慈悲なき断罪の、甘い毒
楽しんでもらえると嬉しいです。
「菓子は、先に食ってていい」
その一言を残して、ガナッシュは背中を向けて部屋を出ていった。バタン、と閉まった扉の音が、私の心臓を嫌なリズムで叩く。机の上には、さっきまで二人で笑いながら広げていた焼き菓子の包み。まだ温かくて、甘いバターと蜂蜜の香りが部屋中に満ちているのに、彼が出ていった瞬間に、それはただの「冷めていく物体」に成り下がった。
椅子に座り、じっと動かない扉を見つめる。
一分、十分、一時間。
窓の外が夕暮れから深い闇に染まっていくほどに、私の心の中では、どろどろとした不安が鎌首をもたげていた。
(一人で菓子を食べて待ってろなんて、馬鹿にしないでよ)
結局、一口も手を付けないまま、私は宿の玄関先に立ち尽くしていた。
心配して声をかけてくれた宿の娘さんと、適当に言葉を交わす。彼女が何を話していたか、自分がどう笑って返したかなんて、これっぽっちも覚えていない。
私の意識は、ただ闇の向こうから帰ってくるはずの、たった一人の男にだけ向けられていた。
そうして、やっと帰ってきた彼は……私以外の女を連れていた。
カチリ、と絶望を封じ込めるような音が狭い部屋に響く。
鍵をかけたその指先が、怒りと恐怖で小刻みに震えているのが自分でもわかった。
「……何の真似だ、リア。そこをどけ。俺はまだ、飲み足りねぇんだよ」
ガナッシュの声はひどく濁り、足元もおぼつかない。なのに、その瞳だけがギラギラとした肉食獣の光を宿して私を射抜いている。
さっきまで、あの女の肩を抱いていたその腕。私を「真っ当な幸せ」なんていう、色のない場所へ突き飛ばそうとしたその口。不快な酒の匂いも、女の残り香も。何もかもが癪に障る。
「……嫌!兄貴を、あんな人のところへ行かせたりしない」
私は扉に背を預けたまま、溢れそうになる涙をこらえてガナッシュを睨みつけた。
市場で買った焼き菓子は、もう冷めきって、部屋に漂うバターの香りさえ惨めに感じられる。あんなに楽しみに待っていたのに。彼が帰ってくることだけを、一秒ずつ数えるようにして待っていたのに。
「あんな女に、だらしなく寄りかかって………私には『待ってろ』って言ったくせに」
「……お前には、もっとマシな道があるって言ってんだよ。俺みたいな、その場しのぎで生きてる汚れ仕事の男に、お前が付き合う必要なんてねぇんだ」
ガナッシュが吠えるように叫び、一歩、私との距離を詰めた。巨大な壁が迫ってくるような圧迫感。でも、私は一歩も引かなかった。
「いいか、リア。お前は男だ。いつか、どこかの真っ当な女と出会って、平和な家庭を持って……。俺のことなんて、若気の至りの苦い思い出として笑い飛ばして生きるんだ。それが……お前にとっての『正解』なんだよ!」
私の肩を掴んで力任せに横へ退かそうとする。
その拒絶が、私の最後の理性の手綱を切った。
「……勝手に決めないで!私の居場所は私が決める!」
私は退かされまいと、逆にガナッシュの胸元にしがみつき、全体重をかけて彼を押し返した。
酒で足元の覚束ない彼の巨体が、不意を突かれて後ろに数歩よろめく。私は止まらなかった。
今までどんな目で彼が私を見てきたか、離れるなって言ってたのに。今さら私を、誰かに明け渡すようなことことを言うなんて。
ガナッシュが、ぐらりと揺れてベッドに沈み込む。私はその隙を逃さず、逃げ場を塞ぐようにして彼の上に跨った。驚愕に目を見開くガナッシュの両手首を掴み、シーツに縫い付けるように全力で押しつける。
「な……リア、何を……!」
