十六話「根、深く」
満月の夜が来た。
三人は神殿にいた。
夕方に潜り込み、礼拝客のふりで時間を潰し、閉門を確認係の衛兵が見回りに去った隙に台座の間へ入った。リコを抱えたレインの手が、震えていた。ガリウスは震えていなかったが、奥歯を噛んでいた。
台座の亀裂は、昼間より広がっていた。
尖塔の光は、窓の外で赤く脈打っていた。今夜は特に強い。部屋の中まで赤みが差していた。
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「リコ」ガリウスが言った。「準備はいいか」
返事がなかった。
三日間、リコは香りをほとんど出していなかった。眠っているのか起きているのか分からない時間が続いた。それでも根は動いていた。レインが土を確認するたびに、根の向きが少しずつ変わっていた。考えていた。ずっと、考えていた。
「リコ」もう一度。
かすかに、甘い香りがした。
16話の夜に出した、名前のない香り。「ありがとう」に近い、と思った香り。
ガリウスには今夜のそれが少し違って聞こえた。
「行ってくる」に、近かった。
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リコは根を伸ばした。
石畳の継ぎ目へ。床の下へ。深く、深く。
表層は相変わらず遮断されていた。押しつぶされるような圧力。封印石が五百年かけて広げた掌握の力。それを迂回して、もっと下へ。建物の基礎より下へ。地下水脈より下へ。
深層のネットワークに、根が触れた。
繋がった。
温かかった。
封印石に触れていない、古い流れ。五百年前から変わらず、ここにあった大地の魔素の川。リコはその中に根を沈め、流れに逆らわず、台座の真下へ向かった。
石の内側が見えてきた。
封印石の「核」がそこにあった。亀裂だらけの石の中心に、まだ変質していない部分が残っていた。そこに──。
(いた)
誰かがいた。
植物のような根ではなかった。人の形でもなかった。でもリコには分かった。これは生きている。長い間、ここに閉じ込められて、それでもまだ生きている。
リコは根を、そっとその存在に向けた。
相手が気づいた。震えが来た。いつもの、泣いているような震え。でも今夜は違う色があった。
驚き。
こんなところまで来るとは思っていなかった、という驚き。
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触れた瞬間、リコの中に何かが流れ込んできた。
映像ではなかった。感触だった。
花畑の土の感触。柔らかい、湿った、生きた土。
青い空の光の色。どこかの、知らない世界の青さ。
声が、遠くで歌っていた。言葉は分からない。でも明るい歌だった。
それだけだった。
名前も、顔も、何者かも分からなかった。
でもリコには分かった。
この存在は、自分と同じだ。
どこか別の世界から来て、この石の中に閉じ込められて、五百年ではなくても、ずっと長い間、ここにいた。
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リコは考えた。
「使い果たせばお前が終わる」と森の声は言った。
「使わなければあの者が終わる」とも言った。
「第三の道は──お前が」と言いかけて消えた。
続きは、リコが考えた。
全力を使わなくていい。外から押さえるのでもなく、亀裂を全部塞ぐのでもなく。
ただ、根を渡す。
この存在に、自分の根の一部を。
大地のネットワークへの接続を、分け与える。
閉じ込められた存在が外の流れに繋がれば、封印石の力に飲み込まれ続けることから、抜け出せるかもしれない。
完全に助けることはできないかもしれない。でも、今夜の満月をやり過ごすことができるかもしれない。
リコは知らなかった。正しいかどうか。
でも、やるしかなかった。
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根が、分かれた。
植物の根が枝分かれするのと同じように、リコの根の先端が二股になった。片方は自分のまま。もう片方を、石の中の存在に向けて、渡した。
繋いだ。
相手が、震えた。
今度は泣いているのではなかった。
水を与えられた植物が、葉を広げるように──何かが、広がった。石の内側で、封印石の核の亀裂に、別の力が流れ込んだ。大地のネットワークの温かい魔素が、リコを経由して、石の中の存在に届いた。
亀裂が、収縮した。
花びら一枚で一本だけ細くなったあの亀裂が、今度は全部、同時に。
台座の黒い筋が薄くなっていった。
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ガリウスが最初に気づいた。
台座の側面の文字が、見えてきた。
亀裂が引いていくにつれて、削れていた石の表面が戻っていった。文字が、完成していく。
ガリウスは読もうとした。古代語は読めないが、最後の部分だけなら形で判断できる。
「──」
一文字だけ読んだ。
その瞬間、台座が、鳴った。
低く、地の底から来るような音。建物全体が一瞬揺れた。レインが壁に手をついた。
台座の天面の窪みから、光が吹き出した。赤くない光だった。白い、まっすぐな光。尖塔の赤い光をかき消すような、静かな白さ。
台座の石が、砕けた。
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音が止んだ。
埃が舞っていた。
ガリウスとレインは、台座のあった場所を見た。
台座は崩れていた。石の破片が床に散らばっていた。その中心に、黒く変色した球形の石が、割れた状態で転がっていた。これが封印石の核だろうとレインは思った。割れた断面から、かすかに光が漏れていた。
二人はリコを見た。
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鉢の中で、花びらが落ちていた。
全部。
一枚、また一枚。音もなく、静かに。白い花びらが鉢の土の上に積もっていった。
茎だけが残った。
香りが、止まった。
「リコ」レインが呼んだ。
返事がなかった。
「リコ!」
茎は立っていた。折れていなかった。でも何も言わなかった。何も出さなかった。葉の色が、少しずつ、薄くなっていった。
ガリウスは鉢を取り上げた。両手で、抱えた。
何も言えなかった。
名前を呼ぶことさえ、できなかった。
そのとき、レインが声を出した。
「ガリウス」
震えた声だった。でも泣いてはいなかった。
「鉢の端」
ガリウスは見た。
鉢の縁の土、茎から離れた場所から──細い、爪の先ほどの、緑色の芽が一本、出ていた。
今夜、出たものだった。
ガリウスはレインを見た。レインは首を振った。まだ言えない、という顔だった。
ガリウスは頷いた。
鉢を、胸に抱えたまま、立っていた。
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台座の破片の中から、何かが動いた。
二人は同時に振り向いた。
割れた封印石の核の隣に、人の手があった。
細い、白い、女の手。
それがゆっくりと、床を探るように動いていた。




