第一話 異世界転生⁈愛犬が神獣様ってどういうことですか?
ブラック企業で働く神田エレナは、愛犬ロブだけを支えに生きていた。
ある夜、事故に巻き込まれたエレナはロブとともに異世界へ転生してしまう。
剣も魔法も使えず、異世界のことを何も知らないエレナ。
しかも愛犬のロブには驚くべき秘密があった。なんと、魔獣と心を通わせることのできる「神獣」だったのだ。
ドラゴンの襲撃から街を救ったことで、エレナとロブは王宮へ招かれる。
けれどエレナにとって大切なのは、英雄になることでも、豪華な暮らしでもない。
ただ、どんな世界でもロブと一緒に穏やかに暮らすことだった。
そんな思いをよそに魔獣を巡る不可解な事件と、境界に関わる神獣の秘密が立ちはだかる。
神獣と呼ばれてもうちの子はうちの子。愛犬と共にこのミステリーに立ち向かうエレナの物語が始まる。
「神田さん、この資料、今日中にお願い」
「はい」
「あと、明日の会議の議事録。先方へのお詫びメールもお願い」
「はい」
「それから――」
「はい」
私は、ほとんど反射だけで返事をしていた。
パソコンの画面には、未読メールが三十七件。赤い印のついた締め切りが六件。時計を見ると、すでに夜の十時を回っている。
オフィスに残っているのは、私を含めた数人だけだった。
「神田さん、助かるわぁ。ほんと仕事できる人って貴重よね」
褒めているようで、ただ仕事を増やしているだけだ。
私は愛想笑いを浮かべた。
「ありがとうございます」
本当は、ありがとうなんて一ミリも思っていない。
けれど、言ったところで何かが変わるわけでもない。私はため息を飲み込み、キーボードを叩いた。
仕事は嫌いではなかった。むしろ、やるべきことを整理して、期限までに片づけるのは得意だった。面倒な相手との連絡も、混乱した案件の立て直しも、やろうと思えばできる。
だからこそ、任される。任されるたびに、私の時間は減っていった。
そしていつの間にか、家に帰ってロブの寝顔を見るためだけに、一日を生き延びるようになっていた。
「……帰ろう」
最後のファイルを送信して、私はパソコンを閉じた。
帰り支度をしながら、スマホを確認する。待ち受け画面には、ベッドの上で耳を広げているロブの写真があった。
パピヨンのロブは、私が二十六歳のときに家に迎えた犬だ。
ブリーダーさんのホームページで紹介されていた生まれたばかりの小さいパピヨン。見学に行ったときは私を見て震えていたっけ。
あの瞬間から、私の生活はロブ中心になった。
仕事でどれだけ理不尽なことがあっても、ロブが家で待っていると思えば乗り切れた。
散歩に行けば、ロブは世界で一番嬉しそうに跳ねた。
私が泣いているときには、静かに膝へ乗ってきた。
犬と一緒に過ごすことが、こんなに温かいことだとは、ロブが来るまで知らなかった。
「今から帰るよ、ロブ」
スマホの写真に向かって小さく言う。
今日は帰りに、ロブの好きなささみジャーキーを買っていこう。いつもより少し高いやつを。
そう決めたら、少しだけ足が軽くなった。
会社を出ると、夜の空気は冷たかった。雨上がりの道路が街灯を映して、やけに眩しく見えた。
帰宅すると、ロブが尻尾を振って玄関まで迎えに来た。疲れていたけれど、その顔を見たら散歩を休む気にはなれない。
「少しだけ、散歩行こうか」
「わん!」
夜の道を並んで歩き、交差点へ差しかかったときだった。
耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。信号を無視した車が、まっすぐこちらへ迫っていた。
「……え?」
「ロブ!」
私は夢中でロブを抱きしめた。
逃げる間もなかった。
白い光が視界を埋め尽くす。
◇
次に目を開けたとき、私とロブは見知らぬ草原に倒れていた。
風が吹いている。
草の匂い。湿った土の匂い。どこかで鳥が鳴いている。
私は、ゆっくりと起き上がった。
「……え?」
目の前には、見たこともない広大な草原が広がっていた。
空はどこまでも青い。雲は白く、大きく、低い。遠くには、山々が連なっている。
ここは、どこだろう。
頭が混乱して、呼吸が浅くなる。
交通事故。白い光。そうして――。
「ロブ……」
真っ先に口から出たのは、その名前だった。
私は勢いよく立ち上がった。
「ロブ! ロブ、いるの!?」
草原に私の声が響くが、返事はない。
