最終話「一輪でいい」
川の音が聞こえてきたのは、昼過ぎだった。
地図にない川だった。でもリコの新芽が、その方向を向いていた。街道を外れて、獣道を辿って、木々の間を抜けた。
川があった。
小さな川だった。でも水が透明で、底の石まで見えた。岸に岩盤が露出しており、その割れ目に沿って、水が滲み出していた。
レインが足を止めた。
「これ」
川岸の岩盤の際に、植物が群生していた。丸い葉。小さな白い花。この時期にしては遅い開花で、でも確かに咲いていた。
「この花」レインは声が変わっていた。「ガリウス」
「何だ」
「丸い葉と、白い花」
ガリウスが見た。
見て、止まった。
「……これが」
「断言はできない。でも、五百年分の記録にあった。神樹の系譜の植物。神樹が枯れた後も、根の近くで生き続けていたものの末裔だって」
ガリウスは群生に近づいた。
膝をついて、葉に触れた。丸い葉。柔らかかった。
「ハナが育てていたのが、これだったと思う」レインは続けた。「全部が一致するわけじゃないけど。でも」
「いい」ガリウスは言った。「それでいい」
しばらく、葉に触れたまま動かなかった。
ソフィアがハナの鉢を胸に抱え直した。
リコの新芽が、岩盤の割れ目の方向を向いていた。
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割れ目の下に、空間があった。
ガリウスが石を動かすと、人が入れる広さではないが、根が届く深さの穴があった。穴の中は湿っていた。
ここだった。
リコは根を伸ばした。鉢底の穴から、土を通じて、外の地面へ。岩盤の際を伝って、割れ目の中へ。
届いた。
穴の底に、種があった。
一粒だけ。
五百年間、そこにあった種。神樹が最後に埋めた、続きの種。
リコは根を、そっと種に触れさせた。
何も起きなかった。
爆発も、光も、声も、奇跡もなかった。
ただ、種が、温かかった。
まだ生きていた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
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「何があった」ガリウスが聞いた。
リコは答えられなかった。花の姿だから。
でも春の野原の香りを出した。
懐かしい、という意味の。怖くないという意味の。ありがとうの別の言い方の。
ガリウスには十分だった。
「良かった」と言った。
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四人は川岸に腰を下ろした。
誰も急がなかった。ここへ来るために歩いてきた。着いた。それだけのことだが、それだけのことが大きかった。
レインが帳面を開いた。
最後のページを開いて、書き始めた。
「この旅で分かったこと」という表題をつけようとして、やめた。分かったことを全部書ける気がしなかった。
代わりに書いた。
「リコの香り辞典、第一版」
表題だけ書いて、閉じた。
第一版ということは、第二版がある。
続きは、まだある。
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ソフィアが川を見ていた。
「ガリウス」と呼んだ。
「何だ」
「わたし、どこへ行けばいいか、まだ分からない」
「分からなくていい、今は」
「帰る場所もない」
「ここにいろ」ガリウスは言った。「今日は」
「今日だけ?」
「今日だけ決めれば十分だ。今日の次は、また明日決める」
ソフィアはしばらく川を見ていた。
「根が張れる気がします。ここなら」
「そうか」
「一日根を張ったら、また明日も張れるかもしれない」
「そういうことだ」
ソフィアはハナの鉢を川岸の石の上に置いた。陽当たりの良い、平らな石の上に。
「ハナも根を張ってるから。わたしも張る」
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男が姿を現したのは、夕方だった。
川の対岸に、一瞬だけ見えた。
神殿の薬草商の男だった。四人と目が合った。
男は何も言わなかった。表情も変わらなかった。
踵を返して、森の中へ消えた。
ガリウスが立ち上がりかけた。レインが止めた。
「追う?」
「……いや」ガリウスは座り直した。「今日は追わない」
「理由は」
「石は砕けた。核はない。男が次を作ろうとしても、ここには先に俺たちが来た。リコが根を張った。それで十分だ、今日は」
「明日は」
「また明日、考える」
レインは頷いた。
対岸の森はもう静かだった。
世界は続いていく。全部が解決したわけじゃない。でも今日の分は、今日終わった。
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夕暮れ。
