十七話「根は、まだある」
夜が明けた。
神殿の台座の間で、三人と一鉢と、もう一人が夜を越した。
ガリウスは眠らなかった。リコの鉢を膝に乗せたまま、壁に背を預けて座り続けた。鉢は冷たかった。昨夜からずっと冷たかった。でも新芽だけが、触れると少しだけ温かかった。
気のせいかもしれなかった。
でもガリウスは手を離さなかった。
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レインは一晩中、調合をしていた。
神殿の床に道具を広げ、燭台の明かりで材料を確認しながら、依代安定剤を作った。材料は7種。配合の順番と温度と時間。アルマの調合書を何度も確認しながら、手を動かし続けた。
泣きながら、手を動かし続けた。
泣いていることに途中まで気づかなかった。頬が濡れていて、初めて気づいた。
拭かなかった。拭く余裕がなかった。
夜明け前に、完成した。
薄い緑色の液体が、小瓶に満ちた。
レインはそれを持って、ガリウスの隣に座った。
「できた」
「使うか」
「うん」
リコの鉢の土に、ゆっくりと垂らした。
一滴、二滴、三滴。
しばらく、何も起きなかった。
それから。
鉢の端の新芽が、わずかに、色を濃くした。爪の先ほどの緑が、少しだけ、濃い緑になった。
「あ」とレインが言った。
それだけだった。でもガリウスには十分だった。
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日が昇った頃、ガリウスは新芽に気づいた。
正確には、気づいていた。昨夜から。でも声に出せなかった。声に出せば、それが何を意味するのか向き合わなければならなかった。
今朝は、向き合うことにした。
「レイン」
「うん」
「これ、いつ出た」
レインは少し間を置いた。
「さっき気づいた」
嘘だと分かった。ガリウスには分かった。でも何も言わなかった。
ガリウスは新芽に指を近づけた。触れる直前で止めた。
「リコ」
呼んだ。
新芽が、揺れた。
風はなかった。
「リコ」もう一度。
また揺れた。
ガリウスは息を吐いた。長く、ゆっくりと。肺の中にあるものを全部出すように。
「そこにいるな」
三度目の揺れは、一番大きかった。
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封印石から出てきた人物が目を覚ましたのは、昼前だった。
レインが応急処置をした後、神殿の隅に寝かせていた。年は十六か十七か、それくらいに見えた。白い肌、黒い髪、痩せていた。長い間、何も食べていなかった体だった。
目が開いた。
最初に発した言葉は、誰も知らない言語だった。
レインが書き取ろうとしたが、二言か三言で終わった。短い、でも切実な響きの言葉。何かを問いかけているような発音だった。
次の瞬間、少女は目を閉じた。また開けた。
「ここは」と言った。今度はこの世界の言葉だった。
「神殿です」レインが答えた。「安全です。今は」
少女はゆっくりと周囲を見た。崩れた台座の破片。砕けた封印石の核。ガリウス。レイン。そして。
リコの鉢を、見た。
長い間、見ていた。
それから、ガリウスを見た。
「さわって、いいですか」
ガリウスは少し迷って、鉢を差し出した。
少女は細い指でそっと新芽に触れた。目を閉じた。
何かを、感じているようだった。
「花畑の夢を見た」と少女は言った。「青い空の夢。歌が聞こえた」
ガリウスとレインは顔を見合わせた。
リコから聞いた話ではなかった。でもどこかで聞いたような気がした。
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ガリウスが聞いた。
「さむいか」
少女は目を開けた。驚いた顔をした。
「……知って、るんですか」
「台座の中から聞こえた。一度だけ」
少女は少しの間、黙っていた。それから頷いた。
「ずっと、さむかった。でも昨日、急に温かくなった」根を渡された瞬間のことだろうとガリウスは思った。「それで、外が見えた気がした。初めて」
「名前は」
「ソフィア」と少女は言った。「ソフィア=クレア。それだけ、覚えてます」
レインが帳面に書いた。ソフィア=クレア。
「どこから来たか、分かるか」
「……分からない。でも、ここじゃない、と思います。空の色が、違った記憶があるから」
ガリウスはリコの鉢を見た。
空の色が違う場所から来た者。
そういうことか、と思った。
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レインがソフィアの手当をしていたとき、手首の痕に気づいた。
細い根が食い込んだような痕。白い皮膚に、幾筋もの線。
どこかで見たことがある形だった。
アルマ先生の右手首。
あの傷と、同じだった。
レインは何も言わなかった。ソフィアも気づいていなかった。
でもレインは帳面に書いた。小さく、ソフィアに見えないように。
「アルマ先生は、知っていた」と。
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午後、三人と一鉢と一人は宿に戻った。
神殿の衛兵は、台座の崩壊を早朝に発見していた。騒ぎになっていた。でも三人は昨日のうちに神殿を出ていた。誰も見ていなかった。
宿の部屋で、ソフィアは窓の外を見た。
「植物が、ない」
「三週間前から枯れ始めた。封印石のせいで」
「でも今は」ソフィアが言った。「土の中に、何かが戻ってきてる気がします。微かだけど」
レインが窓を開けた。街を見た。
石畳の隙間に、小さな草が一本、生えていた。
今朝はなかった。
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夜。
ガリウスはリコの鉢を窓辺に置いた。月の光が当たる場所に。
「新芽に、日がいるかと思って」と言った。誰に言うでもなく。
ソフィアが隣に来た。新芽をまた見た。
「この子のこと、教えてもらえますか」
ガリウスは少し考えてから、話した。全部ではないが、大事なところは全部。
ソフィアは黙って聞いていた。時々、頷いた。
「根を、わたしに渡してくれたんですね」最後にそう言った。「あの温かさが、この子だったんだ」
「そうだ」
「ありがとう、と言いたい。届きますか」
「分からない」ガリウスは正直に言った。「でも、呼んでみろ」
ソフィアは新芽に向かって、小さな声で言った。
「ありがとう」
新芽は、揺れなかった。
でも、かすかに──本当にかすかに──甘い香りがした。
名前のない、「ありがとう」に近い香りが。
ガリウスは黙っていた。
レインも黙っていた。
ソフィアが泣いているのを、二人は見なかったことにした。
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深夜。
全員が眠った後、ガリウスだけが起きていた。
月が西へ傾いていた。
リコの鉢の新芽が、月光の中にあった。細く、小さく、でも確かに、そこにあった。
「リコ」とガリウスは呼んだ。声に出さずに、口の形だけで。
新芽は、動かなかった。
動かなかったが、ガリウスは続けた。
「大変だったな」
ずっと前に、一度だけ言った言葉。リコが人の姿で、自分が別の世界から来たと打ち明けた夜に言った言葉。
あのとき、これ以上の言葉が出なかった。
今も、これ以上の言葉が出なかった。
でもガリウスには、それで十分だという確信があった。
理由は分からなかった。ただ、そう思った。
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翌朝。
新芽の隣に、もう一本、細い芽が出ていた。




