思い出すのは君の
変な少年二人は、言いたいことをぶちまけてしまうと、窓から飛んでいってしまった。
ラウルはしばらくたってから、ようやく我にかえる。慌てて窓の外を見たが、梯子もなければ、少年たちの死体もない。本当に空に飛んでいったとしか、考えられなかった。
「……夢だ。これは夢だ」
ラウルは無難な結論に飛びついた。きっと疲れているのだ。毎日あんなものを見ているのだから――
「ああクソ。思い出しちまったじゃねえかよ」
胸の中に、真っ黒な泥がたまっていくような重苦しさがある。ラウルは舌打ちした。こんな日は、早く寝てしまうに限る。目が覚めたら、元の生活が戻ってくるだろう。ラウルは勢いをつけて、ベッドに寝そべった。
「うわ!?」
しかしすぐに、ラウルは飛び起きた。天井に下手くそな絵で、さっきの子供たちの顔が描いてあるのだ。夢だと決めつけようとしたラウルをあざ笑うように、絵の少年たちは舌を出してにやにや笑っている。もちろん、昨日の夜にはこんなものはなかった。
「あいつら……」
うめきながら、ラウルは身を起こした。もはや、夢だったと片付けることはできない。とことん向き合え、と神が言っているに違いなかった。
「神がどうして、医者を作ったか、ねえ」
ラウルは記憶をたぐった。毎日が拷問の監督で埋まる前の、もっと奥。遥か昔へ。すると、子供時代の思い出がよみがえった。
☆☆☆
昔、ラウルは領主の『跡継ぎ』として養育されていた。いち地方貴族の両親はやっきになって躾をほどこしたが、年頃の少年にとってそんなものは退屈でしかない。彼は召使いの隙を見つけては逃げだし、いつも泥まみれになって農民たちの中に隠れる。そして、つかの間の自由を手に入れるのだ。
と言っても、本物の農民と領主の子では、着ているモノも立ち振る舞いもまるで違う。農民たちには、毎回すぐ見破られていた。
「若様、まあたそんなところに隠れなさって」
いつも決まって最初にラウルを見つけるのは、よく笑う素朴な村娘だった。彼女の歳はおそらく十四・五だったが、もうすでに嫁に行っている。小柄だがよく働くので、嫁ぎ先の評判もよかった。
しかし、農家の嫁として働かなければならないことに対し、彼女なりに不自由さを感じていたのだろう。そのためか、ラウルを見つけてもいつも彼女は口をつぐんでくれた。ラウルはその礼に、よく砂糖や縫い針をあげていたものだ。
そんなやりとりを続けているうちに、ラウルは一つ歳をとる。村娘の方は、子が出来て腹が大きくなった。……そしてこの時ついに、父の堪忍袋の緒が切れた。
いつもの小言ではおさまらず、父は何度も同じ事をラウルに向かってまくしたてた。初めはハイハイと聞いていたラウルも、次第に興奮してきて汚い言葉で言い返す。
結果、今までに無い正面衝突となった。最後は出て行けと怒鳴る父に、ラウルがああそうしてやるよと答えて終わったと記憶している。
そしてその夜、ラウルは本当に家を抜け出した。あんなところに戻るものか、と最初は本気で思っていた。しかし、暗くて寒い夜道をとぼとぼ歩くうちに、後悔ばかりが押し寄せてきた。辺りには本当に誰も居ない。夜盗に襲われたら、なんの抵抗もできないだろう。
家に帰りたい。そんな思いがわいてくることが、情けなくて仕方無かった。
「若様?」
そんな時、背後から聞き慣れた声がした。ラウルが振り返ってみると、いつもの村娘が優しい笑みを浮かべている。みっともないとは思いつつも、ラウルは彼女の目の前でわんわん泣いてしまった。
「……若様、どうなすったんですか。こんな夜中に」
やっとラウルが泣き止んでから、村娘がぽつりと言った。外出を咎められても、彼女だと悪い気はしなかった。父と大喧嘩したことを、多少自分に都合良く脚色して話してやると、村娘は目を丸くしていた。
「それは若様、ずいぶんと勇敢でしたこと」
「だって二言目には、『それがお前の幸せなんだ。何故分からない』ってしつこいんだもの。聞いてるうちにくたびれるよ」
ラウルが口を尖らせると、村娘は困って愛想笑いをした。そこでようやく、ラウルは彼女がどうしてここにいるのかが気になった。
「寝ないでなにしてたの?」
