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屈辱

 初秋の朝の陽光に湖面が照り輝いている。

 その穏やかに寄せる波打ち際で五助が沖に向かって舟を押していた。

 

 イツキは五助に駆け寄った。


「五助。今日は長浜か?」

「はい。米や麦、豆、青物などを求めに」


 琵琶湖は越前と京を結ぶ廻船が頻繁に通り、爺が懇意にしている船の主が時折竹生島に寄ってくれることがあって、生活に必要なものはそのときに求めることができた。

 しかし、付近の情勢や積み荷、天候などの都合上、廻船が来るのは不定期だ。

 

 年に数回長浜の城から寄進があるが、こちらもいつ来るかは分からず、宝厳寺の方から催促するわけにもいかない。

 参詣客が青物などを手土産に持ってきてくれることもあるが、それは量がしれている。


 従って、五助が長浜に調達しに出ることは珍しいことではなかった。


「私も同行して良いか?」


 イツキは五助に訊ねつつも答えを待たずに舟に乗り込んだ。


「イツキ様。舟は危のうございます」

「今日のような波の穏やかな日に何が危ないのか。それに舟に何かあったら空を飛ぶから平気じゃ」


 早く出せ、とイツキは催促する。


「和尚様はご存じで?」

「知っておる。知っておる」


 イツキは笑って答えたが、爺には言ってはいない。

 しかし、タキがいるので今はイツキが島を離れることができる。

 一人で離れるのは怖い気もするが、長浜に行きなれている五助が一緒にいれば安心だ。

 それに、実際にタキの出産に際し、何かと必要なものがある。

 それを買い求めるのを男の五助に任せるのは難しい。

 となれば、イツキが行くしかないのだ。

 爺にとってタキの安産は今最も大切なこと。

 イツキが五助に同行することを許さないはずがない。


「承知いたしました」


 五助はググッと舟を湖に押し込み、慣れた様子で舟に飛び乗った。


 波は静かで舟の上下の動きも激しくない。

 少しずつ陽が高くなるにつれ暑くなりそうだったが、水の上を吹きすぎる風は少し冷気を帯びていて頬に心地良い。

 五助が櫓を漕ぐぎぃぎぃという音と緩やかな舟の揺れがイツキを眠りに誘いそうだった。


「イツキ様。イツキ様」


 名を呼ばれ肩を叩かれてイツキは目を開いた。

 舟の上で舟を漕いでいたようだ。

 イツキは寝ぼけ眼をこすり「どうした?」と五助を振り仰いだ。


 五助は舟の進路に向かって指差した。


「もしや、あれは、お城からの御使者でしょうか?」


 城と言われてイツキの目が覚めた。

 確かに波間に船が見える。

 長浜から出る廻船は北の越前か南の京へ向かう。

 しかし、今イツキと五助が見ている船はどんどん西方のこちらに近づいてくる。


 イツキはサッと鷹に変化して目を凝らした。


 大きな船だ。

 五三の桐や瓢箪の紋、装飾が施されている。

 間違いない。

 城からの使者だ。

 あるいは秀吉本人が乗っているかもしれない。


 イツキは変化を解くと五助に引き返すよう言った。

 タキとイツキは参詣客や城からの使者からはいつも姿を隠している。

 五助がいなければ使者に茶を出すことも難しい。


「先に戻って爺に伝える」


 イツキは再び鷹に変化すると、寺に向かって飛び上がった。


 宝厳寺の門前に降り立ち、駆け入ると爺と天海、そしてタキが本堂の掃除をしていた。


「爺。長浜から船が来る。五三の桐の紋を付けた船だ」


 イツキの言葉に三人が一瞬硬直する。


 秀満が髷を落として天海と名乗るようになってからまだ十日。

 こんなにも早くに長浜から船が来るとは誰も思いもよらなかった。

 秀吉は明智の残党狩りを続けているだろう。

 いくら天海が剃髪し法衣を着ていても、その顔を見て正体を看破しないとは限らない。


 タキは一人顔を紅潮させていた。


「こうなったら好機と捉えようではないか。浅井家にとっても明智家にとっても仇である秀吉を誅殺する絶好の機会じゃ」


 一人、事を急いているように見えるタキにイツキは不安を覚えた。

 秀吉を討ちたい気持ちは分かる。

 しかし、タキは身重。

 今は仇討ちより、丈夫な赤子を産むことだけに専念してもらいたい。


「姉上。申し訳ございません。気が急いて船に秀吉が乗っていることを確認しておりません」

「イツキ。そこが肝心ではないか」

「申し訳ございません」


 イツキは重ねて詫びた。

 そして助けを求めるように爺に視線を送った。


「タキ様。徒に事を荒立てるのは、いかがなものかと思いまする」


 イツキの気持ちを察してか、爺がタキを諌める。


「徒とは何じゃ。親の仇を討つは子の責務。この機会を逃せば、いつ秀吉を弑せるか」

「タキ様。お気持ちは分かりますが、目下の情勢をご覧ください。羽柴様は北近江の領主。幾らタキ様とイツキ様が弁財天の末裔で異能の持ち主であられても、長浜の大軍に抗うことは不可能。ここは自嘲してくださりませ」

