天海
少しずつ風が北から吹くようになっていた。
それにつれ風は冷たくなり、陽の力が弱まっていく。
北近江の秋は短い。
季節は確実に冬に向かっていた。
タキと二人で薪を拾っているとイツキは幼いころに戻ったような感覚になる。
母の言いつけで、よく二人で今日のように薪を拾ったものだった。
あまり落ちていないとタキが鷹に変化して飛び上がり高いところの枝を折ってくれたことを思い出す。
今はその役目を身重のタキにはさせられない。
イツキは歩きながら頭上を見上げ、時折良さそうな枝を見つけると鷹になって折って戻ってきた。
「随分上手になったものね」
タキが目を細めて褒めてくれる。
「姉上。私はもう子どもではありません。……でも、私がなれるのはあとは鼠ぐらいのものですよ。情けないです」
「そんなことない。島の外に出れば、すぐに色々なものに出合い、色々なものに変化できるようになるものよ」
「でも、もともと私は蛇。ちっぽけな蛇に何ができるのでしょうか。姉上のように馬として風のように駆けることはできません。母上のように狼として吠えて威嚇することも」
「何を言うのです。蛇はやがて龍になると言われているではありませんか。龍は古来より神羅万象を意のままに操り、口から炎を吐くと言い伝えられているでしょう?母上よりも私よりも強い力をイツキはきっと秘めています」
「そうでしょうか」
「きっと、そうよ。母上はイツキの成長を本当に楽しみにしていらっしゃったのよ」
タキは柔和に笑ってイツキの肩を抱いてくれた。
その表情はやはりサヨリを彷彿とさせる。
この慈愛に満ちた顔つきは腹の中にいる子がなせるのだろう。
母となるということは女を根底から変えるに違いない。
「姉上」
「何?」
「爺が何と言おうと、私が命に代えても姉上と明智様をお守りいたします」
秀満の傷は日に日に良くなってきている。
しかし、平癒後に秀満をどう扱うかについては、爺はまだ口を閉ざしたままだ。
爺に強引に答えを求めれば、やはり秀満は秀吉に突き出す、と言われそうで、イツキもタキも爺に問いただすことなく今日まで来ている。
イツキとしてはタキもタキの定めの人である秀満もこの島にいてほしい。
そしてタキが何の心配もなく子を産み、サヨリのような強く優しい母親になることを切に願っている。
イツキが力を込めて言うと、タキは「ありがとう」と言って微笑んだ。
しかし、その顔には、気持ちだけで十分と書いてあるように見えて、イツキとしてはまた子ども扱いされているような気持ちになった。
「私は本気ですよ」
イツキは少々むきになって言った。
しかし、タキは相変わらずの軽い口調で「頼りにしていますよ」と言うだけで、少しもあてにされている感じはしない。
イツキは少々がっかりして、「帰りましょう」と寺の方へ足を向けた。
薪はまずまず拾えた。
森の中には陽射しが入りにくく、少し寒くなってきている。
タキの身体に障ってはいけない。
「姉上は水の上を渡れるのですか?」
歩きながらイツキは訊ねた。
「それは無理よ。どうして?」
「姉上がお戻りになったとき、姉上は馬のお姿で湖面を渡ってこられました。あれはどういうことだったのでしょう?」
「ああ。あれはね、琵琶湖の主よ」
「琵琶湖の主?」
イツキが怪訝に問い返すと、タキは木々の合間から見える湖に目を向けた。
「私も母上から聞いていただけで、見たのはあの時が初めてだったのだけど、琵琶湖には琵琶湖の魚の頂点に立つ大鯰がいるのよ。琵琶湖の主と呼ばれるその大鯰は古から神の使いとしてこの島に暮らす我ら一族に従い、力を貸してくれるようなの。私と殿はあの琵琶湖の主の背に運ばれて湖面を渡り坂本の城へ入ることができたし、城から島へ逃げ延びることもできたのよ」
「琵琶湖の大鯰……」
イツキはタキが島に戻ってきたときに、波の中に微かに見た大きな影を思い出していた。
あれが、琵琶湖の主なのだろう。
大人二人を背に乗せて湖を渡ってくるとは、いかほどに大きいのか。
「私も呼べば来てくれるのでしょうか?」
「そう簡単には現れてくれないわ。ただ、いつもどこかで我ら一族のことを見守っていてくれて、我らに危難が訪れるとやって来てくれる」
イツキは琵琶湖の主に会ってみたかった。
しかし、そうおいそれとは姿を見せてはくれないらしい。
「姉上にもう一つ伺ってもよろしいですか?」
「何?」
「明智様と初めて心で通じ合われた時はどのような感じだったのですか?」
「どのような感じと言われてもねぇ」
タキはどのように説明したら良いのか、という表情だ。
経験した者にしか分からないということか。
「明智様の心の声が聞こえたのでしょう?」
「聞こえたわ。それはもう鮮明に」
タキはうっとりするような表情になる。
神畜の女には定めとなる人の声はさぞかし心地良く聞こえるのだろう。
「鮮明に、ですか」
「そう。耳で聞くよりもはるかに鮮やかに聞こえるの。正確に言うと聞こえると言うのとは違うのかもね。心に直接響くと言えば良いのかしら」
うまく説明できないけれど、とタキは少し申し訳なさそうに言う。「でも、急にどうしたの?」
「実は私も誰かの声が心に聞こえるような気がする時があるのです」
