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回復

 タキが目を覚まし、ゆっくり上体を起こしていた。


「姉上!」

 

 イツキはタキの傍に駆け寄った。「御加減はいかがですか?」

 

 タキの顔をのぞきこむように見る。

 先ほどよりも赤みやむくみが消え、すっきりしたように見える。

 

 五助が湯飲みの水を渡すと、タキは美味しそうに一気に飲み干した。


「だいぶ楽になった。もう、大丈夫」


 微笑むタキにイツキは安堵した。

 タキの所作に重々しさはなく無理をしている様子はなかった。


「良かった。爺を呼んでまいります」


 立ち上がるイツキをタキが制した。


「イツキ。私が背負ってきた御方はどこじゃ?」

「爺の寝所の隣です。今も爺が看ておるはずです」


 イツキが答えると、タキは立ち上がろうとする。


「タキ様。まだ横になっていてください」


 五助が慌てたように言う。


「そうです。私が爺を呼んでまいります」

「いや」


 タキは強い口調で言った。「行く。行かねばならぬ」


 タキの気迫にイツキは息をのんだ。

 タキが何か重いものを背負っていることを悟った。

 その重さはイツキには想像もつかないものだったが。


 タキは顔を顰めて立ち上がった。

 拍子に少し身体をよろめかせたが、イツキが支えるとゆっくり歩きだした。


 イツキは仕方なくタキを怪我をしている武士のところへ案内した。

 

 その男はこの島に着いてからまだ一度も目を開けていない。

 身体のあちらこちらに傷があり、熱が高く、衰弱も激しいと爺から聞いていた。

 廊下を歩いていると時折男のうめき声を耳にすることがある。


 襖を開けると案の定爺が寝床の横に座っていた。

 部屋の中は暖かい。

 二つ置かれている火鉢で炭が赤々と燃え、その上の鉄瓶から湯気が漂っている。


「タキ様!」


 爺は驚いたように言った。「お加減はよろしいので?」


 しかし、爺の言葉など耳に入っていないかのようにタキは横になっている武士の枕元に駆け寄った。


「殿!殿!」


 タキが呼びかけても、その男は反応しなかった。

 荒い息を漏らし、こんこんと眠っている。


 イツキは所在無く爺の隣に座った。

 その横に五助も腰を下ろす。


「殿のお加減はどうか?」


 タキが睨み付けるように爺を見る。


「熱がひきません。ここに着いてからずっとこのままです」

「今日からは私が看る」

「それはなりません。タキ様はまだ本復されたわけではありません」


 爺はタキの熱情を諌めるように厳めしく首を横に振った。「それよりもまず、こちらのお方がどなたなのかお教えください」


 それはずっと気になっていた。

 ここに辿り着いた時の身なりから卑しい身分の者ではないことは明らかだった。

 しかし、島の外の物事を知らないイツキには武士の身なりや武具からは何も分からなかった。


 タキは口を真一文字に結び、じっと武士の顔を見下ろしていた。

 答えたくないのだろうか。

 答えられない理由があるのだろうか。


「タキ様。お教えくださらないと、爺も困ります。このお方は合戦に敗れ落ちのびてこられたのでございましょう。であれば、ここに追手が来ることも考えられます。どういうお方なのか分からなければ大事の時に対処できませぬ」


 爺の言い分はもっともに聞こえた。

 しかしタキはそれでも口を開こうとはしなかった。


「姉上」

「イツキ。爺。もう少し待って。殿と一度相談させてほしい。殿のお許しを得てから全てを話す」

「タキ様。それでは、タキ様がこの島に戻ってこられるまでどこにおられたのかも……」

「爺。許しておくれ。全ては、殿が目覚められたときに」

「分かりました。しかし、これだけはご承知おきください。今、北近江の領主は羽柴秀吉様です。我々は羽柴様からの寄進により生活しており、ここには羽柴様のお使いの方が、時には羽柴様ご本人もお越しになられます」


 爺の言葉にタキは力なくうなだれた。

 しかし、やはりタキの口からは何も聞かされることはなかった。


 その後、二日が過ぎた。

 爺とタキの必死の看護で武士は少しずつ快方に向かっているようだった。

 熱は下がり、呼吸も落ち着いてきていた。

 そろそろ目を覚ますのではないか。

 誰もがそう思い、また武士の枕元に全員が集まっていた。


「そろそろ気が付かれることでしょう」


 爺が優しく話しかけるとタキは少し緊張しているような様子で頷いた。


「う、うぅあ」


 武士は目を閉じたまま、苦しそうに首を右へ左へ振った。


「殿!殿。タキにございます」


 タキが耳元で呼びかけると、武士はゆっくりと目を開いた。

 そして、辺りを見回し、最後にじっとタキと視線を交わす。


 二人は長い時間、目と目を見合わせていた。

 イツキと爺、そして五助はそれをじっと待った。

 三人には分かっていた。

 タキとこの武士は今心の中で会話をしているのだ。

 それは神聖な交わり。

 誰も邪魔をしてはならない。


 やがて、武士は納得したように一つ頷き、横たわったまま爺の方を向いて「かたじけない」と口を動かした。

 声が出ていない。

 まだ体力がないのだろう。

 顔が土気色をしている。


 爺は「何の」と頭をゆっくり下げた。

 そして、促すような視線でタキを見つめた。


「爺」


 タキは何かを悟ったような落ち着いた声で話し始めた。「爺は京の本能寺で起きた変事を知っておるか?」


「織田信長様が家臣の明智光秀様によって討たれた、あの変事のことでございますね」


 それはイツキも聞いていた。

 タキがこの島に戻ってくる二、三日前に長浜からそのことを知らせに使者が来たのだ。


 織田信長様を討った明智軍が長浜城に攻め寄せてくるかもしれない。

 しかし、秀吉様は毛利攻めで中国にいらっしゃる。

 よって、長浜城に残る秀吉様の御正室とその供回りの衆は一旦城を捨て身を隠す。

 そのため、しばらくは長浜との行き来は途絶えることとなる。

 しかし、宝厳寺は案ずることはないだろう。

 明智殿は神仏を大切になさるお方。

 よもや御住職に手荒な真似はなさるまい。


 そう言い置いて使者は長浜へ帰って行ったのだった。


「そうだ。あの時、私も殿に従い本能寺にいた」

「ほう」


 イツキはタキの話に腰が抜けるほど驚いたが、爺に驚いた様子はなかった。

 その爺の様子にまたイツキは驚いた。


「爺。気付いておったのか?」


 爺が驚かないことをタキも驚いているようだった。


「このお方の身に着けておられたものには明智様の御家紋である桔梗が至る所に施されておりました。明智光秀様ご本人、あるいはその縁者の方と推察しておりました」

「さすがは、爺じゃな」


 タキは寝ている武士と一つ視線を交わし、また口を開いた。「明智光秀様は山崎にて羽柴秀吉に対し天下分け目の戦を挑み、お討ち死になされた。このお方は、その光秀様のお従弟にあたられる明智秀満様」


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