プロローグ【アラスター王太子】
「きゃーっっっ! いやーーっ、やめて~~~っ!!」
私室に戻ったクリスは、なぜかうら若いメイドたちによって、一方的にもみくちゃにされていた。
スキンシップにしては露骨に胸を押し当てたり、太腿をこすりつけてくる十代半ばから二十歳にならない妙齢のメイドたちの嬲り者――もとい嫐り者にされ、思わず意識せずに女言葉になって、必死に彼女たちを振りほどこうとするクリス。
さすがにこれ以上の無理強いは不敬と判断したのか、いったん攻勢を緩めるメイドたち。
そこでどうにか息をつけたクリスが誰にともなく問いかけた。
「……何なの、何なのコレ?」
仮にも公王宮に仕えるメイドであるので、いずれも身元のしっかりした見目麗しい貴族家の令嬢(だいたいは将来的な経歴に箔をつけるのが目的の次女か三女)ばかりのはずが、今日に限って淑女としての嗜みもどこへやら、椅子に座ったままのクリスを十重二十重に包囲するかのようにグイグイ迫ってきている。
「今夜にも旅立たれるクリス様に、最後のご奉仕をしようと皆が覚悟を決めているのです。いかがですか、クリス様。……男子として思い残すことがないよう、内に秘めた肉欲を発散させては?」
控えていた初老の家令が代表をして、好々爺然とした笑顔と柔らかな口調で、えらく破廉恥な『最後の思い出作り』を口にして、「さあさあ遠慮なく」と煽り立てるのだった。
メイドたちの方も絶世の美少年の童貞を誰はばかることなく食えるとあって、仕事という垣根を越えて本気で目の色を変えて、鼻息荒くクリスのもとに殺到しているように見える。
「……いや、そういう的外れな気の使い方はしなくていいから。普段通りにしてくれた方が気が休まるし」
使用人たちの大きなお世話に辟易して、やめやめ……とばかり解散するように手を振るクリス。
明確に拒絶されて渋々体を離すメイドたちの落胆した態度と、美少女たちに囲まれてもまったく動揺した風情もなかったクリスの態度を思い出して、軽く顎の下に手を当てて黙考する家令。
「ふむ――。クリスお嬢さ……お坊ちゃまには、やはりこちらの教育の方が適切でしたか」
何やら納得した風情で、今度は壁際に控えていた女官たちに合図を送る。
するといずれも二十代半ばから三十歳ほどの夫を持つ身である女官たちが、メイドたちと入れ替わるようにクリスの前で腰を落として、優雅に最上級の一礼を送りながら口を開いた。
「――それでは、はばかりながら今後必要になるでありましょう、クリス様のいざという場合の準備と心構えについて説明させていただきます」
「……は? 準備はともかく、心構えって? えーと、掟の旅の件ですわよ……だよね?」
周囲の微妙な雰囲気に首を傾げながら、そう念押しをするクリスの問いかけに直接明言せずに女官たちが満面の笑顔で頷いた。
むくむくと猜疑心が湧くクリスを無視して、その『必要な知識』を怒涛のように教授する女官たち。
「ええ、これから必ず必要になることです。よろしいですか。個人差もありますが最初はかなり痛いですので、恥ずかしがらずに殿方に話してリードしてもらうのが一番です」
「大事なのは安全日を確認しておくことですので、後ほど必要な計算方法をお教えいたします」
「それとまあクリスお嬢様に限っては無駄な心配ですが、ムダ毛の処理をお忘れなく」
「それと出血に備えて生理用品を用意……は、こちらで荷物に入れておきますので、今後必要となった場合には同様の製品を購入することをお勧めいたします」
「ああ、水を多めに飲んでおくのも良いですね、代謝が活発になって潤滑液が出やすくなりますから」
「そうなると先に御不浄に行くことも大事ですね。行為をすることで尿意が強くなることが多いですから」
「それと何より、病や感染症を避けるためにも、お風呂やシャワーを浴びて清潔な状態で事に臨むことが大切です!」
「ま、痛いのは最初だけで二回目以降は大抵は平気になるので、気後れするのは最初だけですから、ご安心ください」
一時間以上にも渡って、主旨がチンプンカンプンな講義が終わって、へとへとになったクリスは侍女に淹れてもらったミルク入りの紅茶をたしなみながら、思わずため息をついた。
「お疲れ様でございます、クリス様。ご理解いただけましたでしょうか?」
慇懃に頭を下げる家令を気だるげに見据えて、クリスは小首を傾げて再度疑問を呈する。