鞄もない。スマホもない。仕事用のパンプスと、しわの寄ったスーツだけが私の身につけているすべてだった。
ロブの姿は見えない。
「ロブ……お願い、出てきて……」
泣きそうになった。そのとき、背後の草むらが、がさりと揺れた。
「わん!」
聞き慣れた声に、私は振り返った。
「ロブ!」
白と茶のふわふわの毛並みを揺らしながら、小さなパピヨンがこちらへ走ってくる。
大きな耳をぴんと立て、いつものように嬉しそうに尻尾を振っている。
ロブは私の足元まで来ると、何度も飛び跳ねた。
私はその場にへたり込み、ロブを抱きしめた。
「よかった……よかったぁ……」
ロブの体は温かかった。ふわふわの毛も、少しだけ土のついた足も、確かにいつものロブだった。
「怖かったね。ごめんね。ひとりにしてごめん」
ロブは私の頬をぺろぺろと舐めた。
それだけで、張りつめていたものが切れた。
私は声を上げて泣いた。
ロブは困ったように鼻を鳴らして、それでも私の胸元に顔を押しつけていた。
しばらく号泣したあと私は、ロブのお腹を撫でながら現実を考え始めた。
まず、ここが日本ではないことは間違いない。
次に、私は事故に遭ったはずなのに怪我をしていない。
そしてロブもいる。
「……異世界、とか?」
口に出した途端、自分で馬鹿らしくなった。
でも、空の色も、草原も、遠くを飛んでいる鳥のような生き物も、私の知っているものではなかった。鳥というには羽が大きすぎるし、尻尾が三本ある。
ロブもそれを見つけて、うう、と低く唸った。
「大丈夫。飛んでるだけだから」
そう言ったものの、私のほうが大丈夫ではない。
水もない。食べ物もない。地図もない。スマホもない。
異世界転生という言葉が本当なら、せめて魔法くらい使えてほしい。
わずかな希望を抱きながら、私は片手を前へ出し、いつか観た映画の真似をしてみた。
「……火よ、出ろ」
何も起きない。
ロブが不思議そうに首をかしげた。
「そういう目で見ないで。恥ずかしいから」
ロブは一度だけ尻尾を振った。
その顔があまりに普通で、少しだけ笑えた。
「まあいいや。魔法がないなら、ないなりに生きるしかない」
私は元来、面倒くさがりだ。
ただし、やるしかない状況に置かれると、諦めるのも早い。
まずは人のいる場所を探す。水を確保する。ロブを危険から守る。優先順位はそれだけだった。
太陽の位置を見て、草が踏まれている方向を探す。よく見ると、遠くに細い道らしきものが見えた。
「ロブ、行こう」
私が歩き出すと、ロブはすぐに私の左側へついた。
いつもの散歩の位置だった。それが、妙に嬉しかった。
「偉いね。ちゃんとヒール出来たね」
ロブは褒められたとわかったのか、胸を張るように歩いた。
一時間ほど歩いた頃、道の先に小さな街が見えてきた。
石造りの家、木の柵、赤い屋根、煙突から立ちのぼる煙。まるで絵本のようなメルヘンな雰囲気。
街の門の前には、槍を持った男たちが立っていた。服装は明らかに中世風だった。
私はロブを抱き上げ、門へ近づいた。
「止まれ」
門番のひとりが、低い声で言った。
「どこの者だ?」
「ええと……その……」
困った。
日本から来ました、と言ってもいいのか。
「旅の途中で、仲間とはぐれてしまって」
完全な嘘ではない。仲間はロブだけだけれど。
門番は私の格好を見た。スーツ、パンプス、そして抱かれているロブ。
怪しまれているのがわかる。
ロブが、門番をじっと見た。
「わん」
小さな鳴き声だった。
門番の男は、なぜかびくりと肩を震わせた。
「……犬、か?」
「はい。ロブです。噛みません」
ロブは私の腕の中で、門番から視線を逸らさなかった。
すると門番は、槍を持つ手を少し下げた。
「……まあいい。街へ入るなら、騒ぎは起こすな」
「あ、ありがとうございます!」
思ったよりあっさり通してもらえた。
街の中は賑やかだった。
露店では色鮮やかな果物が並び、パン屋からは香ばしい匂いがする。馬車が石畳を走り、子どもたちが木剣を振り回して遊んでいる。
そして、人々は私たちを見る。
特にロブを見る。
「珍しい犬だな」
「耳が大きい」
そんな声が聞こえるたび、私はロブを抱く腕に力を入れた。
ロブは警戒心が強い。人混みはあまり好きではない。日本でも、知らない犬が近づくと私の脚の後ろに隠れることがあった。
けれど今のロブは、私の腕の中で静かだった。
