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十月の初め。
準備に六週間かかった。
エルクは学院創設時の設計図を書庫から発掘し、百年分の修繕記録を全て読み込み、地下の陣の理論的な構造図を書き上げた。
それをサチコと何度も検討して、弱点と修復の順序を洗い出した。
アンナは「私にできることはない?」と聞いた。
サチコが「当日、入口で待っていてください」と言うと、アンナは「絶対に待ってる」と言った。
カーロ先生は腕を組んで渋い顔をした後、「何かあったらすぐ呼べ」と言った。
学院長は「準備が整ったら知らせろ」とだけ言った。
地下への扉は、学院の中央棟の奥にあった。
重い石の扉を学院長が開けると、冷たい空気と、かすかな魔力の揺らぎが漂ってきた。
階段を下りると、広い地下室があった。
中央に、巨大な魔法陣が刻まれていた。
直径十メートルほどの円形の陣。幾重もの円と線が複雑に絡み合い、要所に宝石が埋め込まれている。
かつては均等に光っていたのだろうが、今は所々が暗く、光の流れが乱れているのが見えた。
「……きれいですね」とサチコはつぶやいた。
「綺麗?」とエルクが隣で言った。
「壊れかけているのに?」
「壊れかけていても。百年間、この学院を支えてきた陣だから」
サチコは陣の縁に近づいた。魔力をそっと伸ばす。
(感じる。)
百年分の、流れの歴史。水が長年の間に川底を削って独自の形を作るように、この陣にも時間の重みが染み込んでいた。設計者の意図と、百年間の使用による変化と、劣化による歪みが、複雑に絡み合っている。
どこから手をつけるか。
「エルク」
「ここだ」エルクがすかさず設計図を広げた。
「北側の第三接続点から始めるのが理論上は最も安全だ。ここが起点になって他の部分に影響が出やすい」
「感覚でも、そこが弱っているのが一番わかる。一致してる」
「なら間違いない」
学院長が少し離れた場所に立って、静かに見守っている。
カーロ先生が入口近くで腕を組んでいる。
サチコは深呼吸した。
前世のことを思う。
十八年間、誰に褒められるわけでもなく、地道に事務仕事をやってきた。
書類の流れを整えて、連絡を繋いで、誰かが困っていれば手を貸した。
派手じゃない。目立たない。でも、確かに必要な仕事だった。
魔法も、同じだ。
世界の流れを、整える。それだけでいい。
サチコは陣に手を触れた。
最初の一時間は、慎重だった。
北側の接続点の詰まりを、少しずつほぐしていく。
焦らない。急がない。対象が大きいほど、丁寧さが求められる。
エルクが隣で設計図を持ち、
「今の処理で東側の第二ラインに影響が出るはず」
「次は中央の分岐点に触れる必要がある」と逐一声をかけてくる。
サチコはその声を頼りにしながら、感覚で陣の流れを追った。
理論と感覚が、かみ合っていく。
これがあったから、できる。エルクがいるから、できる。
二時間後、陣の北側が安定し始めた。暗くなっていた部分がじわりと光を取り戻す。
「北側、完了」とサチコは言った。
「次は東側だ」とエルクが即座に答えた。
「ここは——」
「わかった。感じてる」
三時間、四時間。
地下室の時間は静かに過ぎた。サチコは集中していたが、不思議と焦りはなかった。
前世でもそうだった。やるべきことがはっきりしているとき、余計な感情が消えて、ただやるべきことだけが残る。
五時間が経ったとき、問題が起きた。
陣の中央、一番古い部分に触れた瞬間、魔力が予想外の方向に跳ねた。
地下室全体が、ぶるっと震えた。
「リナ!」エルクが声を上げた。
「大丈夫」サチコは手を離さなかった。
「想定内ではないけど——対処できる」
「無理なら手を引け」
「もう少し」
陣の中央は、百年分の歪みが一番集中している場所だった。
ここを整えないと、他の修復が全部意味を失う。
(どう流すか。)
力で押すのではない。自然な方向を見つけて、そこへ導く。川をせき止めるのではなく、流れを変える。
サチコは目を閉じた。
陣全体の流れが、頭の中に地図として浮かんだ。百年前の設計者が意図した形と、百年間で変化した形と、今あるべき形が、重なって見えた。
(ああ、わかった。)
最初から力で修復しようとするから難しいのだ。
陣は百年間で、元の設計から少しずつ「進化」していた。
それを元に戻すのではなく——今の陣が自然に行き着こうとしている形に、後押しする。
発想を変えた瞬間、魔力の流れが素直になった。
中央の核が、静かに光り始めた。




