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(22)

「そろそろ起きるか」

 ささやきとともに額に唇が触れる気配を覚え、オストレアはまぶたを揺らした。

「ん……おはよう、タキュス」

 まだ意識がはっきりしない中、タキュスの首に腕をからめて抱き着く。おはよう、と返したタキュスに耳朶をはまれ、くすぐったさにオストレアは身をすくめた。

 目を覚ましたときにいないと寂しいので、先に部屋を出るなら起こしてほしいと頼んでから、タキュスは着替えも持参するようになった。食堂へも一緒に向かう二人に、毎朝部屋の外で待ち合わせていたモラも自分の役目はすんだと笑い、今はラクスと行動をともにしている。

 一年生の入場の際、堂々と皆の前で接吻をしたので後でエグルたちにひやかされたが、半馬(エクウス)族が交際を始めると別れることはまずないので、二人の仲はもはやシュタルクとソンリッサ並みにかたいという認識が広まったようだ。おかげで歌うときには観客が集まっても、それ以外で変にからまれる事態は激減した。一時は熱のある態度を見せていたアファブレも最近は程よい距離感で接してくれるようになり、友達として付き合いやすくなっている。

 一方、舞踏会から数日たって、ジェローシアとフリュールが姿を消したことがわかった。二人とも舞踏会には参加していなかったらしく、またジェローシアがあれ以来すっかり表に出てこなくなったため、二人で舞踏会の夜にこっそりメソス・スコラを離れたのではないかと噂された。サエウムが死に、誰からもかえりみられなくなった自分を献身的に支えてくれたフリュールを、ジェローシアは伴侶に選んだのだろうと。

 今日はカエルラ・マールムとルボル・マールムの合同出動日だ。さらに翌日はニグレードー・マールムが外部に赴くことになっており、カエルラ・マールムが共闘班として付き添う。

 オストレアとカシェが戦闘に慣れるにつれ、戦闘科長はカエルラ・マールムをどんどん使いだした。エグルに聞いたとおりの連戦にげんなりしつつ班員が期待通りの働きを見せるので、おほめの言葉もたくさんいただくが、ソンリッサは報告書の提出に追われているという。ルボル・マールムも同様の状態なので、ソンリッサとシュタルクはこのところ毎夜肩を並べて報告書を作成しているらしい。それを聞き、班長にだけはなりたくないなとタキュスは言っていた。オストレアと一緒に休む時間が減ってしまうからと。

 ソンリッサとタキュスは一歳差なので、タキュスが班長を継いでも期間は短くなる可能性がある。そこでソンリッサはタキュスの推薦もあり、カシェを後継者として育てることにした。カシェは自分より年上のタオヘンもいるのにと最初遠慮したが、タオヘンは班長の座を拒み、またオストレアもタキュスが引退するときに卒業するのは確実なので、結局カシェが引き受けることになった。

 責任が重いと嘆息しながらも、すでに覚悟をもった目でカシェは着々と経験を積んでいる。その様子に、きっといい班長になると誰もが思った。



 タオヘンが鉤爪でバルバルス・オースを頭から腹にかけて一気に切り裂き、マスィーフが両斧で別の個体を撃破する。素手でも倒せる力をもつ半熊(ウルスス)族の一振りは、分厚いバルバルス・オースの胴を楽々と輪切りにしているように見え、半河狸(カストル)族のけがの治療をしていたオストレアは驚嘆した。

「すごい、格好いいっ」

 自分よりはるかに大きなバルバルス・オースを次々に打ち倒していく仲間の雄姿に、子供たちが瞳を輝かせて拍手する。

「メソス・スコラに入学すれば、僕もあんなふうになれる?」

 特に男の子が興奮気味にこぶしをにぎって尋ねるのに対し、戦闘に不向きな種族もいるし、所属する科は自分では決められないけれど、戦闘科に入れば強くなるよとオストレアは答えた。