ガリウスはリコの鉢を川岸の石の上に置いた。ハナの鉢の隣に。
「着いたな」とガリウスは言った。
春の野原の香りがした。
「お前に聞きたかった。ずっと」ガリウスは続けた。「花のまま、ここにいることを、お前は選んでいるか」
リコは答えなかった。
しばらくして、ローズマリーの香りがした。
意志を持って起きている、という意味の香り。
「そうか」ガリウスは言った。「それが答えか」
もう一度、春の野原の香りがした。
「俺も同じだ」ガリウスは川を見た。「どこにいるかより、誰と根を張るかだ。お前がいたから、俺は話せた。ハナのことを。怒る場所がないことを。それを言えた場所が、俺の根を張る場所だった」
新芽が、ガリウスの方を向いていた。ずっと向いていた。
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夜が来た。
焚火の前。四人と、二つの鉢。
レインが帳面の最後のページを開いた。
「辞典、一個だけ最後に追加してもいいか」
「何の香り」ガリウスが聞いた。
「ローズマリー。意志を持って起きている、って書いてある。でも今日のは少し違う気がした」
「何が違う」
「強さが、違った。今日のは──居る、という意味に近かった。起きている、じゃなくて。ここに居ることを選んでいる、という」
「追加していいか」レインはリコに向かって言った。
ローズマリーの香りがした。
「ありがとう」レインは書いた。「ローズマリー、強め──居ることを選んでいる」
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深夜。
全員が眠りに就いた。
月が川を照らしていた。
川岸の石の上で、二つの鉢が並んでいた。リコの新芽と、ハナの葉が、月光の中にあった。
風があった。
二つの芽と葉が、同じ方向に揺れた。
川の上流の方向に。岩盤の割れ目の、種のある方向に。
誰も見ていなかった。
でも、そこにあった。
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翌朝。
ガリウスが最初に起きた。
川が光っていた。朝の光を受けて、水面が細かく揺れていた。
リコの鉢を見た。
新芽が三本になっていた。
夜の間に、もう一本、出ていた。
ガリウスは誰も起こさなかった。ただ、しばらく見ていた。
「おはよう」と言った。
ローズマリーの香りがした。
意志を持って、ここに居ることを選んでいる、という香りが。
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四人が起きた。
レインが「新芽が三本になってる」と言った。
ソフィアが「ハナも葉が一枚増えた」と言った。
ガリウスは何も言わなかった。
荷物をまとめながら、次はどこへ行くかを三人が話した。北の先に、まだ街道がある。アルマへの言葉を届ける方法を探したい。王都の土が完全に戻ったか確認したい。男がまた動いているかもしれない。
やることは、まだある。全部は終わっていない。
でも今日の分は、今日始まる。
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出発の前に、レインがリコの鉢に顔を近づけて言った。
「辞典、第二版も書く。もっと分かったら」
ローズマリーの香り。
「あと」レインは続けた。「声が聞けたこと、嬉しかった。また雨が降ったら」
春の野原の香り。
「どういたしまして、はこっちの台詞だよ」レインは笑った。
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ガリウスがリコの鉢を背負い袋に固定した。いつもの場所に。いつもの角度で。
「あの夜」とガリウスは言った。「雨が止む前に、もう一つ聞きたいことがある、って言っただろう」
新芽が揺れた。
「まだ聞きたいか」
新芽が、大きく揺れた。
「次の雨のとき、聞かせてくれ」
ローズマリーの香り。それから、春の野原の香り。
ガリウスは頷いた。「約束だ」
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四人は川を離れた。
街道に戻る前に、リコの新芽が一度だけ、川の方向を振り返るように傾いた。
岩盤の割れ目の、種の場所を向いて。
それからまた、前を向いた。
歩く方向へ。次の場所へ。
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川だけが残った。
上流から下流へ、止まらずに続いていた。
岩盤の割れ目の下で、種が眠っていた。
根が触れた場所で、温かいままで。
いつか芽吹くかどうか、誰も知らない。
でも種は、そこにあった。
それで、十分だった。




