01. 政治的な理由
甘々な話にしていきたいと思っています。
式典の始まるほんの数十分前だった。
大広間へ続く回廊の途中、アリスは侯爵家嫡男アルノーに静かに呼び止められた。
「……アリス。少し話がある」
いつもより声が硬い。
その瞬間、胸の奥のどこかがわずかに冷たくなるのを、アリス自身も感じていた。
嫌な予感は、ずっと前からあったのだ。
アルノーは普段、丁寧で落ち着いた青年だった。
だがここ数ヶ月、彼はどこか落ち着かず、会えば焦りを隠しているような感じがあった。その理由を、アリスは尋ねずにいた。尋ねてもきっと、彼には言えないのだと分かっていたから。
「……婚約を、解消したい」
アリスはまばたきを一度だけした。驚きよりも、納得が先に来た。
あぁ、やっぱり。そこまで来たのか、と。
「理由は……?」
尋ねたつもりだったが、思った以上に声がかすれていた。
アルノーは苦しげに眉根を寄せ、決定的な言葉は避ける。
「君のせいじゃない。……本当に。ただ、僕の家のせいなんだ……それで……ごめん」
彼は何かを言おうとして、結局、何も言えないまま口を閉ざした。
アリスはそれをよく知っていた。
“言えない理由がある” と。
そしてそれは、二人ではどうにもならない類のものだった。
「……分かりました」
静かに答えると、アルノーの肩がわずかに震えた。
彼の瞳の奥には、迷いと後悔が滲んでいる。それでも彼は、こちらを見ることさえつらそうに目を逸らし、足早に回廊の奥へと消えていった。
去りゆく背中が見えなくなったとき、アリスは胸の中心に小さく痛みが生まれるのを感じた。
――三大公家の確執は、ここまで強くなってしまったのね。
彼女はゆっくりと息を吐いた。
◇
三大公家。この国の均衡を保つ柱であり、同時に、王家をも超える権威を手にした家系。
外交を司るクライゼン家。
防衛を掌握するヘルツベルグ家。
経済を握るローエングリン家。
表向きは互いに牽制し合っている。その歪な構造は、貴族同士の婚姻にまで及んでいた。
婚約は、橋であり、鎖でもある。
誰と誰が結び、誰が切られるか。
それは一個人の感情ではなく、派閥で決まる。
アリスは、アルノーのことを詳しく知っていたわけではなかった。幼い頃からの情誼があるわけでも、胸の内を打ち明け合ったことがあるわけでもない。ただ、礼を欠かさず、相手の立場を慮ろうとする人だということは、幾度かの会話と態度から分かっていた。
良い人だ――そう思っていた。
アリスは元より元気な性格をしていたが、それは感情に振り回されるという意味ではなかった。
落ち込むよりも、まず前を向く。失ったものを数えるより、次に何ができるかを考える。そういう種類の元気さだ。
アルノーとなら、その性格を隠す必要がないと思っていた。
無理に飾らず、過度に気を遣わず、並んで立つことができる――そんな関係が築ける相手だと感じていたからだ。
だから、婚約の解消は痛みこそあれど、アリスの足を止めるものではなかった。
――縁が切れたなら、切れたなりに進めばいい。
そう考えられるのも、彼女の気質だ。
悲しみを否定するわけではないが、そこに留まるつもりもない。
勢力図がそう決めたのなら、それを理解した上で、自分の立ち位置を考え直すだけだ。感情を引きずって立ち止まるより、状況を受け止め、次の一手を探すほうが、よほど彼女らしい。
アリスは小さく息を吸い、口元をわずかに引き締めた。
元気な性格は、こういうときにこそ役に立つ。
前を向く力、切り替える力、そして、まだ何も終わっていないと信じる力。
アリスは前を向いて歩いた。




