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クピド vs アビルーバ

 

 隆々とした上腕二頭筋が盛り上がり、逞しい腕がクピドのスリムな肩をつかんだ。


『何の用だ?』


 振り返りもせずクピドがたずねると、クスリと笑いが漏れ聞こえた。


『はあい、クピドちゃんたらアモルちゃんに負けたんだってね~?』


 笑いを含ませた低い声がクピドの背後から突き刺さった。


『……何の用だ?』


 冷たく硬い調子で同じ問い掛けを繰り返すと、声の主はクスクスと更に笑った。


『おおコワ。いやあねえ、べつにキミをいぢめようってんじゃないのよ。ま、でも、そんなハリネズミみたいになってるトコも可愛くてワタシは好きなんだけど』


 クピドはくるりと振り返って、肩にかかった手を払いのけた。


『用件を言え、アビルーバ。……ついでにその気色悪い喋りをなんとかしねえとぶっ潰すぜ?』

『バトルしない、クピドちゃん。……ワタシの奥の深ーい趣味にケチつけないでよ』


 にっこり笑顔で、精悍な面立ちに長身のごつい筋肉男、アビルーバがウインクした。

 バチンと音がしそうなほど鮮やかな瞬きに、クピドはげんなりした顔を向けた。


『他を当たれ』

『キミがいいのよ。ワタシ、キミのバトルわりと気に入ってんの。ハンデあげるからさあ、一戦だけ。ね?』

『ハンデ?』


 片眉を上げたクピドにアビルーバは楽しげな笑みを向けて、フフンと鼻を鳴らした。


『そう。キミとワタシじゃ2ランクの差があるじゃない。それに、キミがエロースか誰かに勝つまで大人しく待ってるの、ちょっとじれったいんだもん。ウフフ。ゴメンネ我慢できなくて』


 含み笑いで挑発したアビルーバの瞳の奥へ、カチリとクピドの焦点が合った。


『……言ってくれるじゃないか。オレがすぐには上のランクに登れないとでも?』


 静かに呟きつつ、尖った刃のようなギラついた眼でクピドが睨んだ。

 誘いに乗ったと見るや、アビルーバは嬉しそうにくねくねと身をよじった。見事な大胸筋がピクピク動く。


『いいわあ、ヤル気マンマンなクピドちゃんってステキ!』


 マッチョに相応しい低音の声ではしゃがれ、クピドの眉間に深い溝が出来た。


『……ぶっ潰されたいらしいな、カマ野郎』

『その意気その意気。ぶっ潰さないよう気をつけてア・ゲ・ル』


 二人はカードホルダーを手にした。

 その中には不可能を可能にする力が宿っている。



 ♢



 朝は晴れていたが、昼前になって雨が降りだした。

 天気予報は一日晴れだったはずなのに、予想外の強いにわか雨で、通りを歩いていた人々があわてて屋根を探して走り出す。

 そんな中、一人の若い男が書店から出てきたところで雨に出くわし、張り出した屋根の下で空模様をうかがっていた。

 そこへ飛び込こもうと男女二人が隣めがけて駆けてくる。男が先にたち、女が後を追う。どちらもずぶ濡れだ。



 ♢



『このステージの属性はアクアだ。コマはどうする』

『んん、きーめた。ワタシあれにしよーっと。クピドちゃんにはそっちのをお勧めするわ』


 アビルーバがコマを指差した。


『そっちって、矢が既に刺さってるぜ?』


 クピドが指摘する。確かにコマの胸から金の矢が突き出ているのが、二人にはくっきりと見えた。


『だからハンデなんじゃない。ワタシは矢を抜くとこからいくわけ。必然的に手間と高度な技が必要になるでしょ。どう?』

『……フン、まあいいだろう。しかしあれをコマに選べというのはいささか悪趣味だ。……だが、哀れだ』

『人の趣味にケチつけないで。そう言うキミだってほんとはヤサシーくせに。さ、始めましょ?』


 クピドが頷くと、二人は同時に左右へ分かれ跳び、書店の屋根よりも高い位置から地を見下ろすようにして構えた。


『カウントダウンしてちょーだい。先攻を譲るわ』

『全く、ずいぶんと大盤振る舞いだな。なら、いくぜ。5、4、3、2、1、レディ、ゴー!』


 今、二人の戦いの幕が切って落とされた。

 