「長浜に乗り込んで大軍と戦うとは言っておらぬ。秀吉が向こうからやってくるのだ。その首を取ることなど容易いこと」

「姉上。仰ることは分かりますが、姉上のお腹には御子がおります。せっかく授かった命。秀吉を討つのは御子が生まれてからでも遅くはありますまい」

「イツキ。お前まで何を言う。秀吉に目にものを見せるのは遺された我らの責務ではないか。それに秀吉がここに来て、殿の御姿を見た時に、正体を看破されぬとも限らん。そうなれば殿の御命まで危ない。殿の身に何かあっては悔やんでも悔やみきれぬ」

「タキ様。万が一、天海殿が明智秀満様と気付かれても、この霊験あらたかな宝厳寺で羽柴様が手荒な真似はされますまい」

「それは甘いぞ、爺。秀吉は狡猾な男。油断していると骨までねぶられる」

「おそれながら」


 天海が胆の据わったような表情で声を発した。「北近江は羽柴様の領地なれば、遅かれ早かれこの日がやってくることを覚悟しておりました。ここに置いていただく以上、羽柴様のお許しを賜らねばなりませぬ。私は逃げも隠れも致しませぬ。今日、住職様の下座にて羽柴様に一言ご挨拶申し上げたく存じます」


 爺は天海の覚悟に大きく頷いた。


 天海はタキの顔を正面に見た。

 二人だけで心の中でやり取りをしているのだろう。

 少しずつタキの顔から険が消えていく。

 最後は「承知しました」と不承不承矛を収めたようだ。 


 間もなく、五助が戻ってきた。

 

 そして、ほぼ時を同じくして長浜からの船が到着した。

 

 からからと能天気な笑い声が聞こえてくる。

 秀吉自らやってきたようだった。


 タキとイツキは鼠に変化し、本堂の物陰で息を殺してその時を待った。

 

 爺と天海も床に手をつき顔を伏せ置物のように一寸も動かない。


 現れた秀吉は大股で歩いてきて、鷹揚に「御住職。無沙汰であった」と声を掛けどっかりと腰を下ろした。


 供回りの数人は本堂の外で待機する。

 どうやら長居をするつもりはないらしい。


「羽柴様におかれましては、ご機嫌……」

「よいよい。堅苦しい挨拶は、わしは好かん。それよりも御住職。こちらはどなたでござるかな?」


 秀吉の問いかけに、イツキは生唾を飲み込んだ。

 秀吉は飾り気なく単刀直入。

 一気にイツキの心臓が縮み上がる。


 天海が明智秀満と分かれば秀吉は即刻生け捕りにしようとするだろう。

 そして爺も明智家の人間を匿ったとして責められる。

 そうなればタキが黙ってはいまい。

 既にタキの目は緊張と怒りで血走っている。

 秀吉の供回りは少ないが、こちらも無傷とはいくまい。

 そして、やがて長浜から大軍がやってくる。

 タキとイツキは一族の掟に従いこの島を死守せねばならない。

 秀吉の軍勢を向こうに回してどうなるものか。

 イツキはこの期に及んで気持ちが尻込みするのを感じた。


「こちらに控えておりますは、天海と申す私の弟子。修行のため諸国を行脚して久しく留守にしておりましたが、一月ほど前にこちらへ戻ってきた次第。お見知りおきを」


 さすがに爺は落ち着いた物腰だった。

 起こした顔の色を全く変えず、秀吉に弟子を紹介する。


「お初にお目にかかります。天海にござりまする。此度はご尊顔を拝謁する栄誉を賜り、恐悦至極に存じ上げまする」


 天海は床に手をついた姿勢のまま名乗った。

 臆している風は微塵もなかった。

 それどころか爺の読経で磨かれたものとは違う、戦場で鍛え上げた声が辺りに朗々と響き渡り、寺の本堂にはそぐわない感じがした。


 秀吉が片眉を上げ、怪訝な表情を浮かべ、天海の顔を覗き込むような視線を見せる。


「ほう。諸国とはどのあたりかの?」

「最近は東国におりました。関八州から甲州、遠州、三州、尾州を寄り道しながら近江へ戻ってきた次第」

「一月前と言えば逆賊明智光秀がお館様を殺め、安土城を乗っ取った時分。近江は大混乱であったろう。うちの女連中も美濃へ隠れておったのじゃ。そなた、よく竹生島に渡れたのう」


