怪しいバイト
原作:
怪しいバイト(短編ミステリー)
初回投稿日:
2017年 10月9日
原作pt数:
394pt(2023年2月16日現在)
「日当10万円。誰にでもできる簡単なお仕事」
誰に聞かせるわけでもないのに、俺はラジオの朗読劇のようにゆっくりとポスターの文字を読み上げた。
東京都練馬区のとある住宅街。
駅から歩いて数分とはいえ、大型店舗はおろか、自宅の一部を改造した小料理屋の一つすらなく、外見を気にしない住宅が立ち並ぶだけである。
住むにはうってつけな閑静な場所だが、歩くにはあまりに退屈である。ましてや通勤ルートとして毎日通る身からすれば、歩きスマホでもしなければ耐えられない。
この時間にこの道を通る車はノロマなゴミ収集車くらいだろう、と高を括った俺は、いつも通り小さな画面に熱中していた。
最近ダウンロードしたばかりのオンライン・カードゲームには、飽きるまであと3日くらいはお世話になれるだろう。
すれ違う人に気付かずに肩をぶつけてもおかしくない状態だったのに、装飾のない、文字だけの一枚のポスターに目を引かれたのは不思議だった。
そのポスターは、節操なく貼られた保守革新様々な政党のポスターに紛れて、石壁に貼られていた。
誰に聞かせるわけでもないのに、俺は大きく舌打ちをした。
なんてことない。このポスターが目に飛び込んできたのは「不思議」でもなんでもない。
単に俺が「日当10万円」という文字に条件反射的に反応しただけである。
足を止めた自分の卑しさに辟易する。貧乏なことに自覚はあるが、まさか無意識のうちに行動をコントロールされてしまうほどだったとは。情けない。
今のご時世、1日働くだけで10万円ももらえるだなんてオイシイ話があるはずがない。
そんなこと、少し頭を働かせればすぐに分かる。
ましてや「誰にでもできる簡単な仕事」に誰が10万円を支払うというのか。市場原理に正面から反している。
「くだらない」
俺は再びスマホに目を戻し、歩を進めようとした。
しかし、何かが重たい足枷となった。
――これでいいのか。
このままポスターを無視して通り過ぎるということは、昨日までと変わらずに会社に出勤するということである。
石川啄木の「一握の砂」ではないが、このまま働き続けても良い暮らしができるわけではない。派遣社員という立場である以上、基本的に昇格昇給はなく、30代となった今でも給料は最低賃金すれすれだ。
「下川さん、私と結婚する気ないんだね」
2年前に脳裏に焼き付けられた言葉が再生される。
大学のサークルの後輩だった羽生世蘭とは、俺が3年生、世蘭が1年生の夏の頃から付き合っていた。
付き合った当初から遊びのつもりなど一切なく、このまま何事もなければ結婚するだろうと漠然と思っていた。結婚したいという気持ちもあった。子どもも欲しかった。しかし、想いとは別の、立ち行かぬ事情が俺を阻んだ。
経済的事情である。
4年生のときに就活で失敗したことを契機に、職は安定せず、生活に余裕ができたことはなかった。
世蘭の誕生日やクリスマスには奮発したが、それでもファミレスでステーキを注文することが精一杯だった。結婚して妻と子供を養う、など夢物語だった。少なくとも、俺に縁のある話には思えなかった。
世蘭が俺をフったのは、2人が付き合ってちょうど8年目の記念日だった。
結婚する気がないわけではなかった。ただ結婚する状況が整わなかっただけである。
しかし、三十路を手前にして、一目にして結婚に焦っているように見えた世蘭に、「待って」とは言えなかった。待てど暮らせど俺の経済状況が好転するとは思えない。すっかり情が移っているからこそ、世蘭には無責任なことは言えなかったのである。
――金だ。金が必要だ。
「日当10万円」という言葉に惹きつけられるのは、何も恥ずかしいことではない。むしろ、今のままのその日暮しの生活を惰性で続けることこそが恥ずかしいのではないか。
これから先、世蘭のような大切な人ができたとしても、このままではまた失ってしまう。
いつまでも派遣社員として働いていてはならない。転職のための軍資金としてまとまった金が必要だ。
このポスターはどう考えても怪しい。日当10万円の代償は内臓かもしれないし、それよりももっとヤバイものかもしれない。