 ♢



 俺が突然の雨で足止めを食っているときに、同じ屋根の下に駆け込んできた二人は、カップルに見えた。


 雨は大粒で強く、二人とも服に水滴をしたたらせていた。屋根の下へ飛び込むと同時にそれが散って、一瞬空気が虹を帯びる。


 軒下に落ち着くと、彼女のほうが小さなバッグからハンカチを出して、彼氏の背中や腕をかいがいしく拭きはじめた。

 忙しく上下する折りたたんだ薄桃色の布が、まるで柔らかな花弁で撫で回しているように見えて、当事者でもないのに少し気恥ずかしくて目の毒だ。


 だが、当然のように拭かせている彼氏はにわか雨のせいか明らかに不機嫌そうで、雷様もかくやという威圧感だ。

 鋭い目でちらっとこちらを見た後、崩れた己の髪をイラついたように指で払うと身をよじった。


「もういいから」

「あ、ごめんね。つい」


 制止されて、彼女が手を引っ込めた。

 何かちょっと気になったが、そのまま不躾に二人を見ていてはいけないような気がして、そっと視線を逸らした。


 と、もっと目の毒なことに、びしょ濡れの女性が小型の台風のような勢いで「すみません」と駆け込んできた。


 飛び入りの女性の、完璧な曲線美の体に張り付いてしまったワンピースは、それまで気温が高かったせいかどきっとするほど胸の開いたもので、流れるような裾布から形の良い足がそれに続く。

 濡れた長い髪をかきあげる仕草と同時に、官能的な甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。

 色っぽい。まさに水も滴るいい女。まるで海から出たばかりの人魚。ちょっと、いやかなり男好きのするタイプだ。



 ♢



『オレのターン。布陣は虹の橋だ。まずは雷神を装備する。ステージ効果で雷神に攻撃チャンス1プラスだ。いけ、流水花弁!』


 クピドの手からカードが撒かれた。一枚は高く浮かんで消え、一枚は裏面になって場に留まり、そして一枚が流れるように飛んで行く。


『まあまあいいカンジじゃない。ダメージ210、獲得点数2倍と。じゃ、ワタシはこうよ。布陣は颱風。マーメイドいっとくわ。ステージ効果発動で攻撃プラス1ね。早速だけど覚悟してー。マーメイドフラッシュ!』


