懐妊
明智左馬助秀満。
それがタキが命からがら背に運んできたざんばら髪の落武者の名前だった。
山崎での合戦で明智軍は羽柴軍に大敗した。
大将の明智光秀は討ち死。
秀満は明智方の敗北を悟ると気力を振り絞って敗残兵をまとめ本拠地である坂本城に戻った。
しかし、まもなく坂本城も敵の大軍に囲まれることになる。
秀満は最早これまでと死を覚悟したが、タキの勧めにより夜陰にまぎれ危機一髪坂本城を脱出。
琵琶湖の湖面を渡ってこの竹生島へ落ちのびたとのことだった。
「殿は、光秀様から生前、万が一の時は必ず逃げ延び明智の血を絶やすなと遺命を帯びておられた。神畜として私は殿のために死力を尽くす所存」
「それでは、姉上は……」
イツキの問いかけにタキは真剣な表情で頷いた。
「殿と私は一心同体。心で交わっておる」
タキの言葉にイツキは瞬間的に体が熱くなるのを感じた。
母のサヨリが浅井久政と通じたように、姉タキも宿命の人を見つけた。
そのことに深い感動と身を切るような羨望を抱いた。
私もこの世の定めの人と早く心を通じたい。
その方のために全身全霊で尽くしたい。
しかし、それが誰かも分からない自分の現状に焦燥が生まれる。
「しかし、タキ様。ここは羽柴秀吉様の本拠地長浜と目と鼻の先。羽柴家に庇護されている宝厳寺が羽柴家と敵対した明智家の方を匿うことはできませぬ」
爺は厳しいことを言った。
ただ、表情は淡々としており、その言葉が本心なのか建前なのか分からなかった。
「何と……」
タキは爺の言葉が意外だったのか、大いにうろたえているように見えた。「爺。殿は城を失われ、行くところがないのじゃ。爺は殿が明智家の縁者だと気付いていたと言っておった。それなのに今日まで必死に看病してくれたではないか。今さらそのようなことを言うのか」
「そうじゃ、爺。秀吉など関係ない。あいつはもともと我らの仇。しかも、このお方は姉上の定めのお方。我ら一族は是が非にも明智様をお助けせねばならぬ。よもやお見捨てすることなどできぬぞ」
イツキは寝床を挟んで向かい合ったタキが不憫でならず、聞き分けのないことを言う爺にすがるように言った。
「それとこれとは別の話でございます。傷つき倒れ、生死の境に彷徨っておられる方を見捨てることは拙僧にはできませぬ。それはどなたであろうと同じ事。しかし、御平癒なされた後は別にございます。こちらのお方が明智家の方であれば、拙僧は長浜城に使者を立てなければなりませぬ。それが筋と言うもの」
「爺!」
イツキは話の分からぬ爺に怒りが込み上げ、膝立ちして爺に迫った。「何が筋じゃ。姉上と秀満様は一心同体。秀満様を秀吉に差し出すということは姉上に死ねと言うことも同義。それぐらい分かるであろう」
「イツキ様。口を御慎み下され。この北近江で羽柴様を呼捨てにしてはなりませぬ」
「秀吉は秀吉ではないか。猿と呼ばないだけまだましじゃ」
イツキは唾を飛ばして反駁するが、爺は涼しい顔で聞き流す。
「確かに今の北近江は羽柴家の領地。しかし、それまでは浅井家が治めておった。そして我が父、久政は特にこの宝厳寺を大切にしていた。そうであったろう?」
タキの問いかけに爺は「久政様の御恩は一生忘れませぬ」と頭を垂れて言った。
「その久政に織田信長がどういう仕打ちをしたか、爺は知っておるのか?」
タキは下唇を噛み目にうっすらと涙を浮かべている。
仕打ち?