 そして集落を襲ったバルバルス・オースも片付いたと思われたとき、よちよち歩きで川へ入ろうとしている小さな男の子に気づき、オストレアは連れ戻しに行った。

「まだ危ないから、じっとしていようね」

 後ろから捕まえると、遊んでくれると勘違いしたのか、男の子は笑ってはしゃぎながらじたばたした。その手が偶然オストレアの右耳に当たり、耳飾りが外れる。解き放たれたリンゴの香りに誰もが目をみはり、少し離れたところにいたタキュスにまで届いたらしくふり返った。

 慌ててしゃがんで耳飾りを拾おうとした刹那、いきなりバルバルス・オースが水面に顔を出した。

「オストレア!!」

 駆けるタキュスの眼前で、オストレアはバルバルス・オースにくわえられて川へ引きずり込まれた。悲鳴を上げる半人たちを自警団が誘導して川から離す。

「ラクス!」

 タキュスはラクスの肩をつかんで強引に口づけた。唖然とするラクスを置いて川へ飛び込む。

「え、何? 浮気!?」

 騒ぐレッジェロに「違う!」とラクスが顔を赤くして否定した。

半魚(ピスキス)族と接吻すれば水中で呼吸ができるんだ」

 でもせめて許可は取ってほしかったとうめくラクスに、「ああ、何だ。じゃあ俺も」とレッジェロが迫る。

「は? ちょっ……」

 これまたぶちゅっと勝手に唇を奪い、レッジェロがタキュスを追う。魂が抜けたようにへたり込むラクスの横をモラが通り過ぎた。

「モラ、待ってくれ! 口直しっ」

「嫌よ! ちゃんと拭いてからにしてっ」

 ぴしゃりと断り、オストレアの耳飾りを拾ったモラも半魚になりながら川へ入る。拒まれて打ちひしがれながらもよろよろと立ち上がったラクスは、近づいてきたタオヘンにぎょっとし、これ以上はさせないとばかりに急いでモラに続いた。

「くそ。逃げられた。俺も水中呼吸を経験したかったのに」

 舌打ちするタオヘンに、「馬鹿言ってないで、警戒――タオヘン!」と同じ半鼢(タルパ)族のフォセが叫んだ。

 頭上を仰ぐより先に地面を転がったタオヘンは、自分がいた場所目がけて急降下してきた鳥の爪が空振りするのを見た。 

 半鳥(アウィス)族、とはもはや呼べなかった。顔が明らかに蛇になっていたのだ。半鳥族の姿をした半蛇(オピース)族は、一度上昇したところでソンリッサの矢に射抜かれた。

