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人間不信の勇者

 薪を割る乾いた音が森の静寂を切り裂く。

 かつて世界を救ったその腕が振り下ろすのは聖剣ではなく、刃こぼれした古びた斧だ。


 男の名は『ブレイド』。かつて勇者だと人々から言われていた。

 ブレイドは森の中で2人で静かに暮らしていた。


 しかし平穏というものは脆い。

 招かれざる客が背後で息を呑む気配がする。


「……帰れと言ったはずだが」


 ブレイドは手元の作業を止めない。

 振り返りもしないその背中に向かって、豪奢だが泥にまみれた鎧を纏う女騎士が声を張り上げた。


「お願いですブレイド様! どうか……どうか一度だけでいい、こちらを向いてください!」

「断る。俺はもう勇者じゃない。ただの木こりだ」

「王都が……王都ルナリアが火の海なのです! 西の山脈から溢れ出した魔物の群れが城壁を突き破らんとしています。正規軍だけではもう支えきれない!」

「ほう。あの頑丈さが自慢の城壁がか。それは傑作だな」

「皮肉を言っている場合ではありません! 民が逃げ惑っているのです。かつて魔王を討ち果たしたあなたの力があれば、あの程度の魔物など一掃できるはず……ッ」

「おい」


 斧が切り株に深々と突き刺さる。その衝撃音だけで騎士の肩が跳ねた。

 ブレイドがゆっくりと首を巡らせる。

 無精髭に覆われた頬。

 生気のない瞳。

 その奥底には触れれば斬れるような鋭利な殺気が淀んでいる。


「『あの程度』と言ったな? ならお前らでなんとかしろ。俺が出る幕じゃない」

「そ、それは……数は多いですが個々の力はかつての魔王軍ほどでは……」

「なら尚更だ。俺は引退した。王都が燃えようが王が首を吊ろうが知ったことじゃない」

「なっ……なんてことを! あなたはかつて勇者と呼ばれたお方でしょう!?」

「勇者、か」


 ブレイドは鼻で笑った。

 蔑みと諦めが入り混じった乾いた音。


「魔王を倒して凱旋(がいせん)した時、俺を用済みだと追放したのはどこの誰だったか忘れたのか? 平和になった世界に強すぎる力は毒だ、勇者は死ぬのが美しいとほざいて毒杯を盛ったのは貴様ら王国の連中だろうが」

「それは……ッ、当時の国王陛下が独断でやったことで、私は関知して……」

「知らなかったで済むなら警察はいらんよ。……ああ、この世界に警察なんて気の利いたもんはないか」

「ブレイド様……」

「失せろ。二度と言うな。俺の敷地にその汚い足で踏み入るな」


 吐き捨てるなりブレイドは再び斧を握る。

 これ以上の問答は、無意味だという拒絶の意思表示。

 だが騎士は引かなかった。

 ジャリ、と砂利を踏みしめる音が近づく。殺気立っても構わないという覚悟がその足音にはあった。


「……では、取引をしましょう」

「金なら要らん。名誉も要らん。今の俺には薪の方が価値がある」

「私を……差し上げます」


 斧を振り上げかけたブレイドの手が空中で止まる。

 呆れたようにため息をついて、肩越しに視線を投げた。

 騎士は震える手で、自身の胸当ての留め具に手をかけている。

 恥辱に顔を赤く染めながらも瞳だけは必死に訴えていた。


「王国の近衛騎士団長であるこのセシリアの身を、あなたの好きにしていただいて構いません」

「はあ?」

「所有物として扱ってください。奴隷として首輪をつけていただいても、夜の慰み者にしていただいても……っ、ご命令とあらばどのような辱めも甘んじて受け入れます。生涯あなたの剣となり盾となり、この身を捧げます。だから……!」