「まあ……一応は丸暗記したけど。何の話だったわけなの、いまのって……?」
「転ばぬ先の杖という話でございます。旦那様にはお叱りを受けるやも知れませぬが、世間はお嬢様……失礼いたしました、クリス様が想像もできないほど油断ならなく、失礼ながら正面から他人の悪意を受けたこともないクリス様には、想像すらできない悪意が渦巻く悪所でございます。そのため本来であれば淑女教育における経験――コホンッ。またまた失礼いたしました、紳士教育――の佳境であった知識の伝授を急ぎました次第にございます。ま、必要にならなければならないに越したことはございませんが、泳ぎ方を知っているのといないのとでは、違いが顕著でございますからな」
微妙に奥歯にものが挟まったような持って回った言い回しに、なおさら混迷の度合いを深めるクリスであった。
「悪意ね……それは、その……あの、も、もしかしてあの時のアラスター王太子の所業みたいな……?」
口に出すのも忌避したいという態度がありありなクリスの問いかけに、
「そういえばアレがありましたな」
と忌々し気な表情になる家令と、三年以上前から公王宮に勤めている女官たち。
「左様でございます。あのクソ――いえ、アラスター元王太子が如き……いえ、あれ以上の人面獣心を持った者たちが甘言を弄してクリス様を欺こうとするでしょう。一瞬の油断もならない。それが世間というものでございます」
ちなみにアラスターというのはクラヴィス公国の隣国アッキピオ王国の現国王と正室の嫡男にして、正統な王太子であった人物である。
アッキピオ王国の王家保養地が公国から馬で半日ほどの距離にあった関係で、毎年恒例のようにこの宮殿を訪れては、一歳年上で親しみやすいファビオの遊び友達として馴染んでいたが、長じるに従って明らかにクリス姫(当時、絶賛女装中)を意識するようになり、一シーズンほとんどクリスにべったりになるほど露骨に好意を隠さなくなってしまった。
王都に帰ってからも事あるごとに手紙やプレゼントを贈ってよこし、さらには父母である国王陛下、王妃陛下に駄々をこねてクリス姫との婚約を打診してくる始末。
当然、様々な理由――性別・溺愛・政治的思惑・「なんかあのガキ気に喰わない」という本音など――からクラヴィス公はのらりくらりと返事を有耶無耶にしていたため、クリス本人は年に一度やってくる、
「子供なのに、なんか周りに対する態度が横柄なお兄さん」
認識しかなったようであるが。
まあそれくらいならマセた子供の初恋で終わったのだろうが、十四歳という思春期真っただ中に入ったところで、アラスター王太子がハッチャケた。
もともとマジもんの王子さまで、周りにチヤホヤされ、自分の思い通りにならないことに耐性のなかったアラスター王太子は、事もあろうに言葉巧みに当時十二歳だったクリス姫を人目のつかない場所へ誘い出し、子供の頃から部下として付けられていた少年と共謀して襲い掛かったのである。
想像もしていなかったクリスはなすすべもなく、あっさりと組み伏せられてシミースとペティコートを脱がされ(子供なのでコルセットはなし)、いいように興奮したアラスター王太子に胸を撫でたり、舐められたり……したところで嫌悪感から、思いがけずに甲高い悲鳴をあげ、慌てたアラスター王太子がドロワースを脱がせて事に及ぼうとしたところで、たまたま妹の悲鳴を耳にしたバルドが全速力で現場に突入。
尻のあたりで引っかかったドロワースを、ふたりがかりで引きずり下ろそうとしていたアラスター王太子とその配下の少年。そしてほぼ全裸のクリスの姿を目の当たりにしたバルドは一瞬にして激高した。
「このスットコドッコイのドサンピンがーーーっっっ!!!」
およそ王族が他国の王太子に放つ言葉とは言えない怒号とともに、少年ふたりを蹴り飛ばしたバルドは、可及的速やかに泣きじゃくるクリスを保護し、この騒ぎを聞いておっとり刀でやってきた使用人に介抱を任せると、
「な、な、な、何をするんだ。ぼ、ぼ、僕は王太子だぞ。そ、それを殴るなんて……パ、パパに言ってこんな小国滅ぼしてやる! だけどクリスティーナを僕にくれるんなら、特別に取りなしてやっても――」
いまだに自分のやったことの重大さを理解していない。邪魔をされた怒りと蹴られた屈辱に顔を赤くするアラスター王太子の元へと、無言のまま両手の拳を構えて近づいて行った。