「兄貴の言う『正解』なんて、私にはゴミ屑と同じ! 兄貴が隣にいないなんて、絶対、嫌!なんで分からないの!?」
力では勝てないはずなのに、今の彼は、自分の言葉で私を傷つけた自覚があるのか、されるがままに腕を固められている。シーツに押し付けられた彼の大きな拳が、逃げ場を求めるようにシーツを引きちぎらんばかりに握りしめる。
「……置いていかないで。……ねえ、兄貴。私を、ひとりにしないで……」
怒りは、いつの間にかボロボロの懇願に変わっていた。
私はガナッシュの首筋、まだあの女の香水の匂いが残る場所に顔を埋め、それをかき消すように、血が滲むほどの力で深く、深く噛み締めた。
「――っ、……あ……っ!」
口の中に広がる、鉄のような熱い味。
これでいい。これで、ガナッシュは一生、この痛みを忘れない。
私を離そうとした罰をその骨身に刻み込んであげる。
「……もう、離れようとしないで。諦めて、死ぬまで、私の隣で苦しんでよ、兄貴……」
耳元で呪いのように囁くと、ガナッシュは観念したように目を閉じ、ただ私の熱を全身で受け止めていた。
囁いた言葉が、熱を帯びたまま耳元で溶けていく。
ガナッシュはもう、私を振り払おうとはしなかった。ただ、荒い息を吐きながら、シーツを握りしめていた拳の力をじわじわと抜いていく。
重なり合う二人の呼吸の音だけが、静かになった部屋に響いていた。
完全に抵抗がなくなるのがわかると、私は彼の横に倒れ込んだ。近くにいるだけで伝わるガナッシュの熱い体温が、胸の奥までゆっくりと染み込んでくる。
その熱に包まれていると、あれほど激しく燃えていた怒りも、しがみつくような不安も、どこか遠い出来事のように穏やかに沈んでいった。
「………リア………ごめんな」
ガナッシュが、かすれた声で謝った。
怒りも、拒絶も消えた、ひどく疲れ切ったような声。
「……寝てください。兄貴、飲みすぎです……」
「……ああ……、そうだな……」
ガナッシュは、もはや反論する気力も失ったようだった。
アルコールと、激しい感情のぶつかり合い。そして、戦いの疲労。それらすべてが、大きな彼の体を底なしの眠りへと引きずり込んでいるのがわかる。
彼の体が、ふっと力を失い、マットレスに深く沈み込んだ。
私は彼の首筋にそっと額を預け、その一定の早さで刻まれる穏やかな鼓動をすぐ近くで感じ続けた。
安心感と、心地よい疲労。
彼を独り占めできているという確信が、子守唄のように私の意識を闇へと誘っていく。
あんなに醜い独占欲をさらけ出したことも。明日、どんな顔をして彼と向き合えばいいのかという不安さえも。
今はただ、彼から伝わる確かな温もりの中へ溶けていった。
(……逃がさない。絶対に……)
私は最後の力を振り絞るようにして、彼の服の裾をぎゅっと握りしめた。
絡み合ったままの、重くて静かな沈黙。
テーブルの上の焼き菓子は、冷めきって、もう匂いもしない。
けれど、部屋に満ちているのは、さっきまでの絶望とは違う、どこか狂おしいほどに濃厚な「二人だけ」の気配だった。
やがて、私の視界も真っ暗に落ちていった。
明日、目を覚ました時、彼の首筋に残った鮮やかな痕が、二人だけの秘密の始まりを告げることも知らないまま。
二人の呼吸だけが、静かになった部屋で、ひとつに重なっていった。
【リアの精神ログ】
• 独占欲達成率:200%(首筋に刻印完了)
• 心理状態:狂おしい充足感。
• 今後の懸念:80%(完全にやり過ぎた。でも後悔はしてない。こんな事ならさっさとバレてもいいとは思い始めている)




