9 店の不思議
「六時に空き地、ねえ……」
ぽつりとつぶやいた言葉は、砂嵐によってかき消され、夕焼け色の光が蛍を照らした。
空き地という事は、雑貨店の敷地の事で間違いないはずだ。そう思って、雪月に会ったその日の六時、急いで目的地に向かうと、誰も居なかった。
もしかして場所を間違えたのだろうか、と一瞬だけ不安が過ったが、まさかそんなはずもない。彼女達と共通して知っているのは、あの店が立っているこの場所だけなのだ。
時間通りに来たと言うのに、雪月も美代も居ない。気付けば肩を落としてため息をついていた。しょうがないので、空き地の壁に背を預けて、住宅街を見つめる。しかし、視界の端でちらちらと映る異物感に、たまらず口を開いた。
「……何であんたは俺に取り憑いてるんだ?」
真正面に立った悪霊紛いの彼女は、ペンダントのおかげで機嫌が良さそうだ。本当にあの日、自分に襲いかかって来た人物とは思えないほど、穏やかで、逆にそれが不安にさせる。
『だって、あなただから』
相変わらず答えになっていない答えを聞いて、そうか、と苦笑する。いくら見た目が普通でも、話す事は以前と変わらない。
ポケットに入っている小瓶を取り出すと、真正面に居る彼女に見せるように掲げた。二日前、記念だとか言って美代から貰った、霊を判断する粉が入った瓶だ。
不定期に色は変化するものの、少しずつ青色が濃くなっているのが分かる。そしてその色を見てから、彼女のにこにこと笑った顔を見ると、狂気染みているように見えるから不思議だ。
待つ事十分以上、そろそろイライラしてきて、帰ろうかと携帯を出した頃、ようやく遠くの方で声がした。
「おーい、蛍くーん!」
小走りで向かってくるのは、大板だ。スーツ姿で現れた彼に、軽く会釈をすると、手をあげる。
ようやく目の前までやってきた大板は、膝を手でついて、息を荒げていた。
「ご、ごめんね、遅くなって……」
「いや、大丈夫です」
これが美代だったら、文句の一つでも言ってやろうかと思っていたが、どうにも彼だと言いづらい。素直に謝って来た事だし、見逃してやろうとそう言うと、今度は背後から声がした。
「遅い、大板!アンタはいつもいつも……!」
「ごめんね、美代さん」
「煩い遅刻魔!謝るなら反省しなッ!」
「って、何処から現れたんですか!」
美代が近づいてくる音なんて、聞こえなかった。思わず叫んでいると、美代は、はあ?と顔を歪める。まるで最初から居たとでも言わんばかりだ。
「そりゃ、店の中に決まってんじゃん。アンタ馬鹿?」
「馬鹿なのはあなたですよ!今店はどこにもないでしょうが!」
空き地を指さして、二度見する。そこには確かに何もなく、まっさらな砂が吹いている。雑貨店は、夜にしかないのではなかったか。
だが、その考えが覆されるかのように、何もない所から、雪月が姿を現す。ぞろぞろと、背後に霊達を控えて、至極当たり前のように。その姿は百鬼夜行のミニ版だった。
「……え」
あんぐりと口を開けて驚いていると、美代が隣で可笑しそうに笑いをこらえている。
「こら、美代さん。何も知らない蛍くんを笑ってはダメだよ」
大板はやんわりと注意するが、それでも彼女のニヤけ顔は治まらない。それどころか、馬鹿にするように、手のひらで口元を隠して、視線で攻撃してくる。
「ごめんね、蛍くん。この店はさ、昼間は姿を見せないだけで、鍵があれば見えるし入れるんだ」
「鍵?そんなものが?」
「そういうこと。こんなクソ暑い中、外でこの男待ってたら汗だくじゃないか。馬鹿らしい」
「そんな状況で待ってた俺はどうするんですか……」
顔を引くつかせながらそう言うと、美代は知らん顔を決める。雪月は暑さに弱いのか、頭を抑えながら壁に寄りかかっている。そのくせ、汗は一切かいていないのだから、本当に良い御身分だと思う。
何処から取り出したのか、美代が自慢げに掲げている不思議な形状の鍵を見ながら、雑貨店について、整理してみる。気づけば、自然とその考えが口に出ていた。
「朝から昼にかけては、空き地で、生死関係なく入れない。だけど、鍵があれば中に入れる。夜は開店しているから、霊達も入れる。……つくづく変な店ですね」
「そうだね、ここまで不思議な場所はそうそうないんじゃないかな。補足するなら、営業中に入れる生者のお客様は、霊感がある人だけだよ。それ以外の人は、昼間同様、空き地にしか見えないんだ」
大板の柔らかい口調と共に、今まで疑問に感じていた事を説明され、なるほど、と頷いた。道理で都市伝説になるわけだ。
「お話は、終わりましたか……?」