その全身から放たれる修羅のような威圧感にお付きの少年は震えあがっているというのに、
「この場で這いつくばって僕の靴の裏を舐めて謝れば、命だけは――ごへええええええええっ!?!」
なおも世迷言を吐くアラスター王太子の軽薄そうだが、それなりに整っている顔が、次の瞬間陥没したかのようにひしゃげる。
「うらうらうらうらうらっ!!」
さらに体重を生かした重量級の連打を、有無を言わせずアラスター王太子へと浴びせかけるバルド。その後、事の次第を聞いて憤怒の表情でこの場に現れたクラヴィス公王が、この場で少年ふたりをなぶり殺しにしようとしたため、近習や近衛騎士と一緒になってこれを宥め、抑える役割をせざるを得なくなったため、幸いにして(?)隣国の王太子を私刑で殺害する……という事態は回避できたのだった。
その後、半死半生で祖国へ強制送還されたアラスター王太子。
詳細を書簡にして公正な処分を求めたクラヴィス公王に対して、息子に大甘なアッキピオ国王は逆に賠償金を請求。クリスティーナ姫に対する狼藉は、子供の悪戯というスタンスでお咎めなしという対応を取った。
これに激怒したクラヴィス公王はアッキピオ王国に対する支援の差し止めと、借金の即時返還を要求。さらに傘下の商会の撤収などなどを交渉の余地なく電光石火の早業で実行に移し、結果的にあっという間に国内の金銭の流通が滞り、現国王に対する不満が爆発して、目端の利く貴族が次々とクラヴィス公国側に寝返り、公国側もこれに秘密裏に支援を行ったことにより、わずか三月ほどで貴族連合軍が国王軍を破り、現国王夫妻とそれに王位継承権を持つ十歳以上の男子全員の処刑を断行。
こうして現在のアッキピオ王国は形式上の女王を据えた、貴族院主体の半民主主義政権へ取って代わられ現在に至るのだった。
そうした忌むべき過去を思い出しながら、家令は苦々しい口調で吐き捨てた。
「ただひとつの誤算は、アラスター王太子の首を刎ねられなかったことですな。旦那様がその手であ奴の首をねじ切ると息巻いていましたから、生け捕りにするよう指示を出したのが裏目に出たようで、クーデターのドサクサ紛れに行方不明となりましたから……」
クリス当人も詳しく知らなかった事件後の裏事情に――特に父の容赦のなさに――若干聞いたことを後悔しながら、ついでのように付け加える。
「まああれは確かにショックだったけど、結果的に男ってものの構造がわかって、自分の性別を自覚する契機にもなったので、ある意味感謝……は絶対しないけど、人生の転換期になれたとは思うよ」
前向きなクリスの発言に家令は深々と頷いた。
「左様でございます。この先、似たようなことがあるかも知れませぬが、その真摯なお心をお忘れなく。何があってもクリス様はクリス様ですので」
「うん。ありがとう、爺。――さて、そろそろ薬を飲むかな」
話し込んでいるうちに夜半過ぎになっているのに気が付いたクリスが、父から贈られた薬の入った袱紗を取り出したのを見て、心なしか部屋中に緊張が走った。
★ ★ ★
アッキピオ王国王都城壁の外に広がる貧民窟。
その一角にある、他の掘っ立て小屋よりは幾分かマシな、土壁造りの二階建ての建物に、血相を変えた人相の悪い男が飛び込んできた。
「お頭っ! 大変ですお頭。急いでお頭に報告せにゃならんことが――」
「騒がしい! それとお頭ではない『正統アッキピオ王朝』を率いるアレク殿下だと、何度言えばわかる!?」
そう男を一喝したのは、旧アッキピオ王国の貴族服を着崩した十七~十八歳ほどの青年であった。
旧アッキピオ王国が討伐された三年前を境に、旧国王派の貴族服や日常品が古着屋や古道具屋に大量に出回るようになったため、貧民窟や裏通りでは気取った連中がそれを着て悦に耽るのは、いまでは珍しくなくなったとはいえこの青年の着こなしは妙に慣れていて、なおかつ顔にもどこか貴族的な雰囲気がある。
おそらくは没落した下級貴族の息子だったのだろう……というのが、『正統アッキピオ王朝』を名乗る破落戸・野盗集団に属する野郎どもの認識であった。
「へ、へい。申し訳ありやせん。殿下!」
この間、カウチに寝っ転がって背を向けたままの頭目――青年が言うところの『正統アッキピオ王朝』の旗頭――は、羽虫をウザがるかのように男に目もくれずに安酒(この辺りでは高級品である混ぜ物の少ないワイン)をラッパ飲みしているだけである。