 次々とカードがアビルーバの元を飛び出していく。

 そのうちの一枚が渦を巻いて消え、残りは寄り合わさって真っ直ぐに突っ込んでいった。


『初っ端から……! マーメイドは防御用装備じゃないのか。雷光との合わせ技だと』


 驚きをクピドが口に出した。


『そうよ。勿論攻撃用。そのほうが、たーのしーいでしょ?』


 とたんに、あたりにまばゆい光が走った。




 ♢




「きゃ、いやー!!」


 突然の稲光に驚いて、色っぽい人魚姫が俺にしがみついてきた。


「だっ大丈夫れすよ、まだ音がしないし……」


 いきなり抱きつかれて、情けないことに俺は焦って噛んだ。

 しかし、言ってるそばからガラガラゴロゴロと雷鳴が響いてきた。意外に近い。


「怖い!!」


 美女に必死で抱きつかれるなんてそう滅多にないことだ。ここは素直に喜んでもいいだろう。そしていいとこ見せろ、俺。


「平気平気。すぐやみますよ」


 精一杯顔を引き締め、頼れる男をつくろって美女の背中に手をまわし、ぽんぽんと軽くいたわるようにたたいた。ああ、すごい役得だ。

 が、美女はすぐに柔らかい体と甘い匂いを俺から引きはがし、ぺこぺこ非礼を詫びた。


「すみません。ほんとカミナリ駄目で。ごめんなさい」

「いいえ。大丈夫ですか?」


 俺は余裕のある落ち着いた態度をと意識して振舞った。しかし。


 ピカ。


「ええ……ありが」


 ガラガラガラ。ドドドーン。


「キャーーー!!」


 お礼を口にしかけた美女は、手近にあったものにまた抱きついた。

 それは、俺ではなくて、何故か隣のカップルの不機嫌彼氏だった。


「もーいやあー! 怖い、怖い。ぐすん、助けてー」


 彼氏さんは美女にべったり密着され、それはもうぎゅうぎゅうに締めあげられていた。

 う、羨ましい……なんてことは断じて無いぞ、くそ。


「雷、落ちたようですね」


 彼女さんのほうは至って冷静で、苦笑いしながらそう言った。


「そのようですね」


 同じく苦笑いでそう返すと、彼女さんはちらりと彼氏さんへ視線を送った。

 彼氏さんはちゃっかり美女の肩を抱き、さっきの不機嫌は何処へやら、ほんのり顔を赤らめ


「大丈夫だよ、心配無いから」


と慰めていた。


 よほど落ちた時の衝撃が恐ろしかったのか、そう言われても美女はイヤイヤというように首を振り、ぎゅっと目を閉じて彼氏さんにしがみついたままだ。

 何故だ。俺の時はすぐはがれたのに。


「も、嫌。怖くて歩けない。か、帰れない。ひっく」


 彼氏さんは困ったように、でもどこか嬉しそうに、女性の腰に手をまわしてよしよしとなだめていた。

 

