八 終わりのない問い
深夜のオフィスに、蛍光灯の唸りだけがあった。
営業一部のフロアには、もう誰もいない。小坂が荷物を整理するふりをして居残っていたのを、高橋は知っていたのだろう。扉を開けて、入ってきた。いつもと同じ、細身の背広、小さな会釈で。
「君だったのか」
小坂の声は、掠れていた。
「私は君を信じていた。唯一の理解者だと思っていた。不正だって、君が……君がやれと言ったから……!」
高橋は答えなかった。机の端に腰を預け、小坂をしばらく見つめていた。そして、静かに口を開いた。
声は低かった。穏やかだった。語尾に棘はなく、教師のように優しかった。五年ものあいだ、毎日耳にしてきた、小坂自身の声と、寸分違わぬ調子であった。
「任せたのではなく、押し付けたんですよ、小坂さん」
小坂の喉が、鳴った。
「なぜご自分の不正がバレないと思ったんですか? 論理的に説明してください」
「……私は」
「待ちますよ。何分でも」
秒針の音が、フロア中に響いた。
一分。二分。三分を過ぎるころ、小坂の視界の端がにじんだ。あの日の佐々木の顔が、そのにじみの向こうに浮かんだ。
「あなたが『愛の指導』と呼んでいたあの音声と、不正の全データは、ネット上と、業界の関係各所に流しました。あなたの再就職先は、ありません」
小坂は何か言おうとした。唇が動いた。声にはならなかった。
「あの怪文書の資料を出したのは僕です。でも、文章を書いたのは」高橋は、ほんの少しだけ目を細めた。「あなたが『可愛がってやった』と思っていた、歴代の部下の皆さんです。みなさん、大喜びで協力してくれましたよ」
高橋は立ち上がった。扉の前で一度だけ振り返り、言った。
「弟には、一度も、答えを待ってもらえませんでした」
扉が閉まった。
小坂和彦は、翌月、懲戒解雇された。
退職金は、損害賠償の一部として相殺された。恵子との離婚は成立し、家は売られ、娘は父の名を口にしなくなった。再就職を試みたが、面接の途中で、決まって相手の顔色が変わった。
今、彼は郊外の古いアパートの四畳半にいる。
畳の目は擦り切れ、窓の外には隣家の壁しかない。夜になると、小坂は膝を抱えて座る。誰も訪ねてこない。誰も、電話をかけてこない。
静寂のなかで、自分の声が聞こえる。
高橋の声が、重なる。
「なぜだ……どこで間違えた……論理的に、説明しろ……」
問う者は自分であり、答える者もまた自分である。そして、どちらにも答えはない。かつて自分が、数えきれない部下に課した、答えのない不快な沈黙。その暗闇に、今度は小坂自身が座っていた。
待つ者は、誰もいない。
それでも、問いだけは、終わらなかった。
かつて他人に強いた「答えのない問い」の暗闇に、今度は己が永久に引きずり込まれる。人が人を裁いた気になるとき、すでに運命の天秤は逆の方角へと傾いているのだ。
(了)