「……で、要件は何だ? まさか殿下のお耳汚しになるような、いつもの下らん話ではないだろうな?」
すっかり委縮した男に、青年が腰に下げているサーベルの柄に手をやりながらにらみを利かせる。
「ひっ――! そ、その、ルエーガー家の……あ、いえクラヴィス公国の秘宝姫の話なのですが――」
刹那、『アレク殿下』と呼ばれた頭目が持っていた酒瓶を取り落とした。
床の上に大きな染みを作っている中身と残骸とに目もくれずに、無視を決め込んでいた頭目が身を起こして、カウチに腰を下ろした姿勢で男を睨みつける。
「……聞かせろ!!」
有無を言わせない迫力で男に続きを促すのは、青年と同年代であろう十七歳ほどの荒んだ雰囲気に糊塗されているものの、もとはそこそこ整った気品を感じさせる顔立ちをした若者であった。
もっとも若者というには、溌剌さが皆無で澱のように昏い目つきが際立っていて、どこからどう見ても裏社会の人間にしか見えないが。
「へ、へい。情報屋の話では最近、ルエーガー家に庶民向けのドレスや靴、旅行道具などが運び込まれていて……で、つい先日城の備品をちょろまかして首になった洗濯メイドの話では、どうやら噂の秘宝姫がお忍びで長期の旅行に出るらしい……ということでして……あ、あくまで噂話ですが」
後でガセネタだったとなって制裁される恐怖にいまさらながら気が付いたのだろう。自分の迂闊な行動にいまさらながら震えあがる配下のチンピラであった。
一方、その話を聞いた『アレク殿下』の腹心である青年は、俄然真剣な表情になって考えを口に出しながら思案する。
「旅行? となれば最初の宿泊地として、クラルス河を下ったこの王都に宿泊する可能性が高いな。これはもしかすると千載一遇の機会かも知れません、殿下っ」
呼びかけられた殿下こと、すっかりと身を落としてやさぐれてはいるが、間違いなくかつての王太子だったアラスター。そして青年もまた常につかず離れずで王太子の我儘、無理難題、外道な所業にも唯々諾々と従っていた、元侍従であった少年の成長した姿に他ならなかった。
「クリスの動向を絶対に見逃すな! 他の仕事はほっぽって、全力を挙げて監視しろ! もしもヘマを打ったら、てめーら全員ひとり残らずクラルス河の魚の餌にしてやるぞ!!」
アレクの暴風のような蛮声に、慌てて背筋を伸ばしたチンピラは、
「へいっ。わかりやした!!」
一刻も早くこの場を離れたいとばかり、一声返事をして脱兎のごとくアジトを飛び出した。
その後姿には興味はないとばかり、アレクは中空をぼんやりと眺めながら、
「くくくくくっ。運が向いてきたぜ。今度こそクリスを俺のものにできれば、既成事実を盾にあのいけ好かない公王に文句を言わせることなく、莫大な財産が手に入り、この国ごとき軽く取り戻せる……」
「その通りです、殿下!」
嬉し気な青年の合の手を聞き流しながら、栴檀は双葉より芳し――という諺のごとく、未完成ながらこの世のモノとも思えない輝くばかりの美貌を持っていた美姫が、十五歳になってどれほどその美しさに磨きがかかったのか、想像をして、いいところまで行った三年前の出来事と、かつての錦衣玉食の日々を思い出して、にちゃりと粘液質の気持ちの悪い笑みを浮かべるのだった。
★ ★ ★
「……ふむ。ルエーガー家の秘宝姫がいよいよお披露目か」
そんでもって、そのアジトの近くにあった路地裏で、長いフード付きのコートで全身を隠した身長二メルー以上もある、コートの上からもわかるごつい筋肉の塊のような体つきをした人物が、普通なら聞こえるはずのない室内のやり取りを明瞭に聞き取って、わずかに覗く素顔――太い眉に太い唇が特徴的な巌のような顔を、忌々し気に歪めた。
「――この際、馬鹿どもを利用するのが効率的か」
アジトのある方向を透かし見て、そう意味ありげに呟いた言葉が、貧民窟特有の薄闇と腐敗臭の中に消えていく。
そうして様々な思惑が交差しながら、運命の歯車は一点に集中しようとしていた。
9/3 追記しました。
話が膨らんで全然予定通り進みません。
予定より数話多くなる可能性が非常に高くなりました。
そして更新のモチベーションとなりますので、評価★★★★★、レビュー、感想など、ぜひともよろしくお願いいたします!