 さっきまでの自分を忘れて思う。あーあ。鼻の下伸びてんぞ、こら。


 彼女さんが小さくはあ、と溜息をついた。自分の彼氏が見知らぬ美人に捕獲されて喜んでる状況じゃなあ。ま、溜息も出るだろう。思わず同情した。

 このままだと後でもめたりしないだろうかこのカップル。早いとこ美女に帰ってもらえ。


「あの、タクシー呼びましょうか? 車に乗ればこんな雨でも無事に帰れるだろうし、少しはマシでしょう」


 俺はそう言って、携帯電話を取り出した。

 彼氏さんにくっついたまま美女はうんうんと頷いた。可哀想に泣いてしまっている。

 ちょっとほっとしたように、彼女さんが小声で「すみません」と言った。



 ♢



『うーん、抜けなかった。もうちょっとだったのに、惜っしい!』


 アビルーバが野太い声で悔しがって、指をパチンと鳴らした。


『恐ろしい技だ……。矢があるせいでコマに大した影響は無いが』


 抜けかかった矢が、コマの胸の上で揺れている。クピドはカードホルダーを確かめた。


『矢が吸収したマイナス分を上乗せすれば、ダメージ880……チ、なんて技だ。まともに食らわなくて良かったぜ』


 クピドの呟きを、アビルーバは嬉しそうに抉った。


『抜けなかったけど、これでキミの雷神は破壊されたわよ。フフ。ザーンネンねえ』


 楽しそうな笑いを含んでアビルーバはクピドの前に伏せられたカードを示した。

 見れば、場に留まっていたはずのカードがぐずぐずと溶け消えていくところだった。


『流石だな。想像をはるかに超える破壊力だ。下手すりゃ一撃倒しか』


 少しの間苦々しそうに見ていたが、すぐにクピドは冷静にそう評価した。


『でも心配しないでクピドちゃん。楽しいのはまだまだこれからよ』


 ウフ、とアビルーバが握りこぶしを作ってぐっと腕を曲げた。ガッツポーズで盛り上がる筋肉。

 と同時にバチコーンと放たれる豪快なウインク。まぼろしのハートマークが飛び散った気がした。

 思わずこめかみを押さえ、クピドは肩を落とした。


『……ハア(アビルーバをどうしても尊敬できねえのはやっぱりこれのせいかも知れねえ)』

『なあに、まだなーんにもダメージ無いのに降りたくなった?』

『……いや、何でもねえ。オレのターンだな』


 バトルのではないダメージを感じつつも、気を取り直して、クピドはホルダーに手を掛けた。



 ♢



 男の人がタクシー会社に電話をしている間も雨はまだ続いていて、だんだん雷が間遠になってきているのに、すぐに止みそうもなかった。


 私の横で、綺麗な女の人はまだ彼にしがみついている。そうすることで少しでも安心できるのなら幸せなことだ。


 私は彼にしがみついても、心が安らぐことなどなかった。いつも不安で仕方が無くて。でも正直にそれを伝えることはどうしても出来なくて。

 ついそんな暗い思いが顔を出して、物思いの淵に沈んでしまいそうになる。


「なかなか止まないですね」


 と、一緒に雨宿りしていた見知らぬ男の人が、沈み顔の私に気を遣って話しかけてきた。


 この人は、雷嫌いの綺麗な女の人と違って……彼とも違って、ずいぶん落ち着いた人のようだ。

 さっき、いきなり女の人に抱きつかれても、きちんと冷静に対応していた。


 男の人の、にこにこと親切そうで穏やかな微笑がなんだか胸に染みて、すうっと私の気を軽くした。


「そうですね。でもきっともう少しで止みますよね」


 返事をしたら、うん、と頷いた。けっこう気さくだ。


「あなたは雷、怖くないんですか?」


 そう聞かれたので、ついくすっと笑ってしまった。


「平気です。逆に光るのが綺麗だと思うほうで。可愛げが無いって言われたけど、特に怖いものは無いです」


 そう、もう怖いものなんて無い。だって私が怖かったのは、彼。

 いつか私から離れて行ってしまいそうで、怖かった。

 とうの昔に彼は私を好きじゃ無くなってた。繋ぎ止めたくて足掻いていた私は馬鹿だ。今日とうとう別れを告げられて、これまでの全てが泡のように消えた。これが最後のデートになってしまった。


 振られても素直に泣けない私の代わりに空が大暴れしてくれている。

 だから雷も大雨も、怖くなんか無い。


「へえ。俺はけっこうありますよ。オバケとか、蛇とか蜂とか、職場の上司とか。イマドキの子もちょっと怖い。ハハハ」


 男の人は軽く笑い声をあげた。笑うと目じりが下がった。わざとおどけてみせてる。優しい。いい人のようだ。


 笑顔につられてふふ、と笑いかけたら、きりっと胸が痛んだ。

 そう、もうずっと長いこと矢が刺さっているように、胸が痛いままなのだ。


 無意識で、またちらりと彼の様子をうかがった。

 彼は、綺麗な女の人にかかりきりだ。きっとあんなふうに素直に泣いたりして、感情を表に出せる人が彼には合うのだろう。


 溜息が、出た。

 何故か隣の男の人が、きゅっと口を結び、眉をひそめて悲しそうな目をした。

 


 ♢



『攻撃、憂いの淵。更に儚き泡沫。憂いの淵はステージ効果で攻撃チャンスが1プラスされる。いくぜ、溜息の楔!』


 クピドが放った三枚のカードは軌跡を描いて飛び、順に溶け消えていった。


『あらま、やるじゃないの。ダメージ400、獲得点数4倍』


 面白そうにアビルーバが褒めた。


『やっぱりこれくらいは出来ないとねー。うん。よし、お礼にお返ししちゃおうっと』


 素早くアビルーバはカードを引き出した。途端に真剣な目になり、正面に構えたカードを弾き飛ばす。


『迎え撃て慈雨の微笑。そして響け雷鳴。慈雨の微笑でステージ効果発動、氷の刃! 矢をもって矢を砕く! ……っと。さて、どうかなー?』


 飛び出したカードのうち二枚が途中で縒り合わさり、それは鈍い光沢を帯びた灰色の矢となって突き進んでいった。



 ♢



 話しかけたら少しだけ笑顔を見せてくれた彼女さんは、ちらっと彼氏さんを見たとたん、また溜息をついた。

 それが深くて重たいものだったので、俺はつい、彼女さんに肩入れしてしまった。


 こんな、物静かで優しそうな、笑顔も可愛い人を放っておいて、よくまあ他の女に目がいくもんだな。まあ、気持ちはわからなくもないが、多少彼女に遠慮するとか、そういうのはないのか。


 やがてタクシーが来ると、美女は何度も俺と彼氏さんと彼女さんに礼を言い、それからようやく彼氏さんから離れて乗り込もうとした。やれやれ。


 ところが、またしても雷鳴が低く長く、とどろいた。


「きゃ、や、やだもう。怖ーいー!」


 美女は離れかけた手をまた伸ばして、彼氏さんの服をぐいっと引き寄せてしまった。再度密着。

 彼氏さんは「まいったな」と嬉しそうにこぼした。


「しかたがないな、俺で良ければついていってあげましょうか」


 そんなことを口走った。おいおい。彼女さんはどうする気だ。


「いいんですか?」


 ものすごくホッとしたように美女が聞き返した。いいわけないだろう。


「はい」


 だが、彼氏さんはあっさりうなづいた。いいのかよ!


