十一話「薬師の師匠」
宿場町の朝は霧の中にあった。
ガリウスが厩の馬に水を与えているあいだ、レインはリコの鉢を抱えて市場へ出た。リコに朝の光を当てるためと、今夜の薬草の仕入れを兼ねて。
市場はまだ人が少なかった。野菜売りが荷を並べ、豆腐売りが声を上げ始めたばかり。その端に、薬草商の露店が一軒だけあった。
年老いた女が、一人で座っていた。
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レインは足を止めた。
「アルマ先生」
女は顔を上げた。七十に近い顔に刻まれた皺が、ゆっくりと動いた。
「……レイン」
アルマ=ヴォルトは、レインが薬師の基礎を学んだ師匠だった。王都リュミエールに弟子を持ち、辺境を旅しながら薬草を採取し続ける、この世界では珍しい独立した薬師。
三年ぶりだった。
「こんなところで何を」
「仕入れですよ。先生こそ」
「わたしも仕入れ」アルマは短く言った。「それと、様子見」
様子見、とレインは繰り返した。
「何の」
アルマは答える代わりに、レインの腕の中のリコを見た。
老いた目が、細くなった。
「……神樹の花」
声が低くなった。周囲に聞こえないほど。
「先生、何ですかそれ」
「古い名前だ」アルマは立ち上がった。骨の音がした。「人の多いところで話す内容じゃない。宿はどこだい」
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宿の一室に四人──三人と一鉢──が集まった。
アルマはリコの鉢を卓上に置き、しばらく無言で観察した。花弁の色、葉脈の走り方、土の質、根が鉢底からわずかに出ている様子。それからおもむろに、自分の右手をリコの葉に近づけた。
触れる直前で、止めた。
レインはその手首に気づいた。古い傷。蔦が食い込んだような、あるいは縄で縛られたような、複雑な形の痕が、手首の内側にあった。
「……先生、その傷は」
「昔の話だ」アルマは手を引いた。「それより、この花がどこで見つかったか話しな」
ガリウスが経緯を説明した。森の中、呪詛の魔石、魔素雨で一時的に人の姿に。アルマは途中で何度か目を閉じ、何度か小さく頷いた。口は挟まなかった。
すべて話し終えたとき、アルマは言った。
「運が悪い子たちだ」
「何で運が悪いんですか」
「巻き込まれるからだよ」
アルマは卓に肘をついた。
「知ってるか。五百年前、この大陸には一本の巨大な樹があった。神樹と呼ばれた。大地のネットワークそのものを束ねていた、根の中の根。それが枯れたとき、大陸の三分の一の魔素が一晩で消えた」
「……知らなかった」レインが言った。
「教科書には載らない話だからな。政治的に都合が悪い」アルマは皺だらけの指でリコの葉のそばを、触れずになぞった。「神樹が枯れた原因は、今でも議論がある。でも古い記録には一つの説がある──神樹は枯れたんじゃない。封じられた、と」
部屋が静かになった。
「封じられた」ガリウスが繰り返した。「誰に」
「それを知りたければ、王都へ行けばいい」アルマは初めて笑った。でもそれは、明るい笑いではなかった。「答えは神殿の台座の下に埋まってる。五百年かけて、ゆっくりと──目を覚ましつつある」
リコの花弁が、震えた。
全員がその動きを見た。
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レインは問いを重ねた。
「神樹の花、って何ですか。この子のことですよね」
「神樹の末裔、とでも言えばいいかな」アルマは静かに言った。「神樹の意志が、新しい器を求めて──どこか別の世界から魂を呼んだ、という伝承がある。器として相応しい魂を」
「器」ガリウスが眉を下げた。「それって」
「道具、ということだ」アルマは目を逸らさなかった。「この子がそれを望んだかどうかに関係なく」
沈黙。
ガリウスはリコを見た。リコは──動かなかった。香りも出なかった。ただ、花弁が少しだけ閉じていた。
「一つ、言っておく」アルマが続けた。「神樹の花は二度咲かない。一度その力を使い果たせば、あとには何も残らない。器は空になる」
レインの顔が青ざめた。
「それって」
「言った通りの意味だ」
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アルマが帰り際、レインに小さな革包みを渡した。
「必要になったとき、開けなさい。それまでは開けるな」
「何が入って──」
「開けるなと言った」
アルマは戸口で一度振り返り、リコを見た。
「……ごめんよ」
それは誰に向けた言葉か、レインには分からなかった。
扉が閉まった。
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三人と一鉢、宿の部屋に残された。
ガリウスはしばらく黙っていた。レインも黙っていた。
リコも、ずっと黙っていた。
(器)
その言葉を、リコは反芻していた。
否定できない。自分の根が、力が、この世界の何かと繋がっていることは感じていた。でもそれが「意図されたものだ」と言われると、話が変わる。
転生は、偶然ではなかったのか。
「あなたは何を愛していたか」と問いかけた声が、今になって別の意味を持つように感じた。
好きだと言ったから、植物にしたのではなく。
器に相応しいと判断したから、引き寄せたのか。
(わたしは、最初から──)
花弁が、一枚、卓に落ちた。
ガリウスが、黙ってそれを拾い上げた。
「リコ」
名前を呼んだだけだった。
でも、それだけで良かった。
リコは──ゆっくりと、残った花弁を開いた。
答えの出ない問いを抱えたまま、それでも光の方へ。
根は、まだここにある。
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夜。
レインが眠った後、ガリウスは窓の外を見ていた。
霧が深くなっていた。
街道沿いの木の影が、昨日より一本、少なかった。
彼は振り返り、暗がりの中でかすかに輝くリコの花弁を見た。月光でも受けているのか、白く光っていた。
「行かない方がいい、って言ったら、お前はどうする」
リコは答えなかった。
ガリウスはそれを、答えとして受け取った。
「……そうだよな」
彼は壁に背を預け、目を閉じた。
王都までの道は、もう引き返せないほど短い。