しかし、そんなことを気にしてなどいられない。リスクを背負ってでも人生を変えなければならない局面にいるのだ。
俺はポスターを剥がすと、4つ折りにしてポーチの中にしまった。
…………
「秋葉原にある『ビートルズ』という店で、ヒトスジオオメイガのキーホルダーを買ってほしい」
電話口からの指示はこれだけだった。
正直言って拍子抜けだった。要するにはただの買い物である。命を張ることもなければ、法律に触れることもない。なんと割の良いバイトだろうか。
秋葉原には足繁く、というほどではないものの、何度も行ったことがある。
俺が住んでいる練馬からは電車で1時間弱。
交通費は支給されず、買い物にかかる費用も支給されないが、破格の日当を考えれば大した問題ではない。
「ヒトスジオオメイガ」が一体なんだかは分からないが、まさかそのキーホルダーが一つ数万円もするということはないだろう。
『ビートルズ』はJRの秋葉原駅と御徒町駅のちょうど中間くらいに位置していた。
お店の名前から判断して音楽関係の店か昆虫関係の店のどちらかだと思っていたが、店の外見からして、明らかに後者だった。
カブトムシやら蝶やらの標本が何段にも積み上がり、歩道を塞がんばかりである。店主は良かれと思って展示しているのだろうが、カミキリムシやハンミョウなど、興味のない人から見れば気色の悪いだけの虫の標本もあり、公害に近い。
店内に入った俺は、店主があえて店外に標本を「展示」しているわけでない可能性に気付く。標本は単に室内に入りきらないだけなのかもしれない。
店内は酸素が薄いと感じるくらいに標本で詰まっていた。
店の最深部で丸太のような椅子に腰掛けている店主は、俺が来店してもまるで関心がないようで、一瞥をくれることもなかった。店主がこの店をやっている目的は商品を売るためとは別にあるのかもしれない。
客は自分しかいない。店の一角に昆虫を琥珀で包んでキーホルダーに加工してある商品が並んでいるのを見つけた俺は、指示された「ヒトスジオオメイガ」を探した。
しかし、あまりに膨大なコレクションにすぐに途方がなくなり、結局店主に声をかけることにした。
「お兄さん、趣味が良いね」
「ヒトスジオオメイガ」の名前を告げると、心なしか店主の顔色が明るくなった気がした。
店主が手に取ったキーホルダーを見て、俺は合点がいった。とりたてて何の特徴もない白い蛾が、羽を閉じた状態で琥珀に閉じ込められている。
よほど昆虫マニアでないとこの蛾のキーホルダーを注文しないだろう。
店主は俺を昆虫通として認定してくれたようだ。
指示通りにヒトスジオオメイガのキーホルダーを買った俺は、帰宅してからポスターに書かれていた番号に架電した。キーホルダーを買うように指示をした声と同じ低い声が応対する。
報告を受けると、低い声は指示通りにキーホルダーを郵送するように求めた。そして、郵送先として、都心の一等地にあるビルの5階の住所を告げた。
キーホルダーを包装し、封筒に詰めながら、俺はぼんやりと考える。
一体依頼主は何を考えているのだろうか。ヒトスジオオメイガのキーホルダーが欲しいのならば、自分で買いに行けばよいではないか。依頼主の住所地は、俺が住んでいる場所よりも秋葉原に近い。なぜ高い日当を支払ってまで俺に買いに行かせたのか。
『ビートルズ』はたしかに敷居が高い。店に入りたくないという気持ちは分からなくない。
とはいえ、依頼主はヒトスジオオメイガのキーホルダーを欲しがったのである。昆虫が苦手ということはありえない。むしろ『ビートルズ』は店主同様、依頼主にとっても理想の空間なのではないか。
もしかしたら依頼主は多忙を極めていて、買い物に行く暇もないのかもしれない。そういえば、トップモデルの代わりに洋服を買う「ショッパー」をテーマにした映画を名画座で昔見たが、その類いか。
理由はともあれ、俺にとってはとにかくありがたい話である。
キーホルダーを郵送した2日後に通帳を確認すると、約束通り、預金残高が増えていた。
…………
「高円寺にある『マッドシティ』という店で、マチェットを買ってほしい」
キーホルダーを購入してから1週間後に来た次の指示は、またしても買い物の指示だった。
買い物の対象が名前を聞いただけでは一体何なのか想像できないところは前回の買い物と共通している。
