の方を多く使います。」
掠夜は朗らかに言う私に,卑しい雰囲気の全く無い真っ当な笑顔を向けてから2階に上がってきた。
「そういう人も欲しいね。仲間にならないか?」
私は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「貴方の力を見破り,貴方の魔の手から逃れ。でも殺しはしなかった私です。黒にはなれません。」
そばにあったチェスの駒を投げる。黒いチェスの駒だ。それを受け取り,掠夜はニヤッと笑む。
「全てが黒にならなくてもいい。」
そう言い,チェスの駒を投げてきた。ただし,今度は白いチェスの駒だ。
「チェスにだって,黒と白があるんだ。もちろん,君にも。俺は微妙だけどね。」
「限りなく黒に近い気がしますけど?」
クツクツと笑む掠夜。
「本当にそうかどうか,側で見ていないか?」
手を差し出してきた。私はその手と顔を交互に見る。
この人は取るに足る人であろうか。
私は数分考え抜き,差し出された手を無視して掠夜の首に腕を回した。彼は驚くこともなく,相変わらず微笑みを浮かべていた。
蜘蛛の巣に引っかかった蝶のような気持ちになるが,それもいいのかもしれない。
「そこまで言うのなら,なりましょう。」
もったいぶるように言い,それから彼の唇に自分のを重ねた。
「自分で癒しておきながら,俺から奪うとはな。」
唇をはなした瞬間,掠夜がそう言った。その言葉に苦笑する。
「私だって力を使えば疲れるんです。元気な人から分けて貰うのは,当然でしょ。」
悪びれた様子もなく言う私に,掠夜はキスをしてきた。
どちらが獲物なんだか。