十二話「門前の令」
王都リュミエールが見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
丘の上から眺める城壁は白く、遠目には清潔だった。
でも空の色は、やはりおかしかった。
リュミエールの上だけ、薄い。春の光が、あの城壁の内側だけ霞んでいるように見えた。ガリウスは手庇をして目を細めたが、気のせいだと思うことにした。
「でかいな」
「初めて来るんだっけ、ガリウスは」
「ああ」
「わたしは二回目」レインは荷車の上で足をぶらつかせた。「師匠に連れてきてもらったとき以来。五年くらい前かな」
リコの鉢は荷台の端に置いてあった。王都が見えているはずなのに、花弁は開いていなかった。朝から、ずっと。
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門は思ったより混んでいた。
商人の荷車が列を作り、衛兵が一台ずつ荷を確認している。ガリウスたちは歩き旅だったから列の脇に並んだが、それでも十人ほど前に詰まっていた。
待ちながら、ガリウスは城壁の石に手を触れた。
冷たかった。春の昼間なのに、日が当たっているのに、石が冷たかった。
よく見ると、石と石の継ぎ目に沿って細い筋が走っていた。黒い筋。水染みにしては色が暗く、カビにしては形が直線的だった。ガリウスは指でなぞった。
筋は、地面に向かって続いていた。
どこまで続いているのか、石畳に隠れて見えなかった。
「次」
衛兵に呼ばれて、ガリウスは手を離した。
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検問は若い衛兵が担当した。
名札にはハロとあった。二十歳前後、真面目そうな顔の青年。彼は手慣れた様子でガリウスの身分証を確認し、レインの薬師見習い証を確認し、荷物の目録を──
そこで止まった。
「これは」
ハロの目が、荷台のリコを見ていた。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、その表情が変わった。何かを見たような、何かを思い出したような顔。それはすぐに消えて、職務的な無表情に戻った。
「植物の持ち込みは、現在禁止されています」
「なんで」レインが聞いた。
「城内で原因不明の植物壊死が多発しており、外来種による感染拡大防止のため、先月より布告が出ています」
「感染って、植物の病気が感染するってこと?」
「詳細はわかりかねます。とにかく、お連れの植物はここに預けていただくか──」
「待て」ガリウスが前に出た。「その布告を見せてくれ」
ハロは少し迷ってから、懐から折りたたんだ布告文を出した。ガリウスはそれを受け取り、隅まで読んだ。
それからレインに渡した。
レインが読んで、顔を上げた。
「薬師が治療目的で携帯する薬草は対象外って書いてある」
「そうですが、これは薬草ではなく──」
「薬草です」レインは言い切った。「わたしは薬師見習いで、この植物は現在進行中の調合の材料です。名称は──」レインはガリウスに目配せした。「リコ草。希少種。見習い証は提示しました」
ハロは困ったような顔をした。
「リコ草というのは聞いたことが──」
「希少種だから聞いたことがないんです」
沈黙。
ハロはもう一度、リコを見た。
そのとき、リコは静かに一枚、花弁を開いた。一枚だけ、光を受けて。
ハロは息を飲んだ。
「……通ってください」
彼は手を引いた。
ガリウスが荷台を引き、レインがリコの鉢を抱えて、三人は門をくぐった。
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その瞬間。
リコは感じた。
土が変わった。
門の外の土は、弱っていたけれどまだ生きていた。魔素が枯れかけていたけれど、流れはあった。でも門をくぐった内側の土は違った。
遮断されている。
大地のネットワークが、ここだけ──ない。
正確には、ある。あるのだが、何かに塞がれている。フタをされているような。あるいは根こそぎ掌握されているような。リコが根の先端を伸ばしても、繋がれない。どこにも届かない。
(閉じてる)
外側から押さえつけているものがある。それは意図的だった。自然にこうなったのではない、そうリコには分かった。
そして同時に気づいた。
さっきまで感じていた「飢えの穴」が、聞こえなくなった。
底にいた「誰か」の気配も、消えた。
遮断されたから聞こえないのか、それとも──
(近すぎて、もう聞こえない?)
王都の石畳の下で、何かが待っていた。
リコは根を縮めた。本能的に。
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ガリウスは振り返って、門を確認した。
ハロがこちらを見ていた。目が合った。
ハロはすぐに視線を外したが、その一瞬の目に、ガリウスは奇妙なものを見た。
羨ましそうな、目だった。
ガリウスには意味がわからなかった。
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王都の中は、静かすぎた。
人はいる。往来はある。商店も開いている。でも何かが足りなかった。
レインが気づいた。
「花屋がない」
言われてみれば、そうだった。どの店の軒先にも、どの窓辺にも、植物がなかった。花籠も、鉢植えも、庭の草も。
あるのは石と木材と布だけの、無機質な街並み。
「全部枯れたのかな」レインは呟いた。「それとも、全部処分したのか」
ガリウスは答えなかった。
リコの鉢を抱えるレインの腕が、少し強く締まった。
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宿を取ったのは城壁から離れた区画の、目立たない安宿だった。
部屋に入って、レインはリコを窓辺に置こうとした。
「やめろ」ガリウスが言った。「外から見える」
「でも日光が」
「部屋の奥でも日は入る。端に置くな」
レインは何も言わずに従った。
ガリウスは窓から外を見た。通りに人が流れていた。普通の人々に見えた。でも見えているだけで、何も分からない。
「リコ」
呼んだ。
返事がなかった。
門をくぐってから、ずっと香りが止まっている。
「リコ、聞こえるか」
しばらくして。
焦げた土の匂い──11話でガリウスが初めて嗅いだ、恐怖の香り──がかすかに漂った。
ガリウスはカーテンを引いた。
「わかった」と言った。「怖い思いをさせて、すまない」
謝ることが正しいかも分からなかった。でも他に言葉が出なかった。
夜まで、三人は話さなかった。
リコも、香りを出さなかった。
王都の石畳の下で、何かが、静かに──呼吸をしていた。




