第1話
「エレノア。お前が身を引けば、全て丸く収まるんだ」
父の重々しい声が、冬の冷気が染み入る執務室の空気を震わせた。
正面の革張りソファには、私の婚約者であるセディック様が腰掛けている。そのすぐ隣には、私の妹のマリアンヌ。
マリアンヌはセディック様の腕にすがりつき、今にも息絶えそうな青白い顔で、小刻みに肩を震わせていた。
「お姉様……ごめんなさい。私、お姉様からセディック様を奪うつもりなんてなかったの。でも、私のこの身体では、もう長く生きられないかもしれないって主治医が……」
「マリアンヌ、喋るな。胸が痛むだろう」
セディック様が、壊れ物に触れるような手つきで妹の背をさする。
そして、私へと視線を向けた。その琥珀色の瞳にあるのは、長年見慣れた侮蔑と苛立ちだった。
「聞こえただろう、エレノア。マリアンヌは繊細なんだ。お前のように頑丈で、何でも一人でこなせる女とは違う。お前が婚約者の座を妹に譲り、家督の継承権も放棄してくれれば、ローレンス侯爵家とクロムウェル伯爵家の結びつきは保たれる。両家の面目も立つ。誰も傷つかない」
誰も傷つかない。
その「誰も」の中に、私が含まれていないことなど、物心ついたときから知っていた。
妹が微熱を出せば、私の誕生会は取りやめになった。
妹が「お姉様のドレスが着たい」とぐずれば、私の仕立てたばかりのドレスは妹のクローゼットへ移された。
私が三日三晩徹夜して仕上げた領地の会計監査簿は、いつの間にか「妹の療養費を捻出するための当然の義務」にすり替えられていた。
セディック様もそうだ。
約束していた食事会は、何度も「マリアンヌの発作」を理由に取りやめになった。私が一人で待たされた店の予約代まで、翌朝当然のように請求書を回されても、私は何も言わなかった。
「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」
その呪いに縛られていたからだ。
父が、二枚の羊皮紙を私の前に滑らせてきた。
婚約破棄の合意書と、爵位継承権の放棄届。すでにセディック様と父の署名がなされている。
三人は、私の反応を待っていた。
セディック様は眉を吊り上げ、マリアンヌはその腕の陰から私を窺っている。
以前、妹に渡ったドレスを一度だけ返してほしいと頼んだときも、こんな顔をされた。あのときは結局、泣かせた私が謝ったのだった。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
激しい怒りも、引き裂かれるような悲しみも、なぜか湧いてこなかった。
胸の奥で、張り詰めていた一本の硬い糸が、ぷつりと音を立てて千切れただけだった。
(ああ……もう、いいや)
私は机の上の羽ペンを手に取り、インク壺に浸した。
二枚とも、エレノア・クロムウェルと署名する。
セディック様が、怪訝そうに眉をひそめた。
「……エレノア? 何を企んでいる」
「企むなど、とんでもございません」
私はペンを置き、左手の薬指から、セディック様から贈られた銀の指輪を外した。
妹に贈られた豪奢なダイヤのブローチとは比べ物にならない、小傷だらけの細い指輪だ。
それを、書類の上に静かに滑らせる。
「承知いたしました。私が身を引けば丸く収まるのですね。どうぞ、お望み通りになさってください」
私の声には、震え一つなかった。
涙も一滴も浮かんでいなかった。ただ、他人の事務連絡を淡々と処理するように告げた。
「なっ……」
セディック様が息を呑む。
マリアンヌも、肩を震わせるのをやめ、きょとんと目を丸くしていた。
怒鳴られるよりも、泣かれるよりも、完全に温度を失った私の乾いた笑みが、彼らには酷く気味悪く見えたらしい。
「それでは、お話は以上でよろしいでしょうか。明日の朝、改めてご挨拶に伺います」
深々とお辞儀をし、私は一度も振り返らずに執務室を出た。
明日の朝の挨拶など、行くはずがない。
私は自分の部屋に戻ると鍵をかけ、ベッドの下から古びた小さな革のトランクを引き出した。
家を出る日のために、少しずつ用意していたものだ。
トランクには、頼まれた清書や刺繍の内職で貯めた銀貨と、銀行での手続きにも使っていた身分証、平服二着を詰めてある。乗合馬車の発着時刻も調べておいた。
ただ、出ていくと言う勇気だけがなかった。
机の端に、短い置手紙を残した。
明日以降に決裁が必要な書類は、日付順に執務机の上へ揃えてある。領地の帳簿も、金庫の鍵も置いていく。持ち出すのは、自分のものだけだ。
この屋敷の金で買われた豪奢な調度品も、宝石も、一欠片もいらない。
日付が変わる直前、私は誰にも見咎められることなく、勝手口から夜の帳へと滑り出した。
――どうぞ、お好きなだけ丸く収まってください。
二度と、私の名前を呼ばないで。