 ほっと息つく暇もなく、再び周囲にバルバルス・オースが出現しはじめる。

「オストレアの匂いにつられたみたいね」

 歯がみするソンリッサの隣でシュタルクが声を張り上げた。

「皆、けがに注意しろ!」

 今は回復役の半魚族が三人ともいない。重傷を負えば命にかかわる。

「戻ってくるまで踏ん張らないとね」

 エグルがきりっと表情を引きしめる。それから残った班員で連携をとりながら、新たに襲撃してきたバルバルス・オースに立ち向かった。



 見た目より深い川を、バルバルス・オースはぐんぐん下っていった。明らかに水中での生活に慣れている動きだった。

 川はどんどん幅を広げ、まもなく海も近いところまで来たとき、バルバルス・オースは水底の岩場でオストレアを口から出し、とぐろの中に閉じ込めた。

「ようやく見つけた。ずいぶん長いこと捜したぞ」

 あまり若くない耳障りな声は聞き覚えがある。よみがえる恐ろしい記憶にオストレアは震えた。

 このバルバルス・オースは、まさか――。

「逃がした獲物の中でお前が一番うまそうだったが、総母とは嬉しいことだ」

 儂の勘は正しかったと、バルバルス・オースがにんまりする。

 ああやはり、この巨大な蛇は幼い頃に遭遇した個体だったのだ。

「……お母さんは……どうなったの?」

「うん? もしやあの総母はお前の母親だったのか。言われてみれば確かに顔立ちが似ているな」

 親子で総母とはすばらしいと、バルバルス・オースが称える。 

「あれはもったいないことをした。せっかく妻にしようとしたのに、自ら命を絶ってしまった」

 悔しげに尾で岩をたたくバルバルス・オースに死体は食ったと聞かされ、オストレアは胸が張り裂けそうになった。

 さらわれた後、母は自害していた。バルバルス・オースの望みを打ち砕いたのだ。

 ようやく知れた結末に涙がにじんできたとき、バルバルス・オースに大きな頭部で頬をこすられた。

「実にいい香りだ。ここで総母に巡りあえるとは、儂は運がいい」

 太腿にゴリッとかたいものが触れる。それが何かわかり、オストレアはぞっとした。

「嫌っ、放して!」

「心配するな。儂の子を産むお前を傷つけはしない。大事に大事にかわいがってやるぞ」

 何とか束縛から逃れようと抵抗するオストレアを、バルバルス・オースが締め付ける。ズボンを破る勢いで突起がぐいぐい押してきて股を開きにかかり、さらに長い舌で顔をなめられ吐き気を催したとき、オストレアは遠目に恋しい存在を見つけ、絶望から浮上した。

 モラとラクス、レッジェロとともに猛然と泳いでくるのはタキュスだ。

 仲間が来てくれた。

 タキュスが来てくれた!

「しつこい奴らだ」

 バルバルス・オースが苦々しげに低くうなる。さらにオストレアに誘われたか、川下から新たにバルバルス・オースの一群が我先にと向かってきた。

 巨体なのに泳ぎが速いこの大蛇を足どめしなければ、タキュスたちがいずれ疲れて追いつけなくなってしまう。あるいは、今度は別の個体にさらわれるかもしれない。

 オストレアは深く息を吸って歌いだした。鋭利な響きある旋律にモラとラクスが気づき、身を守る歌をつむぎはじめる。タキュスは自分に近づこうとしていたが、ラクスが歌いながら引きとめていた。

 オストレアを連れて逃げるべく口を開けた大蛇が陶然としたさまで「美しい声だ」とつぶやいた瞬間、オストレアの体から電光が放たれた。

 バリバリッと尖った爆音を伴って水中に広がりのびた雷が、バルバルス・オースにからみつく。光る有刺に体を絞られ、バルバルス・オースたちは醜い声で絶叫した。

 水の中で『雷鳴(かんな)りの歌』を使うと、歌い手自身も少なからず衝撃を受ける。一時的に意識を失っていたオストレアは、自分を抱き寄せる腕に目を覚ました。

「……タキュス?」

「まったく、無茶をする」

 命が縮んだぞと言って、タキュスは強くオストレアを抱擁し、安堵のため息をついた。 

「すげえな。相変わらずの殺傷力だ」

 そばに泳いできたレッジェロが周囲を見回して口笛を吹く。二人はモラとラクスの歌に守られて無事だったが、バルバルス・オースはいずれも黒い煙をたなびかせながらぐったりとしてたゆたっていた。

 と、オストレアは首をかしげた。普通に呼吸をして話もできるということは、二人は半魚族と接吻した?

 じっと凝視するオストレアに、タキュスが気まずそうに目をそらした。

「緊急事態だったからな」

「まさか、モラ姉さんと?」

「いや……ラクスだ」

 ごにょごにょと言葉をにごすタキュスの横で、「俺も俺も」とレッジェロがなぜか得意げに自分を指さす。その後ろでは、ラクスが額に手を当ててうつむいていた。どうやら無理やりされて落ち込んでいるらしい。

