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事の発端は、エルクの論文だった。
地下の陣を修復した翌月、エルクは「調律魔法の理論的体系化——生活魔法の再定義と新魔法系統の提唱」という論文を書き上げ、王立魔法学会に投稿した。
サチコはその事実を、投稿後に知った。
「……なぜ事前に言わないのですか」
「言ったら止めると思ったから」
「止めます」
「だから言わなかった」
研究室でそのやりとりをしながら、サチコは論文の写しを読んだ。
エルクの文章は緻密で、無駄がなく、しかし読みやすい。
サチコとの議論の全てが、丁寧に理論として組み上げられていた。
調律魔法の定義。作用の原理。既存の魔法体系との関係。応用範囲の考察。
そして——実例として、サチコがやってきたことが全て記録されていた。
「エルク、これ私の名前が」
「共同研究者として記載した。問題あるか」
「問題というか——」
「お前がいなければこの理論は存在しない。名前が載るのは当然だ」
サチコは論文を置いた。
(前世では、こんな風に名前を残せたことはなかった。)
事務仕事の中に、田中サチコの名前が残った記録はひとつもない。
それを悔やんでいたわけではないが——
「……ありがとう、エルク」
「礼を言われることはしていない。事実を記録しただけだ」
「それでも」
エルクはそっぽを向いた。いつもの癖だ。サチコはもう慣れた。
論文が王立魔法学会に届いたのが十月。
それが爆発したのは、十一月のことだった。
最初の反応は、懐疑だった。
「生活魔法の延長で体内魔力を調整できるというのは、理論的に不可能だ」
「十六歳の学生が書いた論文に、学会が動く必要はない」
「実例が本当なら、再現実験を求める」
そういった声が、学会内で上がったとエルクは報告した。
「想定内だ」とエルクは言った。
「だから次の手を打った」
「次の手?」
「学院長に証言を依頼した。ファルド学院長が陣の修復を直接見ている。学院長の証言なら学会も無視できない」
サチコは学院長の顔を思い浮かべた。
あの鋭い目の老人が、自分のために証言してくれる——想像すると、少し背筋が伸びた。
「学院長は承諾してくれたんですか」
「『喜んで』と言っていた」
「学院長が『喜んで』と言ったんですか」
「珍しく、笑っていた」
サチコは少し複雑な気持ちになった。自分が知らないところで、いろいろと動いている。
前世ならこういう状況に、もう少し不安を感じたはずだ。
でも今は——エルクが動いていると思うと、妙に落ち着いていた。
この子が考えたことは、大体、正しい。四十三年の経験がそう判定していた。