仕打ちとはどういう意味か。
イツキはタキの言葉と涙の意味を考えた。
浅井家は織田家に滅ぼされた。
戦で負けた。
父上は城を枕に自害したと聞いている。
姉上は何のことを言っているのだろうか。
「父、久政は小谷城で自害して果てた。信長はその御遺骸を弄び、あろうことか……、あろうことか、御首級に漆を塗り、宴席でそれを盃代わりに酒を飲んだのだぞ!」
最後は叫ぶように吐き捨てたタキの言葉がイツキにはすぐには理解できなかった。
爺が呆けたように「なんと」と呟いたのが聞こえた。
タキは肩を震わせながら、言葉を繋いだ。
「光秀様は信長の所業を目にして怒りで震えが止まらなかったと仰っていた。殿もこの話を聞いた時に、そんな鬼のような人間の下で我々は命を賭して働いていたのか、と涙を流された。信長の人を人と思わぬこの所業も明智家が織田家を討つことになった理由の一つだ。明智の方々は我ら姉妹の仇を討ってくださったのだ。浅井の人間は明智家に大恩がある。イツキも爺もこのことをくれぐれも覚えておいてほしい」
タキは滂沱たる涙を流していた。
その姿を正面に見ていてもイツキにはまだタキの言葉を受け止められていなかった。
人の頭の骨を盃にして酒を飲む。
その光景を脳裏に思い浮かべることができない。
そんなことができる人間がこの世にいるのか。
頭がおかしくなりそうだ。
爺は数珠を手にして何かを祈るように合掌した。
沈黙が場にいる全員の体に重くのしかかっていた。
「爺」
タキは手の甲で涙を拭き重々しく口を開いた。「殿は全て爺に任せる、と仰せじゃ」
「姉上。それはなりません。それでは姉上はどうなるのですか!」
イツキは今度はタキに食って掛かった。
「私はどうなっても構わぬ。殿に従うまで。もしもの時は命に代えても秀吉を討つ」
「そんな……」
イツキは力なく座り込み、俯いた。
せっかく、帰ってきてくれたのに。
せっかく、元気になったというのに。
またすぐに別れがやってくるなど考えられない。
「泣くな、イツキ。そちももう十七。立派な大人ではないか」
タキは慈しむような表情でイツキを見た。
「姉上……」
母のサヨリを思い出させるその表情にイツキは余計に泣けてしまう。
姉上はいつからこのような慈愛に満ちた顔つきになられたのだろうか。
私にはあのような表情はできない。
私と三つしか変わらないというのに私と姉上とでは何が違うのだろう。
島を出て色々なことを経験されたから、このような優しさを備えられたのだろうか。
「私は一度死んだ身なのじゃ。イツキは十年前、この島が夜襲を受けた時のことを覚えておるか?」
「はい。今でも鮮明に」
母恋しさに泣き叫ぶイツキに「神畜に生まれたからには聞き分けよ」と叱咤したサヨリの声が耳に残っている。
あの時、イツキは自分が神畜なのだと、他の人とは違うのだということを自覚した。
そして重い何かを背負ったのだ。
「あの時、私は死を覚悟して島を取り囲む敵と戦った。父上に小谷へ逃げていただくために敵陣を攪乱しようと必死だった。私は何人も敵兵を倒し、湖に落とした。そして私の思い通りに父上は逃げ延びられた。しかし、衆寡敵せず私は種子島で殴られ、捕縛された。あの時私は一度死んだのだ」
「御労しい」
死を覚悟して敵陣に突入したこと。
そして、実際に敵兵に殴られ捕縛されたこと。
そんなことを自分が十歳の時にできたであろうかとイツキは考えた。
できはしない。
十歳の時イツキはただただ天涯孤独の身になってしまったことを嘆き意味もなく一日一日を過ごしていた。
タキとは神畜としての器が違う。
イツキはそう思わざるをえなかった。
「その時の敵将が殿であった」
「何と。それが出会いなのですか」
「坂本城の牢獄で、囚われの身となった以上は無様な死に様は見せるまいと必死に自分を鼓舞していた私の心の声が殿に聞こえていたらしい。そして殿は私をお救いくだされた。私は一度死んだ身。それを殿が助けてくだされた。その殿が私の宿命のお方なのだ。私はどこまでも殿に付き従い、お支えする。それが畜の定め」
言い放ったタキは清々しい顔をしていた。
涙で濡れた頬が輝き、神々しく見えた。
イツキは憧れる思いでその姿を見つめた。
見とれていた。
しかし、タキは突然顔を伏せ、口に手を当てた。
そして、立ち上がったかと思うと小走りに障子に向かい、開け放つと縁に手をついた。
「姉上?」
イツキも立ち上がり、恐る恐るタキに近づく。
地面に向かって呻くタキの声が微かに聞こえた。
イツキの背後に近づいてきた爺が「タキ様、もしや……」と言った。
タキは顔を起こしたが振り返らなかった。
懐紙を口に当て、そして腹に手を添えた。
「ややじゃ」
タキは秀満の子を孕んでいたのだった。