「じゃあ、すみませんお願いします」


 頭を下げた美女にくっついたまま、彼氏さんは頷いて一緒に車に乗り込んでしまった。彼氏さんの行動に俺のほうが焦った。


「ちょっと、いいんですか? 彼氏」


 思わず彼女さんに確認したら、首を振り、まるで凍りついたような硬い声で答えが返ってきた。


「……いいんです。彼じゃないですし」

「えっ、そうなんだ。てっきり……」


 なんと恋人じゃない。そうだったのか。俺は勝手に勘違いしていたのか。

 彼女さんは走り去る車の後ろ姿を見送りながら、自分に言い聞かせるように言った。


「さっき別れたんです」

「……えっ。さっき。で、もうあれか。凄いな!……あっ。うわ、すみません。無神経なことを」


 俺としたことが、思わずうっかりなことを口走ってしまった。

 急いで謝ったが、彼女さんの顔は、アイスピックで刺されでもしたように悲痛に見えた。

 けれどもそれは一瞬で、彼女さんはひとつ肩をすくめると、諦めたように口元に笑みを乗せた。


「いいえ。かえってスッキリしちゃった。あの女の人のおかげだわ」



 ♢



 コマの胸の金の矢は、鉛色の矢が当たると粉々に粉砕した。


『よっし命中!! 矢の破壊分を差し引いて、ダメージ320、獲得ポイント3倍ね。さあ、これでもう無防備よ。一気に落ちてもらうわよ~』


 ニヤリとアビルーバが笑みを浮かべた。クピドはその鮮やかな手際に唸った。


『やるな。見事なもんだぜ。……だが、もう俺のターンだってことを忘れていないか』


 余裕たっぷりにアビルーバは腕を組んで傍観の姿勢を作った。


『そうねキミのターン。頑張って。精一杯足掻いてくれないと、ワタシにかなわないわよ?』

『……足掻きと攻めは違う。止められるものなら止めてみろ』


 二本の指でクピドはカードを三枚引き抜いた。


『広がる波紋+雨垂れの唄+清らなる涙!』


 それらは放たれた空中で一本の金の矢に変化した。


『合わせ技、ムーンドロップ。落ちろ!』


 矢は光りの尾を引いて飛んで行く。

 アビルーバは短く口笛を吹き、同じくカードを三枚引き抜いた。


『面白いじゃない。いいわよ受けて立つわ。花枝のざわめき+甘露+熱風!』


 それらもまた、先の矢を追うように書店の軒下へ飛び込む途中で金の矢に変わった。


『落ちなさい、ラヴタイフーン!』



 ♢



「いや、その、何だか変なとこ居合わせてしまって申し訳ない」


 男が頭を軽く掻きながら言い訳した。

 その困っているしぐさに女がクスリと笑いをこぼす。


「いいえ。タクシーありがとうございました。私が言うのも変だけど。でも、早く帰ってくれて良かった」


 女が微笑んだまま礼を言う。その笑みは波紋のようにじんわりと広がって、その場の気まずい雰囲気を打ち消した。


「いやいや。お節介かなとも思ったんですけど、あの人泣いてて可哀想だったから。……あ、君もタクシー呼びたいですか。なかなか雨止まないし」


 顔の前で手をぶんぶん振って、男が照れたように言う。雨足はだいぶ弱まってきたが、傘無しではつらいだろう。


 そんな彼を見上げ、女は心の中で思った。

 たまたま居合わせただけなのに、こんなに親切にしてくれる。こういう明るくて優しい人を、好きになればよかった。


 ざわざわと奥底で何かが騒いだ。こういうひとを好きに? そうね、とてもとてもいい人。きっと好きになるのは簡単なこと。


「大丈夫です。この近所なのでもう少ししたら。貴方はいいんですか?」


 彼女が聞き返すと彼は頷き、親指で通りの一方を指し示した。


「俺もこの近所なんです。歩いて五分もしないくらい。俺も、もうちょっと雨が弱くなったら走ってみようかと」


 男の指した方角に目を走らせ、女はびっくりしたようにたずねた。


「あっちなんですか? もしかして四丁目のあたりですか?」

「そう。高校のほうです」

「本当に? すごい偶然。ご近所さんです。私、高校の裏手のマンションで」

「ああ! 下に喫茶店が店舗で入ってるところですか。あそこ場所いいですよね」