前回、約束通り入金があったことから、依頼主に対する猜疑心は格段に減っていた。
俺は、迷わず、雨天さえも気にせず、外に出た。
いくら警戒心が薄れていたとはいえ、「マチェット」を事前に調べておくべきだったかもしれないと後悔したのは、店に着き、「マッドシティ」が刃物専門店で、「マチェット」が別名「ブッシュナイフ」と呼ばれている刃物の一種だと気付いてからだった。
マチェットの形状は調理用の包丁とはだいぶ違っている。刃体の長さは持ち手の二倍以上であり、なだらかな曲線は芸術的とも凶凶しいともいえる。
俺は逡巡する。
銃刀法という法律があるが、買うだけならば大丈夫なのだろうか。このお店が無事経営していることからすれば、購入するだけなら法には触れないということなのかもしれない。とはいえ、人前で持ち歩けばやはり問題になるだろう。
しかし、雨の中、電車を乗り継ぎここまで来たのである。ここで尻尾を巻いて逃げるというのもなんだか勿体ない。
それに、俺がやるべきことといえば、このマチェットを買って、家に持ち帰り、おそらくまた依頼主の住所に送るだけである。その間に警察官に職務質問される可能性はほぼない。
結果、俺はマチェットを購入した。
「ビートルズ」ほどではないとはいえ、「マッドシティ」も好事家向けのお店であることは間違いなく、客は俺一人しかいなかった。
家に帰って、依頼主に電話で報告すると、やはり次の指示は郵送だった。
もっとも、今回は郵送する前に一つ別の注文があった。
俺は購入したマチェットを箱から取り出し、厳重にされていた包装を解くと、フローリングの床に置く。そして、スマホのカメラを鈍色に輝く刃体に向けた。
「郵送する前に画像を送れ」
これが依頼主の注文だったのである。
意図は分からないが、考えても仕方あるまい。報酬をもらうためには依頼主の指示に素直に従う以外に道はないのである。
俺は念のため少しずつ角度を変えながら、10枚以上シャッターを切った。
郵送から2日後、やはり預金口座にはお金が振り込まれていた。
依頼主にご満足いただけたようだ。俺はホッと胸を撫で下ろした。
…………
送り主「下川弥一」から届いた小さな段ボール箱を開けると、マチェットの鋭い形状がビニールの包装越しでも分かった。
事前に写メで送られてきたものと同じ物である。
思わず笑みが溢れる。
「フフフ、バカめ」
下川という男はなんてバカなんだろう。
我ながら杜撰で、バカバカしいポスターだった。自分だったら間違いなくこんなあからさまなポスターには引っかからない。
しかし、あえてバカバカしいポスターにしたのにはちゃんとした理由があった。
バカを選別するためだ。今回の協力者は、知能レベルが低ければ低いほど望ましい。
私の出す指示に対して疑いを抱くことなく、最後まで遂行してくれるほどバカで鈍感な人間だけが引っかかるように、「日当10万円」の言葉を正面に躍らせた露骨なポスターにしたのである。
私の狙い通り、ポスターに引っかかって電話をしてきたのは正真正銘のバカだった。
私の指示に右から左に素直に従ってくれた。刃物という物騒な物を購入することについても、何ら警戒心を抱いていないようだ。
下川は自分のしていることの意味に全く気付いていないのだろう。10万円という日当に目が眩み、本当は自分がそれを遥かに上回る代償を払わされていることに気付く余地もないのだろう。実に鈍感であり、実にバカである。まさしく私が求めている人材だった。
私はビニール手袋をした両手でマチェットの包装を丁寧に解く。
とても良い。
この凶器を使えば、妻――目黒みゆうの息の根を確実に止めることができるだろう。
みゆうと出会った当時、私は世の中にこんな素晴らしい女性がいたものかと感動を覚えた。
器量が良く、気遣いができて優しい。男性を立てるということが自然にできており、家内とするにはこの上ない人材に思えた。
しかし、一回り年下の妻は入籍してから豹変した。
専業主婦でありながら家事を放棄し、毎日外で遊び回っていた。終電の時間になっても家に戻らないこともたびたびあった。
結局、交際していた頃にみゆうが私に尽くしていたのは、私に対する愛ゆえではなく、私の財産が目当てだったのだ。入籍し、相続権まで得たところで安心し、本性を現したということだろう。