 何とも複雑な気分で苦笑いし、オストレアは念のためバルバルス・オースにとどめを刺すよう、二人に頼んだ。生命力が強いものならまだ生きている可能性がある。

 タキュスとレッジェロがそれぞれ長剣と双剣を振るっていく間、オストレアは自分に近い場所で息絶えたバルバルス・オースを見つめた。

 思いがけず、母と友達の仇を討つことができた。それでもわき上がるむなしさを消すことはできない。

 あのとき、自分に今の力があれば皆を助けられたのに。

「大丈夫か?」

 作業を終えたのか顔をのぞき込んできたタキュスに、オストレアはうなずいた。

「このバルバルス・オースは、昔私を襲ったの。お母さんと友達を呑み込んで……私をずっと捜してたって言ってた」

 はっとタキュスが体を揺らす。

「お母さん、捕まってすぐ自死したって……バルバルス・オースの子を産んでなかった」

 よかったとこぼしたオストレアを、タキュスは抱きしめた。

「違うだろう」

 お前は母親の死を悲しんでいいんだと言われ、オストレアは目を見開いた。

「もう我慢しなくていい。お前も母親も、何も悪くないんだから」

 長い間封じていた感情を優しくなでるなぐさめに頬が震え、こらえきれずにオストレアはしゃくり上げた。

 皆のために母の死を願わなければならない日々が、本当はとてもつらかった。それでも、生きていてほしいと希望をもつことなど決して許されないと、戒めてきたのだ。

 やっと、やっと――。

 タキュスの腕の中で、オストレアは初めて母の死を存分に悼み、涙を流した。



 モラが持ってきた耳飾りをつけて匂いを封じたオストレアは半魚の姿になり、タキュスの手を取って川を上った。レッジェロはラクスが引いていき、もうすぐというところで五人は喧噪に気づいて急いだ。

 水から顔を出し、オストレアは息をのんだ。皆まだバルバルス・オースと戦っていたのだ。

「帰ってきた!」

 最初にオストレアたちを見たフォセが歓喜の声を上げる。どうやら半魚族三人を待ちわびていたらしい。

 これはいったいどういうことなのかととまどい、一つの可能性にオストレアは青ざめた。自分の耳飾りが外れて匂いが拡散したせいで、バルバルス・オースをさらに招き寄せてしまったのではないか。

「オストレア、『風巻(しま)きの歌』をお願い! 私はラクスと『癒しの歌』の範囲唱法を使うわっ」

 重傷者はいないものの、両班とも血を流している者が多い。積み上げられたバルバルス・オースの死体の数からして、休む間もなかったのは明白だ。

 オストレアが了承すると、モラがソンリッサに伝えた。ほっとした表情でソンリッサとシュタルクが指示を出す。そのとき、木の近くで停止飛行していたエグルが隣のウラーカの腰にガッと手を回した。

「ちょっと! こんなときにふざけ……」

 羽が当たってあやうく墜落しそうになったウラーカは、怒鳴ろうとして瞠目した。背後の木の枝から小柄なバルバルス・オースが飛びかかり、エグルの腕にかみついていたのだ。

「エグル!?」

 ウラーカを放したエグルが、バルバルス・オースの重みに引きずられて落下していく。その真下で地面が隆起し、別のバルバルス・オースが嬉々としたさまで大口を開けた。

 後を追うウラーカの目の前で、エグルは自分の腕にぶらさがるバルバルス・オースを殴り払った。落ちてきた獲物を一息に呑んでまた土中に潜ろうとしたバルバルス・オースを半避役(カマエレオーン)族のイレイズが鞭で捕らえ、半熊族のソリドが斧で粉砕する。

「エグル、腕は!?」

「心配ない。肉までごっそりもっていかれたわけじゃないから」

 それでも噛み跡はかなり裂けていて、おびただしい量の血が流れている。 

「ああ、ほら、ちょうど『癒しの歌』だ。俺の運って最強だと思わない?」

 オストレアが『風巻きの歌』で残りのバルバルス・オースをまとめて空中に吹き飛ばし切り刻む間に、モラとラクスの共同作業で皆の傷がふさがっていく。もちろんエグルもだが、ウラーカは安心するどころか怒った顔で涙ぐんだ。