「そうです。喫茶店の雰囲気もわりといい感じですよね。……と言いながら、まだ一度も入ったことないんですけど」


 彼女がちらりと舌を出す。だいぶ打ち解けてきた仕草に、彼も可笑しそうに笑った。


「住んでるのに?」

「ええ。住んでるのに。ふふふ」


 お互い、どちらからともなく笑顔になる。少し互いのことを知って気安さが生まれた。


「じゃあ、向かいのコンビニも、もしかして入ったことがないとか? 俺はよく行くんですけど」

「そういえばあんまり行かないわ。駅前の同じチェーン店のほうが多いかも」

「ああ。あそこにもコンビニありましたね。普段、駅を使うならそっちのほうが便利か。なるほど」

「そうなんです。……意外とそういうものじゃないかしら。近くのものほど良く知らなかったり、そばにあるものに気付かなかったり」

「そうですね。……こんな近くに住んでいたのに、全然知らなかったし……」


 なんとはなしに呟かれた彼の言葉に、彼女が頷いた。


「ええ……全然、知らなかった」


 ぽたり、と屋根の端から雨水が滴り落ちた。

 不規則に、しかしリズミカルに慈雨の雫が歌い落ちる。


「もし、この雨が降らなかったら、俺ずっと知らないままだったかも知れませんね」


 天からもたらされた甘露が大地に浸み込む。それはしばらく前まで乾ききっていた大地をゆっくりと潤していく。


「そう、ですね。……雨が降ったから、私もふっ切れた。雨にお礼を言わなきゃ」


 そう言ったとたんに、彼女の内から熱いものが渦巻いて溢れ出た。雨粒と見まがうような小さい涙がひとつ、ぽろりと頬を伝った。


「やだ、今頃」


 あわてて彼女は手で顔を覆った。

 その隣で、男はそっといたわるように言った。


「……泣きたい時は泣いていいと思う」


 同情に満ちた優しい言葉だった。けれど彼女は頑なに首を振った。


「でも、こんなとこで泣いたら、通る人にあなた誤解されちゃうわ」


 女を泣かせている酷い男だと。

 彼女の潤んだ瞳が男を見上げた。


「そんなのいいですよ」


 彼はひどく静かに彼女の肩に手を回した。


「悪者役なんて。泣いて、いいですよ」


 耐えていた彼女の顔がふっとゆるんで、それから堰を切ったように真珠の涙が溢れ出した。



 ♢



 しばらくして、雨が止んだ。切れ切れの雲の間から光りが淡く漏れる。

 ようやっと女はそれまで顔を埋めていた男の胸からおずおずと離れた。

 

「ごめんなさい。甘えてしまったわ」

「いいえ、少しでも役に立ててよかった」


 彼女は恥ずかしそうに俯いた。

 本当に、なんて優しい人だろう。それに、この人の前だと自分はいつになく素直になれるようだ。

 すっかり泣き腫らした目を隠そうと、女は薄桃色のハンカチを出した。


「待って、これ使ってください。そのハンカチ、濡れてるでしょう?」


 と、男が自分のハンカチを差し出し、彼女の手の中に押し込んだ。


「いえ、大丈夫です」

「使って下さい。それ、さっき彼氏に使ってたじゃないですか。そんなの使わないで」

「でも」

「……同じの使われると、その、なんだか俺、妬ける」


 小声を聞き間違えたのかと思い、彼女が赤い目のまま彼の顔を仰ぎ見た。男は真剣に怒っているようだった。


「こんなに泣かせて、可哀想に。……俺なら」


 そしてふっと切なそうな目を、した。

 ……聞き間違いではなかった。思わずまじまじと女は彼を凝視した。


 互いの視線が交差した。


 途端に、熱風にあたったかのように、カッと二人の頬が赤く染まり、同時に横を向いた。

 逸らした目の先の空模様を見て、つっかえつっかえ女が話題を変えて誤魔化した。


「あ、雨、やみましたね」

「ええ、そうですね。もう傘無くても平気かな」


 うん、と男は同意して、すぐに気が付いた。止んだら二人はここを去る。

 だが、男は恐ろしく去りがたかった。腕の中で泣いていた女性をこのまま放って置くのが気がかりで。できることならずっと、守って慰めて抱きしめて、そばにいたいと思った。そう、真珠を守る真珠貝のように。