言い出してから急に恥ずかしくなってイツキは俯いて言葉を続けた。「でも、私の場合、鮮明ではありませんし、聞こえてくるのは言葉ではなく、何やら苦しそうに呻くような声でして。これは定めの人の声なのでしょうか。だとするとそのお方は何かに苦しんでおられるということなのでしょうか」
タキは神妙な面持ちで、あくまで私の場合だけれど、と前置きした。
「殿と心で通じ合えるのは私が殿のお傍にいるときだけなの。互いの声が聞こえるぐらいに近くにいないと心でも通じ合えない。そう考えると、イツキのそれは空耳かもしれないわね」
「やはり、そうですか」
分かっていたとは言え、残念だった。
呻き声であっても聞こえた気がしたときは、胸が躍ったのだが。
この世に定めの人が本当にいるのだろうか。
「でも、イツキは私よりも力が強いから、湖の向こうにいる方の心の声が聞こえることもあるのかもしれないわね」
タキの言葉は明らかに慰めだった。
イツキは自分がタキよりも強い力を持っていると思えなかった。
仮にいくらかタキよりも力が強くても、この広い広い湖の向こうにいる人の心の声が聞こえるはずがない。
イツキは押し黙って寺への道を歩いた。
寺に着くと、厳しい表情の五助に迎えられた。
タキとイツキに、本堂に向かえ、と伝える。
とうとうこの日がやってきたのだ。
秀満は傷が癒え、自分の力で床から起き上がることができるようになってきた。
爺はいよいよ秀満の扱いを言い渡すのだろう。
本堂の中は果たして張りつめた空気になっていた。
中央で爺と秀満が向かい合って座っていた。
秀満は顔がまだ青ざめてはいるが、髷を結い目に力が戻っていて凛々しく見える。
落ち着いた佇まいはさすが乱世に生きる武将だ。
一方、爺はこちらに背を向けているので、どのような顔をしているのか全く分からない。
「和尚殿。大変世話になり申した。まずは今日までの御厚誼に御礼申し上げる」
秀満は両の拳をつき、爺に向かって頭を下げた。
「何の。もったいない。人として当たり前のことをしたまで」
爺も軽く頭を垂れた。そして、左手を秀満の横に向けて差し出した。「タキ様。イツキ様。こちらへ」
爺の言葉に従い、秀満の隣にタキが、そしてそのさらに隣にイツキが腰を下ろし、爺と向かい合った。
「イツキ殿。世話になり申した。かたじけない」
秀満はイツキに向かっても同様に頭を下げる。
「な、何を仰いますか。そんなことをされては困ります。どうか頭をお上げください」
秀満のような立派な武将に礼を言われるとは思ってもいなかったイツキは困惑した。
その様子に爺とタキが声を上げて笑う。
イツキは笑われることが心外だったが、場が少し和んだように見えたので、少しほっとした。
「さて。明智様。タキ様」
爺が姿勢を正すと再び空気が重くなる。
三人も居住まいを正し、爺の言葉を待った。
イツキは喉の渇きを覚えつつ爺の白いひげに囲まれた口元を見つめた。
「タキ様のお腹には御子がおられます。まことにめでたきこと。この神の島にまた新しい命が芽生えまするは、神畜の御一族に仕える拙僧としてはこの上なき喜び。タキ様におかれましては、この島で健やかなる御子をお産みください。そのためにこの爺も懸命にお仕えいたします」
「ありがとう。爺」
「明智様。すっかりお元気になられたご様子。拙僧も安堵しております」
「かたじけない」
「しかしながら先日も申し上げましたとおり、この地は羽柴秀吉様の領地。羽柴様と干戈を交えられた明智様の御一族に宝厳寺でお暮しいただくことはできませぬ。従いまして……」
「爺!」
イツキは爺が言い終わる前に声を荒げた。
タキに袖を引かれ「イツキ。良いのじゃ」と窘められてもイツキは怒りを抑えられない。
「爺。爺は今、姉上に健やかな子を産めと言ったばかりではないか。姉上にとって定めのお方が傍におられなくて、どうして安心してお産に臨める。我らが一族に仕えるのであれば、一族のことを一番に考えよ」
「イツキ様。爺の言うことを最後までお聞きくだされ」
そう言って爺は秀満ににじり寄った。「明智様。拙僧はタキ様が健やかな御子をご出産されることを一番に願っております。明智様のことは二の次にございます。よろしいですか」
「拙者は一度死んだ身。どうなろうと構いませぬ」
「では申し上げまする」
爺は秀満、タキ、イツキと順番に視線を送り、最後にまた秀満を凝視した。「明智様。明智様には明智の名を捨てていただきます。明智秀満というお方は先の山崎の合戦でお討ち死になされました。ここにいらっしゃる方は拙僧の弟子で修行のため諸国を行脚していたが、この度久方ぶりに宝厳寺に戻ってきた一人の仏僧にございます。よろしいかな」
出家して、宝厳寺に留まる。
悪くはないとイツキは思った。
悪いどころか、それしか道はないように思えた。
しかし、この乱世を生き抜いてきた武将明智秀満がそれを受け容れられるかどうかは分からなかった。
暫時沈黙が流れた。
イツキは手に汗を握った。
しかし、場の空気は身じろぎひとつ許さない張りつめたものだった。
息が苦しくなる。
「承知仕りました。よろしくお願いいたしまする」
秀満はゆっくりと爺に向かって頭を下げた。
場の空気が緩んだ。
爺も肩の荷を下ろしたような顔だった。
宝厳寺の住職として精一杯の譲れる道だったのだろう。
「よろしい。では早速髷を落としていただきましょう。名も改めていただく。拙僧の名は天水。よって、そなたの名は」
爺は目をカッと見開いた。「天の海と書いて天海」