少しだけ辛そうに、横から雪月がそう問いかけてきた。頷こうとして、見えない事に気づき、うん、と声を出しておく。やはり周りの霊達が睨んできているような気がするが、そこは無視しておいた。
「じゃあ、そろそろ雑談は終わりにして、本題に入ろうか」
「暑い……」
大板がハンカチで汗をぬぐうと同時に、美代が苛立たしげに呟く。確かに、このままぐだぐだと話をしていたら、暑さで頭がやられてしまいそうだ。
それに、早く背後の霊を何とかしてほしい。
「それじゃ、雪月。任せたよ」
その言葉に、雪月は頷くと、きょろきょろと辺りを見回す。しかし、何を探しているのか分からない。
気づけば大板と美代は、空き地の中に入って遠巻きにこちらを見ている。どうしてそんなに離れているのか。これから何をする気なのか。思わず口を開きそうになった所を、濁った声が遮った。
『あの女、こいつの背後にしか居たくないみたいだ。だから、こっち向いて』
「……こっち?」
いつも先導して雪月を引っ張っている女性の霊が、彼女の肩に触れ、正面を向けさせる。おかげで、雪月と向かい合う形になり、彼女の背後に居る女性の霊がしっかりと視える形になっている。
振り向けば当然悪霊が居る。霊に前後を囲まれるというのは、案外ヒヤッとするものなのだな。片隅でそんな事を考えながら、目の前の雪月を見つめる。
伏せられた瞼に生えたまつ毛は長い。肌も白いし、口元も薄い。服装こそ地味ではあるが、よくよく見れば、隠れ美人なのは間違いない。今まで幾度となく感じたが、きっと美代のインパクトが強すぎで気づかなかったのだろう。
「……で、いつまでこうしていればいいの?」
何も話す事もなく、向かい合ったまま。大板と美代は遠くから見ているだけ。さすがに待ちくたびれた。
すると、それに答えたのは、雪月や美代ではなく、雪月の背後に居る霊だった。
『黙って。静かにしていて』
「……分かった」
何故か物凄く不機嫌そうに言われ、頷くしかない。彼女と話した記憶もないのに、一方的に嫌われている気がする。後で聞いてみよう、と心に決めると、雪月の様子がおかしい事に気づく。
眉間にしわを寄せ、唇をこれでもかというほど結んで、押し黙っている。その様子は、何かに耐えているようにも見えるし、力を込めているようにも見える。はて、どうしたのだろう。
黙っていろ、と言われたばかりなのについ口を開きそうになる。しかし、その何気ない行動も、目の前を見ていたら、阻まれる事になった。
「……っ」
無意識に息を呑んでいた。日常的にやっている、普通の事なのに、普通に見えない。どうしてだろう。彼女がそうするだけで、何か変な気持ちになる。
そう、それは、盲目である雪月が、瞼を開いた瞬間だった。
ゆっくりと瞳が現れる。濃い黒をした瞳は、焦点を合わせる事なく、自分の後ろを見ている。そう、決して視線は合わない。だけど、何故だろう。
見透かされている気がする。
見えないはずの雪月は、何かを見るように視線を彷徨わせる。そして、徐々に苦悶の声を上げ始める。
「おい、どうした……!」
黙っていろと言われても、こればかりは黙っていられない。雪月がついにこらえ切れなくなって、膝をついてしまったのだ。
しかし、開いた目は、ずっと自分の後ろを見たまま。どういう事だ。彼女には何も見えないんではないのか。体調が悪そうなのは、暑さにやられたのではないのか。
気づけばしゃがんで雪月の肩を掴んでいた。
『ちょっと、離れてよ!』
背後の霊が、間に入り込もうとして手に触れた。それを振り払う。もう一度肩に触れる。だが、その瞬間、反射的に手を離してしまった。何かが頭の中に流れ込んできたのだ。
それは、自分の記憶でもない、知らない人の思い出のようだった。
――黒を基調とした、シックな部屋で、二人の男女が話し合っている。ベッドの隣で、あぐらをかいて座っている男性は、気難しそうな雰囲気を出していた。なのに、顔が見えない。顔の部分だけがやけに雲って、分からないのだ。
向かいあう女性が立ったまま悲しそうな顔をして、男性に何かを言っている。男性は首を振って拒否するかのように背を向けた。
その背中を、寂しげに見た女性は、それでも何とか声を振り絞る。壁に手をついて、切羽詰まったように、言うのだ。最後の勇気を、そして、想いを。
私は、貴方を許さない。絶対に、後悔させてあげるわ。
何処かで聞いた事のあるような声が、脳内で響く。知らぬ間に頭を抱えて、雪月同様に膝をついていた。
何なんだ、今のは。
一体、この映像は、何なのだ。何故、こんなに胸が苦しい?何故、顔も知らない、見えない男に憤りを感じる?何故、自分はこの男に振り向いてもらいたいと考えている?