みゆうは悪魔だ。私が離婚を切り出したら、慰謝料や財産分与の名目で俺の財産を剥ぎ取れるだけ剥ぎ取ろうとするに決まっている。
去年だったか、私の愛人である端野比奈が私の携帯に電話したときに、代わりにみゆうが出たことがあったという。みゆうは私の不倫の決定的な証拠を掴んだのである。
しかし、それでもみゆうはそのことを俺に問い質すことはなかった。
夫の不倫に気付きながら、見て見ぬ振りをすることに決めたのである。それはみゆうが私に一切の愛情を抱いていないことの何よりの証拠であった。
夫婦関係の修復に務めるのではなく、不倫の事実を「隠し玉」として、離婚の際の慰謝料請求など、さらなる金銭搾取の道具とすることを決めたということだから。
悪魔に私の人生を丸ごと持って行かれるわけにはいかない。
――みゆうを殺そう。私は決意した。
とはいえ、もちろん刑務所に入る気などはさらさらない。
みゆうを殺しながらも、その罪は私以外の誰かに被らせなければならない。
推理小説ではないので、たとえば密室などを作って、捜査機関に謎を提供し、何がなんだか分からなくさせる必要はない。
私の目的はただ一つ、私に嫌疑が及ばないことである。
そのためには、捜査機関を混乱させるのではなく、むしろ捜査機関に一直線の道筋を提示してあげた方が良い。私以外の誰かが犯人であることを示す明確な道筋を。
その「誰か」を募るために、私は件のポスターを作成した。
そして、ポスターに書かれた連絡先に電話をしてきた下川弥一の立候補を受け入れたのである。
計画は単純明快である。
私がどこか人気のない屋外にみゆうを呼び出す。
そして、みゆうを殺害する。
このとき、刺殺には下川に事前に購入させたマチェットを用いることが肝心である。
このマチェットは、殺人犯が下川であることを示唆してあまりあるものである。下川が写メを撮る際、マチェットには下川の指紋がべったりと付いているはずだから。
その上で、みゆうの死体の側には、マチェットに加え、ヒトスジオオメイガのキーホルダーを落としておく。これは「ビートルズ」オリジナルのキーホルダーであるため、購入者を辿ることによって確実に下川と結びつく。
商品の一つ一つに対して異様な愛着を持っている店主のことだから、ヒトスジオオメイガのキーホルダーを買った客のことを質問すれば、下川の特徴を即座に思い出してくれるだろう。
十分な「証拠」を残したのち、私が警察に通報する。
警察に話すべきストーリーはこうだ。
「妻とデートをしていたら、急に不審者が現れ、妻に襲いかかってきた。突然の出来事に気が動転しているうちに、妻は不審者に刃物で刺された。不審者はどこかに逃走していった」
「第一発見者をまず疑え」というテーゼは、確固たる「証拠」によってすぐに崩されるだろう。
凶器やキーホルダーといった犯人を示す物が現場に落ちている以上、警察はこれらについて調べ、あっという間に下川に到達する。
私は惨劇に巻き込まれた被害者遺族という限度でしか取り調べを受けないで済むだろう。
そして、逮捕された下川はバカだから、バカ正直に話すだろう。
ポスターの件、マチェットやキーホルダーは電話の指示に従って買った件、買った物を電話の指示に従って郵送した件。
しかし、そんなバカな弁明は警察には通用しない。
「他人の指示に従っただけで自分は知らない」というのは、覚せい剤密輸を否認する容疑者の常套句である。警察が耳を傾けるに値しない。
なお、もちろん、電話番号から足がつくことがないように、俺が下川に指示を出したり、写メを受信したりするために使った携帯は、ネットオークションで購入したものである。
下川には申し訳ないが、短い夢を見せてあげたのだから許して欲しい。
だいたい、あんな怪しいポスターに騙される方が悪いのだから自業自得だ。
「さてと」
私は大きく伸びをすると、携帯電話をポケットから取り出す。
最後の詰めを決して忘れてはならない。
下川に罪をなすりつけるために絶対にしなければならない大切なこと一つ残っている。
それは下川を犯行現場付近に呼び出すことである。
下川が「犯人」であるためには、みゆうが刺殺される時刻・場所に下川がいる必要がある。
仮に私がみゆうを刺したときに下川にアリバイがあれば、計画は大失敗。下川に罪をなすりつけることができなくなってしまう。下川を犯行現場に同席させるまではさすがにいかなくとも、少なくとも犯行現場付近の監視カメラに映ってもらう必要がある。