「だから?」

「王都を、救ってください……ッ!」


 悲痛な叫びだった。

 プライドの高い騎士が全てをかなぐり捨てた懇願。

 普通の男ならば、その美貌と献身に心を動かされたかもしれない。

 あるいは歪んだ支配欲を満たそうとしたかもしれない。


 だがブレイドは、ただ底冷えするような目でセシリアを見下ろした。


「……で、服を脱げば俺が喜ぶとでも思ったか?」

「え……?」

「安いな。お前の人生も、覚悟も。俺にとってはその辺に転がってる石ころより価値がない」

「か、価値が……ない……?」

「ああ。邪魔だ。騎士団長の地位? 女の体? そんなもんで俺が動くなら、とっくに国の一つや二つ乗っ取ってる」


 ブレイドは興味なさげに視線を切ると、今度こそ斧を振り下ろした。

 パカン、と軽快な音が響く。


「勘違いするな。俺は人間が嫌いなんだ。お前らが何を差し出そうが、俺の心は一ミリも動かない。……さっさと帰れ。次に俺の視界に入ったら、魔物より先にその首を刎ねる」


 絶対的な拒絶。

 セシリアは崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、唇を噛み締めて立ち尽くした。

 何も届かない。

 英雄の心は、王国の裏切りによって完全に凍てついている。

 その絶望的な事実を突きつけられ、騎士はよろめきながら踵を返した。

 背中が小さくなるまでブレイドは一度も振り返らなかった。


 気配が完全に消える。

 森に本来の静寂が戻ってくる。

 鳥のさえずりと風が葉を揺らす音だけが残る世界。


「……ふん。やっと静かになったか」


 独りごちて斧を置く。

 その時、小屋の陰から小さな影が飛び出した。


「ぶれいどー!」

「……おっと」


 突進してきた小さな体を、ブレイドは慣れた手つきで受け止める。

 さっきまでの氷のような表情が嘘のように溶け落ちていた。

 抱きついてきたのは五歳ほどの幼女だ。


 このか弱そうな幼女の名は『リリア』。

 ふわふわとした銀色の髪。つぶらな瞳は宝石のように輝いている。

 だがその愛らしい頭部には、人間にはあり得ない特徴があった。

 黒く捻じれた、二本の小さな角。


「リリア。出てくるなって言っただろう」

「だってー、おねえちゃんのこえ、こわかったもん。ぶれいどもこわいかおしてた」

「……そうか。怖がらせて悪かったな」

「もういなくなった?」

「ああ、追い返した。二度と来ない」


 ブレイドは大きな手でリリアの頭を撫でる。

 角の根元を優しく指で擦ると、幼女はくすぐったそうに身をよじって笑った。


「んふふ、くすぐったいよぉ。……ねえねえ、きょうのごはんなあに?」

「猪の燻製が残ってる。あとは森で採れた木の実だな」

「わーい! りりあ、きのあつめるのてつだう!」

「助かる。リリアは働き者だな」

「えへへ、ぶれいどのためだもん!」


 リリアが無邪気に笑う。

 その笑顔だけが、今のブレイドにとって唯一の救いだった。

 皮肉な話だ。

 人間たちに裏切られ、絶望した元勇者の心を癒やしているのが、かつて敵対した魔族だとは。


 ブレイドの世界はこの小さな温もりを中心に回っている。


「……人間なんて、もう懲り懲りだ」

「ん? なにかいった?」

「いや、なんでもない。……さあ、飯にするか」

「うんっ! だっこ!」


 ブレイドはリリアを軽々と抱き上げる。

 魔族の幼女は勇者の太い首に小さな腕を回し、その頬にすり寄った。

 王都がどうなろうと知ったことではない。

 世界が滅びようとも関係ない。

 この腕の中にある小さな重みさえ守れれば、それでいい。


「リリア。今日はシチューも作るか」

「ほんと!? やったー! ぶれいどだいすき!」

「……ああ。俺もだよ」


 かつての英雄は、人間には決して見せない穏やかな瞳で、愛しい家族と共に小屋へと消えていった。

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