フラッシュバックしたその記憶を、どうにも出来ずにもやもやとさせたまま、雪月を見る。彼女は、既に目を閉じていて、苦悶の表情を未だに浮かべていた。
その様子を、心配そうに背後の霊が見つめている。そんなに心配なら、何故雪月が苦しそうだった時に手を掴んだ?
目の前の霊を睨んでいると、その視線に気づいたのか、彼女も睨み返してきた。
だが、それも長くは続かない。
空き地で傍観していた二人が、雪月をゆっくりと立たせたのだ。
「雪月、ちょっと顔あげて、そうそう」
美代に言われるがままに雪月は顔をあげる。すると、美代が躊躇いもなく額に手を触れさせ、自分の額の温度と比べた。
「……少し、熱があるね。しばらく休みな」
「はい……」
二人の会話を聞きながら、雪月の周りの霊達は、ざわざわと動き出す。大丈夫なのか、今回はヤバいのか、雪月、無理するな……。
三人の霊達が口々に問いかけ、それを雪月が無理に笑って頷く。美代はため息をついて、雪月の腕を肩に回す。そして、空き地に、店の中に入ろうと進みだした。
しかし、それを黙って見ていられない。衝動に任せたまま、口を開けば、背中を向けた美代が、顔だけで振り返った。
「今のは、一体何をしたんですか」
「アンタ、分からない事はすぐに聞かなきゃダメなのかい?少しは自分で考えて、答えを出してごらんよ」
からかうように言った美代は、それでも雪月の体調の悪さに、焦っているのだろう。少しばかり早口だった。
「誤魔化さないでください。俺は、柊に触れた瞬間、自分のものじゃない記憶が流れ込んできました。どういう事ですか。説明してください」
美代は目を見開いて、大板と顔を見合わせた。すると、彼も困った顔をしている。しばらく無言で意思疎通した二人は、同時にポケットから鍵を取り出す。
それは、先ほど店の鍵だと言っていた不思議な形状のものだった。
それを大板は手渡してくる。思わず受け取ると、あまりの軽さに驚いた。
柄の部分は蝶で、先端は鍵とは思えないほどに渦を巻いた、飴のような形だ。色こそ黄金色をしているものの、それこそ本当に飴ではないかと疑うほどに、軽い。鉄特有の重さはなく、プラスチックのような質感に、しばらく呆然としてしまった。
「まあ、詳しい説明は後だね。雪月が辛そうだから、店の中で話そう」
つまり、この鍵を使って、店に入れと言う事か。
そうして空き地を見ると、まっさらな砂は何処も吹いておらず、一軒の清潔感漂う雑貨店が建っていた。
なるほど、鍵を持っていれば、本当に誰でも入る事は可能なのか。
へえ、と感心していると、大板は既に店の中に入っており、美代は雪月をゆっくりと歩かせている。その背後で心配そうにうろうろしている霊達は、美代にうざい、と言われてしゅんとしていた。
そして、店の扉を開きかけた時、美代はふと立ち止まって再び振り返った。
「一つだけ先に教えておいてあげようか。雪月はね、盲目ではあるけど、何も見えない訳じゃないんだよ」
「……はあ?」
一体何を言っているのだ。頭がおかしいのではないのか。そういう意味を込めて返せば、彼女はまるで自分の事のように得意げにこう言うのだ。
「雪月は、物が見えない代わりに、一つだけ見えるものがあるんだよ」