私は携帯電話に登録されている唯一の番号に架電する。待ってましたとばかりに、ワンコール目で下川が電話に出た。
「もしもし下川です」
「最後の指示だ。今日の19時頃、戸田駅北口に来い」
「分かりました」
最低限のやりとりで電話を切った私の口元からは再び笑みが溢れた。
…………
昼間に優雅にシャワーを浴びている最中のことだった。
風呂場からはインターホンの音は聞こえにくいのだが、あまりに繰り返し鳴るものだから、俺もさすがに気が付き、シャワーの放水と鼻歌を中断する。
先方を待たせることの無礼とラフな格好で応対することの無礼を天秤にかけた結果、Tシャツにチノパンという簡易な格好を選択した俺は、相変わらずインターホンを鳴らし続けていたドアの向こうの人と正対した。
視界に飛び込んできたのは、制服を着た3人の警察官だった。
俺の顔を見るやいなや、おそらくもっとも部下であろう短髪の警察官が警察手帳を示した。
「埼玉の戸田で起きた事件について任意同行をお願いしたいのですが」
――なんのことだろうか。全く身に覚えがない。
言葉遣いは丁寧である一方、警察官の口調には有無を言わせぬ雰囲気があった。
任意同行、ということは必ずしも自分が容疑者だと疑われているわけではないのだろう。
それに集合住宅の入り口で警察官とすったもんだを繰り広げることは利口ではない。
俺は、警察官の誘導に従い、パトカーの後部座席に乗り込んだ。
「…あの、戸田の事件ってどういう事件ですか」
交差点で信号待ちをしている最中、俺は隣に座っていた短髪の警察官に尋ねた。
少し思考を巡らせているうちに、もしかしたら例の「怪しいバイト」が事件と関連しているのかもしれないと不安になったからである。
しばしの沈黙の後、短髪の警察官は答えた。
「殺人事件です」
予想だにしない答えに言葉を失う。
「被害者は目黒みゆう。詳しくは署で聞きますので」
被害者の名前は聞いたことがない。流行りのグラビアアイドルにそのような名前の子がいたかもしれないが、おそらく勘違いだろう。
少なくとも俺のごく限られた交友関係の中にそのような名前の女性はいない。
自分が何やら大変な事件に巻き込まれつつあると寒気がすると同時に、自分はこの事件には関係がないという安心感があった。
俺が任意同行の対象となったのは、おそらく人違いか何かだろう。取調室で少し話したらすぐに解放してくれるに違いない。
取調室では、パトカーに同乗した警察官とは別の警察官が正面に座った。
ワニのような三白眼の警察官は、布施と名乗った。
「これに見覚えはあるか」
布施が見せてきたのは、例のキーホルダーだった。薄暗い部屋の中なので確認はしにくいが、琥珀の中に収まっているのはヒトスジオオメイガで間違いないだろう。
こういうときにはどのように答えるべきだろうか。とぼけてシラを切ったら殴られやしないだろうか。布施の鍛えられた太い腕を横目で見ながら、俺は素直に答えた。
「あります」
「8月24日、秋葉原にある『ビートルズ』という店でこれを買ったな?」
「……はい」
布施はうんうんと繰り返し頷くと、それ以上の追及をしてこなかった。
代わりに布施が次に取り出してきたのは、予想通りの物であった。
マチェットである。
ただし、俺が家で写メを撮ったときとは様子がだいぶ違う。流線型の刃体には血がべったりとこべりついていたのである。
「こっちには見覚えがあるか」
俺は正直に答える。
「あります。9月の……たしか2日に俺が買ったものです」
「そうか」
「ただ、俺が買ったときは、その……普通でした。綺麗な状態でした。どうして血が付いているのかは分かりません」
「お前が付けたんじゃないのか?」
「違います」
どういうわけか、布施の追及はそこで止まった。
戸田の殺人事件とやらの凶器がこのマチェットであるとすれば、マチェットに血が付いている事情を、購入者である俺が知っているかどうかというのは重要なことなのではないか。
警察の取り調べでは外堀を強引に埋めることは許されても、事件の核心部分については慎重にやらなければならないということかもしれないな、と俺はぼんやりと思う。
布施は話題を変えた。
「9月15日19時頃、どこにいた?」