きょろきょろと街を見回し、パン屋の匂いに鼻をひくつかせている。
「お腹すいた?」
ロブの耳がぴんと立った。
「わかりやすいなあ」
私もお腹が空いていた。けれど、お金はない。
露店を眺めていると、ふいに足元が揺れた。
どん、と地面の奥から何かが響いたような、重い振動。
人々がざわめく。
二度目の揺れは、もっと大きかった。
どどん。
家の窓が震える。
「何?地震?」
空を見上げた人が、悲鳴を上げた。
「ドラゴンだ!」
私は反射的に空を見た。
遠い山の向こうから、黒い影が近づいてくる。
最初は雲かと思った。
けれど影は翼を広げ、ゆっくりと、しかし圧倒的な速さでこちらへ向かっていた。
巨大な竜だった。
黒い鱗、太い尻尾、屋根をひとつ軽く飲み込みそうな大きな口。そして赤い目。
ドラゴンが咆哮する。
空気が震え、ロブが私の腕の中で身を固くした。
「避難しろ!」
どこかで鐘が鳴り始めた。
人々は悲鳴を上げ、荷物を置き去りにして家へ駆け込む。露店が倒れ、果物が石畳を転がった。
私は動けなかった。
怖い。どこに逃げればいいのかもわからない。
剣もない。魔法もない。ここに来てから、まともに水すら飲めていない。
それでも、ロブだけは守らなければならない。
「ロブ、大丈夫だよ。私がいるから」
震える手で、ロブを胸に抱き込む。
ロブは私の服を前足で押した。
「……どうしたの?」
いつもなら、怖いときは私にしがみつく。
なのにロブは、私の腕から抜け出そうとしていた。
「だめだよ」
「わん!」
珍しく、強い声だった。
ロブは私の腕をすり抜け、石畳の上へ降りた。
「ロブ!」
ロブはドラゴンのいる空を見上げた。
小さな背中が、ぴんと伸びている。
ドラゴンは街の上空で翼をはためかせ、赤い目を細めた。口の隙間から、火の粉のような光がこぼれている。
誰かが叫んだ。
「騎士団はまだか!」
「防壁魔法を張れ!」
街の外から、馬の蹄の音が近づいた。
銀色の鎧をまとった騎士たちが、街道を駆けてくる。その先頭を走る騎士が長い剣を抜き、ドラゴンを見上げている。
「全員、建物の中へ! 魔法兵は西門の防壁を補強しろ!」
よく通る声だった。
騎士たちが素早く散開する。
剣を持った騎士は馬から飛び降り、私とロブの近くまで駆け寄ってきた。
「そこの君! 危険だ、逃げろ!」
「でも、犬が……!」
「犬?」
騎士はロブを見た。
その瞬間、ロブが一歩前へ出た。
そして、小さな体で空を睨みつけた。
「わんっ!」
たった一声だった。
けれど、ドラゴンが羽ばたきを止めた。
巨大な赤い目が、ロブを見下ろす。
次の瞬間、ドラゴンの体が明らかに震え始めた。
「……何だ?」
騎士が息を呑む。
ドラゴンは口を開いた。
炎を吐くのかと思った。
私はロブを抱き上げようとした。
けれど、ドラゴンが発したのは、炎を吐くのでも咆哮でもなかった。
低く、苦しげなうめき声だった。
ドラゴンは大きな翼をたたみ、街の外へ降り立った。地面が揺れ、土煙が舞い上がる。
騎士たちが剣を構える。
ロブは一切ひるまなかった。
小さな足で石畳を歩き、街の外へ向かう。
「ロブ、待って!」
私は追いかけた。
騎士が私の腕を掴む。
「行くな! あれはただの飛竜ではない。成体のブラックドラゴンだ!近づくのは危険だ」
「ロブが行っちゃうんです!」
「犬一匹のために命を捨てる気か!」
「犬一匹じゃありません!」
思わず、声を荒げた。
「ロブは、私の家族です!」
騎士の目がわずかに揺れた。
私はその手を振りほどいた。
「お願い。ロブをひとりにしたくない」
ロブは街の外で止まっていた。
ブラックドラゴンは、ロブの前で頭を下げている。
見間違いではなかった。
あれほど巨大なドラゴンが、小さなパピヨンを前にして、まるで叱られた子どものように首を垂れていた。
ロブはブラックドラゴンの鼻先まで歩くと、鼻を近づけた。
くん、と匂いを嗅ぐ。
ブラックドラゴンは動かない。
ロブはもう一度、くんくん、と嗅いだ。
それからドラゴンは、困ったように小さく鳴いた。
「きゅうん」
その声を聞いた途端、私にはなぜかわかった。
このドラゴンは、怒っているのではない。 苦しんでいる。
「怪我をしてる?」
よく見ると、ブラックドラゴンの左の翼の下には、深い傷があった。鱗の隙間から血が流れ、折れた矢のようなものが刺さっている。