「胸んとこがむかむかして、どうにも眠れんもんで。家の周りを歩いとったら、若様が見えて。そんで、追いかけてきましたわ」
「ごめん、遠出させちゃったな」
よく考えてみれば、夜道の女歩きは相当危ない。今の彼女は腹が大きく、歩くのもおっくうそうだから余計にだ。
帰ろうか、とラウルは言い出した。二人で来た道を戻る。そのうちに、ラウルはあの家に戻るしかない、という決心がついた。
とうとう、村娘の家の戸口まで来た。娘は扉に手をかけても、
「ちゃんと帰ってくださいね。あたしはお家の側まで行かれませんから」
とラウルに釘を刺す。わかってる、と答えると、彼女は家の中へ戻り始めた。その背中に向かって、ラウルは声をかける。
「ねえ……幸せって、何?」
父から耳にタコができるくらい、貴族として生きる幸せについて説かれたが、ラウルにとってはちっともわからなかった。自分は何を目指して生きていったらいいのか、うまくかみ砕けずにいたのだ。なんとなく、この娘なら納得のいく答えをくれそうな気がする。
「そうですねえ、あたしは学がないから、若様のおっしゃる幸せとはきっとご縁がないけど」
そこで彼女は言葉を切り、一呼吸する。
「それでもあえて言うとすれば、どこも痛くなくって、毎日ご飯が食べられることですかねえ」
「え」
「つまんない答えでごめんなさいねえ。若様、気をつけてね」
村娘の姿が扉の向こうに消えてからも、ラウルはしばらくあっけにとられていた。あまりにも、彼女のくれた答えは単純だった。しかし、それは人間として生きて行くには当たり前のこと。ただ自分が今まで恵まれすぎて、それを意識することすらなかっただけだ。
いつまでもそれが続くと、信じ切っていた。自分は困る立場になどならないと、心のどこかに驕りがあった。実際は地方貴族といっても決して簡単な仕事でなく、王族に詰問されれば地位を失うものだと思い出す。
地位が落ちれば、生活する手段を失う。農民や職人のように、手に職があるわけでもなく、その日の食事にも困るだろう。父が自分に、「しっかりしなければ」と言うのも、そのためなのかもと初めて思えた。父は父なりに、自分の将来を案じてくれていたのだろう。
もう一度、ゆっくり話をしてみようか。理性的に会話する道があるかもしれない。ラウルは来た時とはまるで違う気持ちになって、暗い夜道を戻った。
そして、ひと月後。ようやく父の怒りが少し和らぎ、会話の機会が訪れた時、あの村娘が死んだと聞かされた。お産に失敗し、母子ともに助からなかったという。
その日、彼女とその子供の墓の前に、ラウルは日が暮れるまで座り込んでいた。
☆☆☆
そこまで思い出してから、ラウルはふうと息を吐く。結局その後父が政敵に敗れて没落し、ラウルは苦学生になる。そこからあの時の娘と同じ犠牲者を出さないようにと決意し、医者になるところまでたどり着いた。今まで忘れていたくせに、一つ思い出すとズルズル出てくるものだ。
「……痛くなくて、飯が食えれば、ねえ」
あの時の村娘の言葉をつぶやきながら、ラウルは立ち上がった。
まだ修理でてんやわんやの塔と違って、別棟の宿舎は静かなものだ。その中を、ラウルは歩いていく。見張りも塔の方に気をとられていて、ラウルが記録室に行きたいと言うとあっさり通してくれた。
埃っぽい記録室で、ラウルは裁判の記録を眺める。裁判そのものが増え続けているので、帳簿は今月分だけで三冊もあった。
ラウルはそのうち一冊を手に取り、めくってみた。
ジーナ、悪魔と通じていたと告白したため、死刑。
イザッコ、魔術の集まりに参加したとの証言あり、死刑。
ピエトロ、死刑。モニカ、死刑。
死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑……
文字の羅列がつらくなって、ラウルは名簿を閉じた。彼女が語った『幸せ』が、今もなおここで奪われ続けている。これを見てようやく、心が決まった。鐘楼に祈りを捧げてから、呼ぶべき存在の名を口にするとしよう。
☆☆☆
「……ぶっつけ本番にしては、うまくやったな」
帰り道、天目が声をかけてきた。秋葉は肩をすくめる。
