迫る気配
彼女は、幸せな夢を見ていた。
両親が揃い、愛されていた。その、幸せな昔の夢を。
疑うことも知らず、ただその愛を享受するだけの日々。
だからこそ、苦しかった。
自分には、わかっていたからだ。
その末路が、どんなものであるかを。
もう見たくない。
もうやめて。
何度も夢に懇願する。
手に届かない宝石を見るのも、その宝石が崩れるのも見たくない。
それでも彼女は、いつもこの夢に戻ってくる。
一番幸せな頃だったから。
彼女、篠宮有栖が自分の為に生きていたのは、その宝石が崩れるまでの間であった。
篠宮有栖は、とある妖異騒動の犠牲者である。
そして同時に、騒動唯一の生存者でもあった。
静かに、彼女は現実に引き戻される。
幸福感の喪失という絶望と共に目覚めた彼女に、安堵が宿った。
夢だけは、幸せなままで終わってくれた。
現実と、違って。
例え夢でも、もう二度とあの光景は見たくなかった。
布団から起き上がってすぐにたたみ、朝の支度を始める。
鏡に映った顔には、能面のような無表情が張り付いていた。
「これではいけませんね」
彼女は自分の頬をひっぱり、笑わせる。
笑え。
みんなを楽しませるために笑え。
心配させないために笑え。
笑わないと周りに嫌な思いをさせる。
笑え。
笑って奉仕しろ、道化。
そして彼女は、偽りの笑みを張り付けた。
支度を終え、笑みを浮かべながら彼女は玄関へ。
生活感がまるでない部屋を一瞥した後、元気よく部屋を飛び出した。
「おはようございます! あ、大家さん。おはようございます良い天気ですね! はい、ありがとうございます! 頑張ります!」
にこにこと、すれ違ったアパートの人たち皆に挨拶をする。
そんな彼女の評判は、ちょっと変わった服装だけどとても良い子、というものだった。
誰からも、変わらず。
「で、あるからして。現代の機煌禮刀の基礎構造は三部位が一般的となっており……」
俺の耳に授業内容が入も、反対の耳から抜けていく。
内容に興味がないわけではない。
ただ、限りなく強い睡魔が俺の周りを飛び回っていた。
何故こんなに眠いのか。
陽気な天気か、午前の疲れか、それとも単に寝不足なのか。
うつらうつらと頭は揺れ、瞼は今にも落ちようとしている。
駄目だ、眠い……。
外的刺激を与えようとするも、手に力が入らない。
これはまずい。
そう気づいてはいるのだが、俺にはどうしようもなかった。
クラス評価で真面目さくらいしか取り柄のない俺が、ここで真面目さを失ったら本当にまずい。
一応多少の時間的猶予は得られたが、退学の危機だってまだ完全に去ったわけではない。
だから起きろ。
早く。
そう考える自分さえもが、既に夢の中。
そんな、嫌な実感があった。
つまり、俺は既に眠っていた。
なんとなく授業が聞こえる。
これが噂の睡眠学習か。
そんな阿呆なことを考え、夢の中で苦笑する。
頼むから、誰か起こしてくれ。
これが本当の世界なのか夢の中なのか判断できないまま、左右を見る。
ぴよこは真面目に授業を受けており、俺のことなんて気づいてもいない。
南雲に至っては真面目に授業を受ける振りをしながら、分厚い外国文学を読んでいやがる。
気づいても起こしてさえくれないだろう。
さあ、どうしようか。
夢と現実がうつろになっている俺に、何ができるか――。
そう思っている時だった。
すぐ後ろに、何かの気配を感じた。
後ろの席にいる生徒なんかではない。
明らかに、異質な気配だった。
しかもそれは、首元に息を感じるほどのすぐ傍に――。
「う、うわぁあああ!」
恐怖を遠ざけようと、俺は悲鳴を発す。
悲しい事実が、ここに確定した。
少なくとも、叫びをあげたのだけは、現実だった。
いつの間にか席を立った俺を、周りの生徒と教師全員が、ぽかんとしながら見ていた。
(やっちまった――)
瞳を閉じ、静かに後悔する。
これならまだ、寝ていた方がはるかにましだった。
「すいません。寝てました」
もはやこれまでと腹を切るような覚悟で、正直に告げ頭を下げた。
「そ、そうか。気を付けなさい。それより、どうして立ち上がって叫んだり?」