ロブはブラックドラゴンの傷を見つめ、私のほうを振り返った。
「わん」
「……取ってほしいの?」
ロブが尻尾を振る。
私はブラックドラゴンを見上げた。
怖い。ものすごく怖い。
けれどロブが、助けてあげたいと言っているなら。
ロブが信じている相手を、私が見捨てるわけにはいかなかった。
「医者……お医者さんはどこですか!」
私は振り返り、叫んだ。
皆呆然としていたが、騎士が、はっとしたように部下へ命じる。
「ディート医師を呼べ! 薬草店から止血薬も!」
「団長、しかし……」
「早くしろ!」
その声で、騎士たちが動き出した。
団長と言われていた騎士は私の隣に立った。
「君は、正気なのか」
「たぶん、あまり正気じゃないです」
「自覚はあるらしい」
「ロブが大丈夫って言ってます」
「犬の判断を信じるのか?」
私はロブを見た。
ロブはブラックドラゴンの前で、じっと座っていた。
大きな竜の鼻息が、ロブの耳の毛を揺らしている。それでもロブは逃げない。
「信じます」
私は答えた。
「この子は、私が苦しいときにいつもそばにいてくれるんです。だから今度は、私がロブを信じます」
彼は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「……ルーク・ヴァレンティア。王都騎士団の団長です」
「え?」
「あなたの名前は?少なくとも、命を懸ける相手の名前くらいは知っておきたい」
少し意地悪な言い方だった。
でもその目は、さっきより柔らかかった。
「エレナです。エレナ・カンダ」
「カンダ?」
「この国にはない名字ですよね。説明すると長いので、今は省略します」
「わかった。では、エレナ。ここから離れないでください。何かあれば、俺が止めるので」
「止めるって、ドラゴンをですか?」
「君を」
「そっちなんだ」
ほんの少しだけ、笑いそうになった。
そのとき、白衣の人物が騎士に連れられて走ってきた。
「どこだ、患者は!」
白衣の人物は、ブラックドラゴンを見上げて固まった。
「……これが…患者?」
「ディート先生、ブラックドラゴンの翼に矢が刺さっています」
ルークが言う。
ディート医師は顔をしかめた。
「当たり前のようにドラゴンを診せるな! 僕は人間を診る医者だよ!」
「でも、ロブが助けてって」
私が言うと、ディート医師はロブを見た。
ロブはブラックドラゴンの横で、きちんとおすわりをしている。
ディート医師はしばらく黙り、やがて大きくため息をついた。
「……頼まれたなら仕方ない」
「診てくれるんですか?」
「人間だろうが、犬だろうが、ドラゴンだろうが、苦しんでいるなら患者だからね。君も手伝って。死にたくなければ、急に動かないこと」
診察が始まった。
ブラックドラゴンは、ロブがそばにいる間、驚くほど大人しかった。
ディート医師は矢を調べ、毒が塗られていることを見抜いた。騎士たちが数人がかりで翼を支え、ルークが矢を抜く。
ブラックドラゴンが苦痛でうめくたび、ロブは鼻先を寄せた。
「大丈夫だよ」
私は思わず、ロブに言った。
するとロブは、私を見た。
その目は、いつものロブだった。
散歩の途中で、知らない音に驚いたとき。動物病院の診察台で不安そうにしたとき。私が「大丈夫」と言うと、少しだけ安心したあの目。
私はしゃがみ込み、ロブの背中を撫でた。
「偉いね。怖いのに、ちゃんと助けてるね」
ロブの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
やがて矢が抜かれ、薬が傷口に塗られた。
ブラックドラゴンは大きく息を吐いた。
それはさっきまでの威嚇ではなく、苦痛から解放されたような、深い吐息だった。
ブラックドラゴンはロブの前で頭を下げた。
「グルル……」
ロブは黒竜の鼻先を、ぺろりと一度だけ舐めた。
その瞬間、黒竜の体から淡い光が広がった。
皆、言葉を失った。
「……神獣の加護」
ディート医師が呟いた。
「まさか。本当に……?」
ルークがロブを見つめる。
周囲に集まった騎士たちが、次々と膝をついた。
「な、何してるんですか?」
私が慌てて言うと、ルークはゆっくりと片膝をついた。
「伝承は本当だった」
「伝承?」
「神獣。すべての生き物と心を通わせ、争いを鎮め、傷ついた命を癒やす存在」
ルークの声は、震えていた。