かなりクローズドな質問である。9月15日19時頃が犯行日時ということかもしれない。
キーホルダーとマチェットがすでに証拠として押収され、俺が購入したことに勘づかれているということは、事件当日のアリバイについてもすでに裏が取られているかもしれない。
不用意なことを言って嘘がバレたら疑いが強まってしまうかもしれない。
冷房の効いている室内だというのに、身体中の汗腺が開いていることが分かる。
殺人の冤罪を被らせてしまえば人生が台無しになる。
冷静になれ。
えーっと……9月15日、9月15日……その日はどうしていたか。
……待てよ。
この日には確固としたアリバイがあるではないか。
俺は大きく息を吸う。
「その日は静岡で大学の同級生の結婚式に参加していました。出席者名簿を確認したら俺の名前があるはずです。筑紫光樹って」
布施は腑に落ちないと言わんばかりにうーんと唸った。
…………
通勤途中、ポスターを見た俺はどんな手段を使ってでもお金が欲しいと思った。
とはいえ、世の中にそんなオイシイ話があるはずはなく、何か罠があるに違いない。楽してお金を稼ぐためには何らかのリスクを負わなければならないとはいえども、リスクを軽減する方法があればそれに越したことはない。
俺がポスターを剥がし、4つ折りにしてポーチに入れたのは、妙案が見つかるまでの間、誰かに先を越されないためである。
アイデアが浮かんだのは、週末に家の布団で横になりながらポスターを眺めているときであった。
簡単な発想である。
このポスターを作った人間がお金を使って誰かを利用しているように、俺もお金を使って誰かを利用すればよいのである。
俺は、ポスターに細工をした。
テプラを用いて、ポスターの下部に記されていた電話番号を自分の携帯の番号に変更した。
さらに、日当の金額を3万円に変更した。残りの7万円については俺がマージンとして抜いてしまおうという算段である。
細工をしたポスターを元々あった場所から少し離れた場所の壁に貼っておくと、わずか2時間後に電話がかかってきた。
電話口の声は、筑紫光樹と名乗った。
こちらから聞いてもいないのに、大学を卒業して以来フリーターを続けていてお金に困っているという苦労話を延々としてきた。
変な奴だが悪い奴ではなさそうだ。
筑紫は何度も「本当に3万円ももらえるんですか」と確認した。元から7割もマージンで引かれているといえども、3万円は十分に破格である。
俺は「ああ」と肯定する。
正直なところ、元の依頼主から10万円が首尾よく支払われるかは分からない以上、はっきりと約束はできない。
とはいえ、ここで話を濁らせてしまえば、せっかく引っかかってくれた青年を利用することができなくなってしまう。
俺は「またこちらからかけ直す」と言って電話を切ると、元々ポスターに書いてあった番号に架電した。
聞こえてきたのは、先ほどまで話していた好青年とは打って変わって、どこか心の置けない気味の悪い声だった。
その声に名前を聞かれたとき、俺は一瞬逡巡したものの、正直に答えた。
「下川弥一」
依頼主が俺の名前を復唱する。
名前を教えたはいいものの、それ以降、俺が依頼主から名前で呼ばれることはなかった。
依頼主は俺のことを「お前」と呼び続けた。依頼主にとって俺は「道具」に過ぎず、名前などどうでもいいということかもしれない。
依頼主からの最初の指示は、昆虫のキーホルダーを買い、それを指定する住所に送ることだった。
俺は長くて頭に入ってこない昆虫の名前と、都心の一等地の住所をメモした。
そして、電話を切ると、メモを読み上げ、依頼主からの指示を右から左に筑紫に流した。
なお、郵送をする際の送り主の名前は、俺の名前――下川弥一を使うように指示をした。
筑紫は即座に行動に移したのだと思う。
筑紫に指示を与えた翌日には「シモカワヤイチ」名義の口座に10万円が振り込まれていた。俺はその翌日、そのうち3万円を筑紫の口座に振り替えた。
マチェットを買うように指示されたときも同様だった。
指示を右から左に流し、写メを転送しただけで7万円が手に入った。
なんて割の良いバイトだろうか。俺は筑紫から送られてきた写メを見て、初めてマチェットがナイフの一種であることに気付いた。
しかし、最後の指示だけは、右から左に流すわけにはいかなかった。