「あれで本当によかったのかな。悪魔裁判を疑問視してるのは確実だけど、力を貸してくれるかは五分五分ってところじゃない」
「そんなとこか」
「ほんとは積極的な味方が欲しいけど、仕方無いね。もうちょっと探してみようか」
秋葉たちはそれから塔の周囲を飛び回ったが、悔恨の念を抱いていそうな人間は見つからない。探していないのは、悪魔の塔の一階と地下部だけになった。
秋葉は探索を提案したが、天目は頑としてそれを嫌がった。何か、とてつもなく悪意と悲しみに満ちた、禍々しい気を感じるのだと言う。万が一ユーリィと出くわしてしまえば、戦闘になるかもしれない。秋葉は仕方無く、捜索を断念した。
ラウルと会ってから、すでに数時間が経過している。秋葉たちはマリスの家へ帰ることにした。
ヴィアラテアの夜は暗い。時々ランプを持った巡回の騎士が通りがかるが、それが通り過ぎると月の光だけが頼りになる。しかし、元々目の良い秋葉たちは特に困ることなく歩いていた。
「……目が良すぎるのも、考え物だな」
「だねえ」
双子同時に、同じものを見つけた。黒い僧衣に身を包んだ男たちが、ずらずらと道の端を歩いている。秋葉が昼に見た、不審な動きの男たちだ。
「寄付でも集めに回ってるのか?」
「それならこんな時間にやらないでしょ……みんな寝てるよ」
男たちの行方が気になって、双子神は後を追った。男たちはランタンで道を照らしながら、狭い路地を抜ける。なにやら手に持った書き付けを熱心に読んでいるのが、秋葉には気になった。
男たちが足を止める。そこは、マリスの家の前だった。
「ん?」
「静かにして」
男たちは玄関へ進んでいく。そして扉を叩いた。しかし今は真夜中な上、マリスの家は使用人が極端に減っているのだ。すぐには誰も出てこない。
次第に男たちが苛立ってきた。このままだと、扉を破って踏み込まれかねない。バルトロが隠れている今、家中を探し回られることは避けたかった。
「……当家にどういったご用件でしょうか?」
秋葉は姿を現し、使用人をよそおって男たちに声をかけた。
「うん? 貴様、この家の小間使いか」
「はい」
「それにしては、整った身なりすぎないか」
「お嬢様ができた御方ですので、私たちにまで気を配ってくださいます。あんな目にあわれたのに、気丈な方ですよ」
秋葉は最後の一文だけ、声を低くする。少し皮肉をこめたのだが、男たちには通じなかったようだ。
「その娘に用がある。連れて参れ」
「……淑女をこんな時間にたたき起こそうってんですか」
「もう一度同じ事を言ってみろ、すぐに捕らえるぞ。いいから、早く娘を呼んでこい!」
つくづくゲスな連中だ、と思いながら、秋葉はマリスを呼びに行った。庭には天目を残してあるので、手荒な行為に出たら止めてくれるだろう。
いきなりマリスの部屋に入るわけにもいかないので、まずバルトロに頼んで娘を起こしに行ってもらう。起きてきたマリスは、不安で顔を強ばらせていた。
「一体、こんな時間にどなたでしょう」
「おそらく、騎士団の関係者です。僧服を着てますから」
マリスはそれを聞くと、ガウンの裾を握りしめた。
「父の存在が、漏れたのでしょうか」
「いやあ、あの状況ですぐにバレるとは思えませんが……」
ユーリィの攻撃で、塔の最上部はほぼ壊滅状態だった。この世界の技術水準で、死体を全部回収できたとも思えない。バルトロは死んだと思われている可能性が高かった。
「とりあえず、相手の言い分だけでも聞きましょう」
マリスはそう言って身支度を調え、玄関まで歩いていった。秋葉も護衛としてついていく。
待たされたのがよほど癪に障ったのだろう、僧服たちはマリスを見るなり、きつい口調で質問を始めた。
「あんたが元市長の娘、マリスか」
「はい、相違ございません」
「お父上だがね。今朝、有罪判決が出て、刑が執行された」
「そんな……そんなことって」
マリスは顔を覆った。しかし、その手の下では一滴の涙も流れていないだろう。大嘘を聞かされているのだから。
「あー、悲しむのはやめよ。悪魔に与したとわかった親の死なぞ、悔やむことではない。それよりもっと、大事な話がある」