30
学院に帰り着いた翌週、ハルト伯爵が学院を訪ねてきた。
突然だった。
エルクから話を聞いたのは、伯爵が来た日の夜だった。
研究室でエルクが珍しく、机の前に座ったまま動いていなかった。
「父が来た」とエルクは言った。
「会いましたか」
「会った。学院長の立ち合いのもとで」
「……どうでしたか」
エルクはしばらく黙った。
「謝られた」
サチコは何も言わなかった。
「厄介払いをしたことを、と。王室の件を見て——息子の仕事を初めてちゃんと見た、と。遅すぎる、とは思ったが」
「思うのは当然です」
「怒鳴ろうかと思った。でも——できなかった」
「なぜ?」
エルクはしばらく考えた。
「老いていた。父が。記憶の中の父より、ずっと老いていた。それを見たら——怒鳴る気が、失せた」
サチコは窓の外を見た。夜の学院が静かだ。
「認知の話は」
「進めると言った。正式に手続きをするとのことだった」
「エルクは、どう答えましたか」
「……好きにしろ、と言った」エルクは口元を少し歪めた。
「我ながら、子どもみたいな答えだと思ったが、それ以外が出てこなかった」
「それでよかったと思います」
「なぜ」
「好きにしろ、は拒絶ではないから。扉を開けたまま、にしている言葉だから」
エルクは少し間を置いた。
「……リナ」
「はい」
「お前は、僕のことを」エルクは言葉を選んでいる。
「よく見ている」
「一年半以上、隣にいましたから」
窓の外で、夜の虫が鳴いている。夏の終わりの、柔らかい夜だった。
八月、治療のため王都に向かうと、殿下の部屋の前でイレーナが待っていた。
珍しく、顔が明るかった。
「リナ、良い知らせがあります」
「何でしょう」
「三日前、殿下が小さな火を灯せました。魔法を使えたのは、六年ぶりのことです」
サチコは足を止めた。
六年ぶり。
「大きくはない。ランプ一本分の炎程度だ。でも——確かに、使えた」
部屋に入ると、殿下がいつもより顔色がよかった。目に、何か違うものを感じる。
前回までは、期待を排した目をしていた。何かを信じることに、慎重な目。
今日は——少し、違う。
「来てくれた」と殿下は言った。
「はい。聞きました。おめでとうございます」
「おめでとう、か」殿下は少し笑った。
「そんな言葉をかけてもらえるとは思わなかった。皆、大げさに喜ぶか、淡々と報告するかのどちらかだった」
「おめでとう、は普通の言葉だと思いますが」
「普通に言ってくれる人が、周りに少ないんだ」
サチコは椅子に座った。
「今日も同じように進めます。少しずつ、流れを広げていく作業です」
「わかった」殿下は手を差し出した。いつもより、迷いなく。
目を閉じる。
体内の流れを感じる。先月より、確かに変わっていた。
迂回路が育っている。川が水量を増すように、流れが太くなっている。
(あと、何回だろう。)
一度に全部はできない。でも確実に、前進している。
十分後、手を離した。
「今日は少し違う場所にも、流れができ始めました。右腕の方が、左より動きがよくなると思います」
「右腕」殿下は右手を開いて、閉じた。
「確かに、何か違う感じがする」
「半年後には、もっと安定すると思います」
「半年後」殿下は少し遠い目をした。
「今まで、半年後のことを考えたことが少なかった。悪くなる一方だったから」
「これからは考えてください」
「そうだな」殿下は顔を上げた。
「リナ、ひとつ頼みがある」
「はい」
「治療が終わったら——友人として、話しかけていいか。王太子としてではなく」
サチコは少し驚いた。
「もちろんです。」
殿下が笑った。今まで見た中で、一番素直な笑い方だった。