なぜなら、依頼主は俺に対して指定した日時場所に「来い」と告げたからである。
「来い」と呼ばれたということは、依頼主と会う可能性が高い。
俺の代わりに筑紫を行かせてしまえば、声でバレてしまう。それに筑紫はバカ正直な好青年だ。自分の名前を正直に言ってしまうかもしれない。
俺が直接依頼主に会うことはリスキーであるとは感じたが、過去2回の依頼は何ら危険は伴うものではなかったし、多額の報酬に味をしめた俺は戸田まで赴くことにした。
俺の覚悟とは裏腹に、約束の時間にJR戸田駅北口に着いたにもかかわらず、そこに依頼主はいなかった。
依頼主の番号に何度かけても電話に出ない。
40分後くらいにようやく依頼主から折り返しの電話が来たと思ったら、ただ一言「帰っていい」と言われただけだった。
何か緊急事態が起き、依頼主の計画が中断したのかもしれない。翌日以降、依頼主から報酬が支払われることはなかった。
電話が来ることもなかった。
その数日後、代わりに警察官から電話があった。
警察官は筑紫の名前を挙げ、筑紫に対して電話で指示を出していたかどうかについて俺に尋ねた。
疚しさゆえに俺は最初はとぼけていたものの、警察官の追及がしつこかったため、ついに正直に答えた。
すると、警察官は「ご協力ありがとうございました」と一言だけ告げ、電話を切った。
なんとなくだが、これ以上警察から電話が来ることはないような気がした。
「そろそろ、ちゃんと仕事を探さなきゃな」
今回報酬として手に入れた14万円と少しの貯金を使えば、次の仕事を探すまでくらいはやっていけるだろうと考えた俺は、派遣会社をやめた。
俺はぼやきながら、求人誌ではなく、その隣に落ちていたリモコンを拾い、中古で買ったテレビに電波を飛ばした。
「あっ」
思わず声が漏れる。ニュース番組のカメラが写した映像は、つい最近訪れた場所だ。JR戸田駅である。
入社したての20年前からほとんど顔の変わらない名物美人アナウンサーの読み上げ原稿によれば、戸田で殺人事件があったらしい。
しかも、自分が依頼主の指示に従って戸田駅に行ったちょうどその日である。
心臓が跳ねる。何か自分が関連しているかもしれない。
しかし、被害者である目黒みゆう、犯人である目黒健斗の名前と写真はいずれも見覚えのないものだった。
なんてことはない。自分はたまたま同じ日に同じ場所にいたというだけだという話である。
目黒健斗は地元では有名な資産家らしいのだが、不倫がバレて妻と仲違いをした挙句、河川敷で妻を殺してしまったらしい。
「金があっても幸せだとは限らないんだな……」
俺はそうぼやくと、伸びきったカップラーメンの麺をすすった。
執筆秘話:
もう5年以上前の作品ですね。
約1万字の作品を、わざわざ(漫画でいうところの「ネーム」のような)下書きまでして、一生懸命書いたのを覚えています。あれはたしか福島から東京へ向かう特急の中でした。
今だと1万字くらいだと隙間時間でサッと書けてしまうので、少なくとも執筆スピードだけは当時よりもだいぶ成長しているかもしれません。
この作品は、僕の中では「隠れた名作」的な扱いで、僕の代表作である「殺人遺伝子」とともにネット小説大賞の一次審査を突破したのも印象深いです。
下川弥一同様に、僕も通勤で歩いている時間が暇で暇で耐えられなくて、歩きながら小説のネタを探していたところ、壁に貼られた(政治関係の)ポスターを見て、この作品を着想しました。
下川弥一と筑紫光樹を入れ替える叙述トリックがメインですが、これは結果としてそうなったというだけで、書き始めるまでは叙述トリックを使うことを意識していませんでした。気付いたら叙述トリックっぽくなっていた、というのが正直なところです。
僕のミステリーの起源は東野圭吾ですので、他のなろう作家さんよりは叙述トリックだとか、多重視点はよく使うのかもしれません。ただ、最近は多重視点はあまり書かなくなってしまいました。たまには書いてみようかな……
ところで、道端に「貴婦人があなたを待っています。高貴な女性と会うだけでお金がもらえる気軽なバイト」みたいな怪しいポスターってありますよね?
あのポスターに書かれてる番号に電話したら何が起きるんですかね?
とても気になるので、電話したことある方がいましたら教えてください!