「いえ、背後に誰かの気配を感じて……」
そう俺が言った瞬間、空気が静まり返る。
冷たいだけでなく、緊張感の混ざる、嫌な空気だった。
「それは…さん天どのような気配かね?」
尋ねる教師の目は、どこか鋭い。
周りの生徒も、さっきまであった俺に対して呆れや笑いのようなもはなく、心配するような目になっていた。
「いえ、その……説明は難しいのですが……」
「他に感じた方はいらっしゃいますか? ……いないようですね。わかりました。水無川さん。もう一度感じましたら、すぐに報告してください。良いですね?」
「は、はい……」
俺は静かに席に戻る。
さっきまであった、俺を叱るような、そして揶揄うような温い空気が、一瞬で霧散した。
逆にそれが、俺の居心地が悪くする。
その後は、特に何事もなく普通に授業は進行した。
けれど、授業中どこか張り詰めた緊張感が流れ続けていたと感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
授業が終わり、休憩時間。
さっきのあの空気は何だったのか、それを誰かに聞こうとするより早く、俺の方に誰かが駆け寄ってくる。
それはめぐるだった。
「やらかしたねー伊織っち。ま、どんまいどんまい」
ケラケラ笑いながら、ぽんぽんと肩を叩く。
たぶん、元気づけようとしてくれているのだろう。
たぶん。
「やらかしちまったよ。真面目に受けるくらいしか取り柄がないのにさ」
「そんなネガらなくてもいいっしょ。最近いい感じよ?」
「そりゃありがとな。まあそれはそれとして、さっきの雰囲気なんなんだあれ? 普通もっと叱られるだろ?」
「んー? あ、そっかそっか。伊織っちは中学、普通の学校だったんだっけ?」
「ああ、何か特別なことがあるなら教えてくれないか?」
「任せたまえ。このめぐるちゃんが教えてしんぜよう。たぶん私が一番関係あるし」
「めぐるが? ということは剣術関連じゃなくて……」
「そ、神様。もしかしたらだけどね、伊織っちの後ろにいたのは神様かもしれないって話」
そう言葉にするめぐるの顔は、どこか楽しそうだった。
神は人の世にはおらず、遥か遠くより我らを見守ってくださっている。
数少ないが、こちらにいらっしゃる神々もいる。
例えば、この扶桑にも一柱。
名を知ることさえも許されないが、ある神様が代々皇之命を友と呼び、支えて下さっているらしい。
とはいえ、扶桑全土で一柱だけ。
世界で見ても、長期で滞在なさっている神は二けたもないのではないだろうか。
だから、こちらの世界に神が来るということは、それだけで大事件である。
ただ、八百万という言葉にある通り、神もひとくくりにできぬほど多く、そして様々な趣味嗜好を持っている。
中にはこっそり人の世界に紛れたり、人の世界を感じるために感覚だけこちらに飛ばす神様も確認されている。
「んで、伊織っちが感じた気配もそういうのじゃないかと思われた感じ? 実際どうだったの? 神様っぽかった?」
「いや。それはわからない。むしろ……」
そう、あれはいつもの夢に現れる奴に近い気配だった。
いつもよりも近くに感じたが。
「むしろ?」
「いや、なんでもない。正直言えば、単なる気のせいの可能性が高い。だからそんな俺の誤解のせいで変な空気にさせて悪かったなーって気持ちだな」
「んなこたーないさね。あんま気にしなくて良いよ」
「ありがとな、めぐる。んでさ、実際に神様がいらっしゃったらどうしたらいいんだ?」
めぐるはパンっと、両手を合わせる。
一拍手、一礼。
外見は派手派手しいめぐるだが、その姿勢と作法は確かに神社の娘のそれであった。
「これだけ。というか、これもしなくても良いよ。向こうが見たいものが何かわからない以上、自然体が一番だよ」
そう言って、めぐるは笑った。
「そういうもんか」
「わかりやすく言えば、観察バラエティ。ヤラセで萎える神様もいる」
「すげー納得した。けど、神社の娘がたとえそれで良いのか?」
めぐるは「きゃぴっ」と口で言ってピースとウィンクで決めポーズを取り露骨に誤魔化した。
ありがとうございました。