 おかしなことだ。胸が甘く痛い。まるで、矢が刺さっているかのようだ。


 女もまた、射抜かれた後のように胸が震えた。

 取り乱した羞恥心よりも強くこんな気持ちになるのはおかしい。なのに何故だろう。この人と離れるのが寂しい。あたたかな胸の中で泣いてしまったから? それとも。

 いいえ、理由なんて分かっている。胸がドキドキと高鳴り、暴風雨のように荒れ狂っているのだから。


 そして。


 彼女は、自分のハンカチを仕舞い直し、男がよこしたもので頬を拭いた。

 それから、おずおずと言った。


「……ありがとうございます。洗ってお返しします」

「あげます。気にしないで下さい」

「ううん、返させて欲しいんです。だから、そのう、連絡先をおし、えて……」


 だんだん声が小さくなってきて、女は真っ赤になった。

 男は、ぱっと笑顔になって大きく頷いた。


「はい。じゃあ、途中まで一緒にいきませんか。あなたの連絡先も教えて下さい。まずは名前から。俺、渡辺といいます」


 空にはふんわりとした色合いの虹が、雨がもたらした二人の架け橋よろしく空に浮かんでいた。



 ♢



 カードホルダーの表示に勝者のしるしが表示されないまま、時間が過ぎた。


『結果が出ねえな』

『やあだ、珍しいわね。たぶんこれドローよ』


 肩をすくめてアビルーバは両手を軽く上げた。

 すると、言った通りに引き分けの表示が両者のホルダーに浮かび出た。

 勝者がいない場合、獲得したポイントも無効になる。


『引き分けか。チ。納得がいかねえな』

『ハンデあげたわけだし、まあこんなもんでしょ』


 アビルーバはそう言って使用済みになったコマを嬉しそうに見下ろした。至って満足そうだ。


『なら、オレの負けってことだ』


 クピドはカードホルダーをリセットしながら呟いた。


『そうしょげないでクピドちゃん。ワタシは楽しかったわよ。相手してくれてアリガト』


 ごつくでかい手で、アビルーバがちゅばっと音を立てて投げキッスをよこした。

 それを横目で見てしまい、嫌悪の表情もあらわにクピドは超低音で告げた。


『アビルーバ』

『なあに?』

『待ってろ。いつか倒す』


 ピッと相手を指差して、クピドは鋭く睨みつけた。シャープな面立ちには眉間の皺のおまけつきだ。

 すると、アビルーバは震える片手を口元に当てた。


『いやーん。そんなに待てないっ。やっぱ可愛いわークピドちゃん。早めにランク上がってね!』


 見事な逆三角形体型のマッチョが、ほっぺを押さえてクネクネ踊った。


『ふざけんな、オレは真面目に……!』

『ホントかーわいーわねー。 弱っちい子犬みたいで!』

『……ぶっ潰す!!』


 クピドの決心は固い。



 今、また一つの戦いが終わった。

 だが、二人のキューピッドの勝負は、人々のあずかり知らぬところで、明日も繰り返される。










「ちょっとちょっと、あおい、聞いたー? こないだの休みにさ、渡辺センセが本屋の前で女の人に抱きつかれてたって!」

「あ、それ本当っぽいよ。偶然伊藤君が本屋にいたんだって。田中君が言ってた」

「げ。伊藤が」

「はるかってばまだ伊藤君苦手なの? そろそろ慣れてあげたら」

「そそそ、そんなのどーでもいいでしょ。で、ねえ、それって先生の彼女?」

「(あれ、今、はるか動揺した?)らしいよ。なんか最近先生機嫌いいよねー。そのせいかも」

「あー。先生もフツーの男だったってことかー。残念」

「残念ってどういうことだ、はるか」

「げ、伊藤。勝手に呼び捨てにしないでよ」

「あれ、伊藤君どうしたの。どこから来たの」

「お前まさか渡辺先生のことが好」

「何言ってんの。お高め狙いのはるかちゃんが、んなわけないでしょ。ばいばい、あおい。またあとでー」

「あ、はるかどこいくの」

「おいちょっと待てはるか!」

「嫌!呼び捨てしないで伊藤!」

「……(はるかと伊藤君、もしかして仲いいの?)」



行間などの修正 2020.09.07

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