終章:悪魔はもういない
都内某所の喫茶店。
店に入りきょろきょろと視線を動かすと、窓際の席で男が手を上げた。
長い脚が特徴的な長身の男は、見慣れた性格の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「悪い、待たせた。講義が長引いて」
「コーヒー奢りな」
「馬鹿言うな。この前お前が遅刻したときは、僕は何も奢られてないぞ」
あの事件以来、潤と波川の仲は不思議と続いていた。性格もあまり似ていないし、馬が合うというわけではないのだが、潤にとって、嘘のない波川の態度は一緒にいて気が楽だった。
「あれから二ヶ月か……」
あの地獄のような連続殺人に巻き込まれた夏。
ほんの一時とはいえ、「先生」として接した少女の死。
その傷が癒えるのに、二ヶ月はまだ短い。
悪戯っぽい顔でこちらを揶揄ってくる少女の涼やかな声が、たまに秋めいてきた風の中に聞こえてくるようで、それを感じるたびに胸が締め付けられた。
「涼くんと雄介くんから葉書が来たよ。あの一家も、あの悪夢を乗り越えようとしているみたいだ。涼くんも、母親との血の繋がりのことは気にしてないって。これからは三人で新郷家を盛り立てていきますってさ」
「は? 俺のところには葉書なんぞ来なかったぞ」
「だってお前、住所教えてなかったじゃん……。連絡とか来ても面倒だとか言って」
ドライな男である。
もうあの家には、新郷匡の血を引く人間はいない。
朝子が逮捕されていなくなったあの家に、もうシンメトリーはない。
悪魔がいなくなったあの家をこれから動かしていくのは、人間だ。
「で? 珍しく相談があるとか言っていたが、どんな風の吹きまわしだよ?」
新郷家の今後に思いを馳せている潤に、波川は面白そうな顔を向けた。
いつも余裕綽々なこの男を見ていると、時折無性に苛つくが、それでも有能なのは確かだ。
「僕の通っている大学で、ちょっと事件があって。助けてほしい」
話に興味を持ったらしい波川の瞳が怜悧に細められるのを見ながら、潤はアイスコーヒーを飲み干した。
幸い、まだまだ時間はある。
新しい事件の話を、始めよう。