 秀吉は試すような口ぶりで問いかけてきた。

 明らかに天海から何か怪しいにおいを嗅ぎ取ったようだ。


 まずい。

 イツキはぎりりと歯を噛みしめた。


「長浜は混乱しておりましたが、木之本辺りまで行きますと平穏にございました。そちらで舟を借りて渡ってまいりました」

「なるほど。それは大儀でござったな。して、世間の目は今回の明智の顛末をどのように見ておるであろうか」

「やむにやまれぬことがあったのだろうと。戦の勝ち負けは時の運。最後は運がなかったと」

「運か。確かに明智は運もなかったが、知略才覚もなかったな。わしに負けたのはその差であろう。運で片づけようとするのは戦を知らぬ素人の考え。明智は負けるべくして負けたのじゃ」


 秀吉はわざとなのか明智家を愚弄するようなことを言う。


 天海は姿勢は変えないが、その顔に少し朱が差し、四肢が力むのが見えた。

 秀吉の言葉に怒り憎しみが湧いているのだろう。


「仰せの通りでございます。羽柴様は知略にも才覚にも長けていらっしゃいますれば」


 天海はさらに頭を低くして秀吉を持ち上げた。


 屈辱であろう。

 武士の矜持を捨て秀吉にへつらう天海の姿にイツキの目には熱いものが込み上げてきた。


「違う。違う」


 秀吉は笑って顔の前で手を横に振った。「わしは猿と呼ばれる男。愛嬌を振りまいて人に媚びることはできるが、知恵はない。だから知恵のあるものを好んで家臣にしておる。我が帷幄には優れた軍師がおる。此度の山崎の合戦で勝てたのも、その軍師のおかげじゃ。それに御住職にも引き合わせたことのある石田佐吉はなかなかの知恵者。また、病弱ではあるが、大谷平馬という小姓も賢い男じゃ。知略は腕っぷしよりも強いからのう」


 秀吉は、「のう、御住職」と漸く天海から爺に話を向けた。


 爺は「まことに」と笑いを浮かべた。

 この場面に至っても爺の顔に強張りはない。


 イツキは爺の度量の広さに尊敬の念を覚えた。


「さて、御住職。今日参ったのは他でもない。実は、此度、織田家の跡目や領地について話し合いをしてのう。それでわしは長浜を柴田様に譲ることになってしもうた。よって、暇を告げに来たのじゃ」


 秀吉が北近江を手放す?

 イツキの胸に複雑な気持ちが湧き起こった。

 これで宝厳寺は秀吉の支配から脱け出ることができる。

 親の仇の庇護を受けなくて済む。

 しかし、秀吉を弑す機会も遠ざかる。


「何と。それは残念至極」

「おうよ。ここだけの話だが、わしは長浜が気に入っておる。初めて城を持った土地じゃからのう。それを織田家中の諍いを防ぐためとは言え、権六などに譲ることになるのは何とも口惜しい」

「せっかく羽柴様とお近づきになれましたのに」


 爺は本当に残念そうに拳で膝を叩く。


「安心めされよ、御住職」


 秀吉はにたりと笑った。


「はて?」

「この羽柴秀吉。そう簡単に大事な長浜を他の者には渡さぬ。いずれ時を見計らって取り戻して見せる。今、その戦略を練っておるところじゃ」


 秀吉は顎を擦りながら楽しそうに目を輝かせる。

 秀吉は戦好きのようだ。


「戦になりまするか」

「そうじゃな。それは避けては通れまい。わしが嫌でも権六からふっかけてくるわ。さて、どういう戦法が良いかのう。のう。天海殿」


 秀吉は再び視線を天海に当てた。


 天海の黒い法衣が一瞬揺れた。


「拙僧は戦のことは素人でございますので」

「いやいや、素人の考えも時に侮れぬことがあるものじゃ。存念を聞かせてもらいたい」


 秀吉は座ったまま天海ににじり寄った。

 答えるまでは逃がさぬ、と言っているように見えた。


 天海は押し黙っていたが、秀吉に「どうじゃ、どうじゃ」と執拗に攻められ、ついに口を開いた。


「さすれば雪を味方につければ勝てましょう」

「雪か」

「柴田様の越前は雪深い国。柴田様としては戦は冬になるまでに終わらせたいところ。逆に羽柴様は寒くなるまでは柴田様に戦のきっかけを与えないことが肝要かと。雪が降ってしまえば越前と長浜は分断されます。その時に長浜を攻めれば簡単に落ちましょう。あとは雪解けまでに国境の余呉や賤ヶ岳あたりに砦を備えれば負けることはございますまい」

「我が意を得たり」


 秀吉は扇子で膝を叩いて哄笑した。


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