「馬鹿言わないでよ。こんな大けがをして何で笑ってるの!?」

「好きな子の前では常に泰然としておきたいのが男心だよ」

 そろそろわかってくれないかなとエグルが苦笑する。

「あんたは誰の前でも余裕ぶってるじゃない」

「じゃあ、訂正。とっさに体でかばうほど必死になるのは、好きな子に対してだけだ」

「どうせいろんな女の子に調子よく同じことを口にしてるんでしょ」

 手口はわかってるわと、ウラーカはぷいとよそを向いた。

「どうしたら信じてもらえるかなあ」

「一生無理だと思うわ。女の子らしいかわいい子がいくらでも寄ってくるんだから、私にまでむだにちょっかいかけないで」

「その、いくらでも寄ってくる女の子らしいかわいい子が俺の好みとはかぎらないんだけど」とエグルは眉尻を下げた。歌の効果で徐々に傷口がふさがってきている。

「俺がいまだに誰とも付き合ってない理由を、ウラーカは何だと考えているのかな」

「……実は同性が好きだとか?」

「なるほど、その方向も有りだね」

 エグルはくすりと笑い、ウラーカを見つめた。

半馬(エクウス)族だけが一途なわけじゃないよ。一年の舞踏会で同伴したときから、俺の気持ちはずっと変わっていない」

 何か言いかけて開いた口をウラーカが閉じる。

「この先も、強くて格好よくて、ちょっと疑り深くて意地っ張りなウラーカしか目に入らないから」

「……ほめられてる気がしないわ」

「丸ごと全部好きってことだよ」

 にこりとするエグルに、「あんたのそういうところが嘘くさいのよ」とウラーカはため息をついた。

 話しているうちにバルバルス・オースはすっかり片付き、班員も半河狸族もけがが癒えている。

 空から最後の確認をするのは二人の仕事だ。左右に分かれて飛ぶ前に、「もう無茶はしないでよ」とたしなめるウラーカの頬が薄く色づいているのを見逃さず、エグルは破顔して羽ばたいた。



 メソス・スコラに帰還した夜、人けのない憩いの噴水池に尾びれを浸し、オストレアは左耳から外した耳飾りをにぎりしめて『弔いの歌』を小声で歌った。

 右側を取るとリンゴの香りが漏れてしまうが、左側なら胸にリンゴの痣が浮かぶだけなので周囲に影響が出ない。

 背後でタキュス一人が見守る中、耳飾りをくれた母親を心ゆくまで偲び、オストレアはほっと息をついた。

「もういいのか?」

「うん。付き合ってくれてありがとう」

 胸奥に詰まっていた悲しみと寂しさを歌に乗せて送り出すと、大きな穴を感じた。それだけのものを自分はため込んでいたのだ。

 これからは幸せで埋めていきたい。耳飾りを左耳に戻し、人の姿になって立ち上がったオストレアに、タキュスが歩み寄った。

「もし半馬族の郷に入るのが嫌なら、このままメソス・スコラで生活しても俺はかまわないからな」

 教師になれば、退職するまでは敷地内に居を構えることができる。生活環境がまるで違う種族に嫁いで苦労した母を見て育った自分が当然かかえるだろう不安を気づかうタキュスに、オストレアは銀色の瞳を弓なりにした。

「まだ時間はあるし、そのときまでに結論を出すわ」

 父はとても優しい人だと母は言っていた。でも父は、同族から冷遇される母のために郷を出ることはしなかった。引きとめる両親を置いていけなかったのだ。

 父を信じてついてきた母は、守ってくれない父をなじりもせず、ただ静かに耐えていた。決して夫婦仲が悪かったわけではなく、何かを捨ててまで環境を変えようとしなかっただけだ。

「お前がどんな形を望もうと、俺はお前を選び続ける」

 額に優しく口づけられる。何よりも心強い言葉が口先だけでないとわかるから、オストレアは顔をほころばせた。

 タキュスがそばにいてくれるなら大丈夫だ。相手のために決断する勇気を二人でもてるなら、きっと。

 どちらからともなく唇を寄せる。肌をくすぐる涼風をも熱くする二人を、噴水池の水は静かに映し、祝福の波紋を柔らかく広げていった。

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