「神獣は、数百年前にこの地から消えたと言われていた。だが……今ここにいる」
「え?」
私はロブを見た。
ロブは、ブラックドラゴンの鼻息で耳の毛をなびかせながら、何となく誇らしげに座っている。
「いやいやいや」
私は両手を振った。
「うちの子は普通の犬ですよ!」
沈黙が流れ、騎士たちの視線がロブに集まる。
ブラックドラゴンまでもが、赤い目でロブを見つめている。
私は必死に誤解を解こうとした。
「ほら、ロブはおやつが大好きで、雨の日の散歩は嫌いで、知らない人にはちょっと警戒するだけの、ごく普通のパピヨンで……!」
「わん」
ロブが鳴いた。
まるで「そうです」と同意するように。
その姿が可愛すぎて、私は思わず抱き上げた。
「ね? 普通でしょう?」
ルークは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……少なくとも、君にとってはそうなのだろう」
「そうです。私にとっては、世界で一番大事な普通の犬です」
ロブは私の腕の中で、満足そうに丸くなった。
そのとき、ブラックドラゴンが翼を広げた。
人々が再び身構える。
しかしブラックドラゴンはエレナたちを傷つけることなく、低く頭を下げた。そしてもう一度ロブを見つめると、空へ飛び立った。
大きな翼がはためく。
ブラックドラゴンは、夕焼けの向こうへ消えていった。
街には、静けさが戻った。
けれど人々の視線だけは、以前とは違っていた。
恐れと、驚きと、敬意。
私はそれが少し苦手だった。
ロブはロブだ。
伝説の神獣でも、英雄でもない。ただ私の大切な家族だ。
「エレナ」
ルークが言った。
「国王陛下へ報告しなければならない。神獣が現れたとなれば、王宮は必ずあなたたちを招くだろう」
「王宮……」
嫌な予感しかしない。
私はロブを見る。
ロブは私の腕の中で、すやすや眠り始めていた。大騒ぎのあとだというのに、いつもの寝る前の顔だ。
「ロブは疲れてます」
「それは、わかります」
「私たち、まず泊まる場所を探さないと」
「騎士団の宿舎を用意する」
「いやいや普通のホテルとかで大丈夫です。ロブが落ち着ければ」
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
ルークは笑った。
ほんの短い笑みだった。
けれど、疲れ切っていた私の胸に、なぜか小さな灯りがともった気がした。
異世界に来たばかりで、明日のごはんすらわからない。ロブの水も、寝床も、まず確保しなければならない。
それでも。
この世界で初めて会った人が、私たちを「危険なもの」ではなく、守るべき誰かとして見てくれたことは、少しだけうれしかった。
その夜、私は街の宿でロブと同じベッドに入った。
ロブは私の胸元にぴったりくっつき、安心したように寝息を立てている。
窓の外には、月が浮かんでいた。
「ロブ」
小さく名前を呼ぶ。
「私たち、これからどうしようね」
ロブは眠ったまま、尻尾を一度だけ振った。
私はその背中に手を置く。
「まあ、いいか」
明日のことは明日考えよう。
仕事のように、全部を今すぐ片づけなくていい。
ここには、終電も、未読メールも、理不尽な上司もいない。
いるのは私とロブ。
それだけで、今は十分だった。
翌朝。
部屋の扉をノックする音で目が覚めた。
「エレナ・カンダ様。王宮より正式な招待状をお持ちしました」
ドアの外から聞こえた声に、私は布団の中で固まった。
ロブは眠そうに顔を上げ、首をかしげる。
「……王宮、だって」
ロブはなぜか尻尾を振った。
そしてドアの隙間から差し込まれた、金の紋章が押された招待状を見つめる。
次の瞬間、ロブはベッドから飛び降りた。
招待状をくわえ、得意げに私の前へ運んでくる。
「わん!」
「行きたいの?」
ロブは満面の笑顔で尻尾を振った。
私は天を仰いだ。
平穏な暮らしとは、たぶん程遠い。
でも、ロブが一緒なら何とかなる気もする。
私はロブを抱き上げ、額をこつんと合わせた。
「わかった。行こうか、ロブ」
そのとき。遠い王都の方角から、空を裂くような咆哮が響いた。
ロブの耳が、ぴんと立つ。
私の腕の中で、ロブは低く唸った。
「……次は、何?」
窓の外では、月がまだ薄く残っていた。
私はまだ知らなかった。
ロブを呼ぶものが、この世界にはまだいることを。
――第一話おわり




