偽りの師匠の証言
市場に集められた証言は、夕暮れまでに三冊の帳面となった。
水門の見張りを申し出た職人たちは、交代の時刻を決め、子どもたちは倉庫街へ通じる道を見張ることになった。誰かが声を上げるたび、街の空気は少しずつ変わっていった。恐怖に閉ざされていた人々が、自分の見たものを、自分の言葉で語り始めたのだ。
リゼットは臨時の記録所となった旧商館で、証言の整理を続けていた。
「三年前の冬、水路の水位が下がった。東の商会が井戸を買い取ろうとした……」
羽根ペンを走らせていると、扉の外で馬の蹄が止まった。
ユアンが顔を上げる。
「王都からの使者か」
次の瞬間、扉が荒々しく開いた。
ヴァルドが入ってきた。昨日までの苛立ちを隠す気もなく、二人の兵士を背後に従えている。その隣には、灰色の髪をした老人が立っていた。
リゼットの指から、羽根ペンが落ちた。
「師匠……」
老人はかつて、王都の記録院で彼女を教えた男だった。名をアーベルという。紙の匂いを嗅ぎ分け、古いインクの年代まで言い当てる。リゼットに音の記憶を読む術を教えたのも彼だった。
だが、追放の日から一度も姿を見ていない。
アーベルはリゼットを見た。そこには驚きも、懐かしさもなかった。ただ、疲れた役人のような無表情だけがあった。
「この男を知っているな」
ヴァルドが言った。
「知っています」
「ならば、彼の証言を聞け」
ユアンが一歩進み出た。
「ここは私の管轄だ。令状を示せ」
「君の権限は停止された」
ヴァルドは一枚の文書を掲げた。王都監査局の印が押されている。
「辺境都市の混乱を招き、偽造犯を使って虚偽の告発を行った疑いにより、ユアン・レインデル代官を職務停止とする。証言が終わるまで、彼は監督下に置かれる」
「こんなもの、昨日まで存在しなかった」
「必要になったから発行されたのだ」
ヴァルドは薄く笑った。
アーベルが前へ出る。
「私が証言します。リゼットは記録院にいた頃から、独断で記録を書き換えていた。鐘の記録も、交易記録も、彼女が勝手に作ったものだ。私は何度も注意したが、彼女は聞かなかった」
リゼットの耳の奥で、遠い雨の音がした。
師匠の机。窓辺に積まれた紙。夜更けに灯されたランプ。アーベルの低い声。
『記録は人の記憶を守る。だから、書く者は自分の都合を混ぜてはいけない』
その声を、リゼットは何度も信じてきた。
「違います」
彼女は言った。
「私が署名したのは、師匠に命じられた記録です」
「命じた覚えはない」
アーベルの返答は早かった。
「彼女は自分の能力を誇示するため、存在しない鐘の音を記録した。異議を唱えた私は、彼女に逆恨みされたのです」
室内の兵士がリゼットの腕をつかんだ。
「証言を妨げるな」
ユアンが手を伸ばす。
「触るな。彼女は逃げない」
「代官ではない者の命令を聞く必要はない」
兵士の手が強く締まった。
痛みよりも、屈辱のほうが大きかった。市場でようやく立ち上がった人々の声が、たった一人の証言でまた踏みにじられようとしている。
リゼットはアーベルを見た。
「師匠。私が単独で偽造したというなら、なぜ記録院の封印があったのですか」
「お前が盗んだのだろう」
「では、なぜ私の署名の横に、あなたの訂正印があるのです」
アーベルの眉がわずかに動いた。
しかし、ヴァルドがすぐに口を挟んだ。
「細部にこだわるな。彼女は罪から逃れるため、恩師まで巻き込もうとしている」
「恩師……」
リゼットはその言葉を繰り返した。
胸の奥に、別の記憶が蘇った。追放前夜、アーベルが彼女の机から鍵を取り上げたこと。何かを尋ねようとした彼女に、背を向けたこと。そして、閉じた扉の向こうで聞こえた、誰かと話す声。
『あの子なら、音を読んでしまう』
その続きは、記憶の霧に沈んでいる。
兵士が彼女の腕を後ろへ回した。
「リゼット・ベル。虚偽記録の作成、および都市騒乱の扇動の疑いで拘束する」
「彼女だけではない」
ユアンが低く言った。
「私も同行する」
「代官職務停止中の者に拒否権はない」
「ならば、彼女の証言を記録しろ。拘束の理由と、証拠の出所もすべてだ」
ヴァルドが鼻で笑った。
「最後まで役人のつもりか」
「役職は奪えても、見た事実までは奪えない」
ユアンはそう言って、リゼットを見た。
その眼差しに、守るという色はなかった。逃げ道を示すことも、代わりに戦うこともできない。ただ、彼女が自分の足で立つことを信じている目だった。
リゼットは小さく頷いた。
二人は別々の兵士に連れ出された。
通りには、知らせを聞いた住民たちが集まっていた。パン屋の女が叫び、荷車職人が兵士の前に立ちはだかろうとする。だが、ユアンは首を横に振った。
「今は、争うな。見たことを忘れず、記録してくれ」
その言葉を聞き、住民たちは道を開けた。
リゼットが振り返ると、止まった大時計が夕闇の中にそびえていた。
鐘は鳴らなかった。
けれど、師匠の証言が終わった瞬間、時計塔のどこかで、聞き慣れない小さな金属音がした。
ひとつ。
また、ひとつ。
誰かが遠くで、偽物の時間を刻み始めていた。




