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問題が起きたのは、木枯らしが吹き始めた夜のことだった。
深夜、サチコは物音で目が覚めた。
アンナのベッドが空だった。
(おかしい。)
サチコは上着を羽織り、廊下に出た。足音を辿るように魔力を伸ばす。
——前世の「気配を読む」という感覚が、この世界では魔力探知に変わっていた。
小さな魔力の流れが、中庭の方角から来ている。それと——もうひとつ、別の、不安定な揺れが。
中庭に出ると、アンナが木の前にしゃがみ込んでいた。木の根元に、何かが倒れている。
「アンナ」
アンナが振り返った。泣きそうな顔をしている。
「リナ……起こしてよかったのか迷って」
木の根元には子猫がいた。
どこかから落ちたのか、足を怪我している。小さな体が震えていた。
「拾ってきてしまったんだ。放っておけなくて。でも学院は動物禁止だし、夜中だし、どうしたらいいか」
サチコは子猫の傍にしゃがんだ。
怪我の具合を確認する。足の骨は折れていないが、傷口が塞がっていない。
「ちょっといい?」
サチコは子猫にそっと手を当てた。
魔力を流す。生活魔法で「乾かす」「温める」をするとき、対象の状態を把握する——その感覚を、傷口に向ける。血が止まれ。炎症が和らげ。体温が一定に保たれろ。
派手なことはできない。
治癒魔法の専門家ではないし、傷を瞬時に消すことは無理だ。
でも——「ちょうどいい状態に整える」という方向性は、生活魔法とそう遠くない。
子猫の震えが、少しずつ収まった。
「……リナ、それ治癒魔法?」とアンナが囁いた。
「生活魔法の応用。たぶん」
「たぶん?」
「前例がないので」
アンナはぽかん、としてから、ぷっと笑った。
「リナってほんとうにすごいね。でも全然えらそうじゃないし、なんか……お母さんみたい」
「お母さん」
「ん、悪い意味じゃなくて。安心する感じ」
サチコは何も言わず、子猫の背中をそっと撫でた。
(お母さん、か。)
前世ではなれなかったもの。縁がなかったもの。
でも今世では——どうだろう。体は十二歳で、中身は四十三歳で、行く先はまだ長い。
子猫が小さく鳴いた。
「とりあえず今夜は部屋で温めて、明日の朝、町の獣医のところに連れて行こう。学院の外出許可は私が先生に頼む」
「リナが? なんで言ってくれるの」
「アンナが拾ったんだから、アンナが責任を持つべきだけど——交渉は得意な方がやった方が効率がいい」
「交渉って……」アンナが笑う。
「ほんとにお母さんだ」
ふたりで部屋に戻る廊下で、角を曲がったところにエルクが立っていた。
「……何をやっていた」深夜に廊下をうろつく姿を、やや呆れた目で見ている。
「猫の手当て」とサチコは言った。
「深夜に」
「緊急だったので」
エルクはしばらくサチコの顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「お前は本当に……」何かを言いかけて、止めた。
「手、冷えているだろう。魔力を使った後は体が冷える。温かいものを飲め」
そう言って、自分の部屋から温かいハーブ湯の入った小瓶を持ってきた。
「いつも用意してるんですか」
「夜中に研究していると冷えるから、常備している。」
「ありがとうございます」
エルクはそっぽを向いた。耳が少し赤い。
夜の寒さのせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
サチコはハーブ湯を一口飲んで、ああ、これは前世のカモミールティーに似ている、と静かに思った。
「エルク」
「何だ」
「あなたは、優しいですね」
「うるさい。部屋に帰れ」
アンナが袖をひっぱってきた。廊下の角の陰で、にやにやしている。
サチコは苦笑しながら、歩き出した。
これが恋というものかどうか、四十三歳の魂にはまだよくわからない。
でも——悪くない夜だな、とは思った。




