第四話:赤壁に潜む影
風が吹かない。
この地に風が吹かぬことなどあり得ないはずなのだが────。
「風はいつ吹く⋯」
苛立ちを含んだ声。
視線の先、帆は力なく垂れていた。
冬の長江には北西の季節風が通常ならば吹いているはずだった。
だが、今は一切吹いていない。
これほど異常なことが起こっているというのに、部下の誰もおかしいと感じていなかった。
「何故誰もこのおかしさに気づかぬのだ」
天幕の中、曹操は腕を組んだ。
長江の北岸にある烏林に陣を敷き、しばらく経つ。
ここに辿り着くまでは、たしかに吹いていた風が止んでからすでに数週間経っていた。
だが、風が吹いていないことに誰も気づいていない。
数週間風が吹かぬことも異常だし、それに誰一人疑問を持たないのは明らかな異常だ。
「──気づかぬようにしてあるのです」
不意に声がした。
天幕の外、そこに立っている者がいた。
漆黒の衣装に身を包んだ祈祷師。
「其方がか?」
この祈祷師は、この地に辿り着いたときに出会った。
祈祷師などというモノは胡散臭く、通常ならば信じないのだが、此奴は違った。
おかしな術を使い、色々なことを当ててみせた。こいつは使えると判断し、それ以後近くに置いている。
変な行動に出ればすぐにでも処分するつもりだったが、今のところはそんな素振りもない。
「騒がれては困りますので」
祈祷師は、さも当然とばかりに頷いた。
「まさか、風が吹かぬのも────」
曹操の言葉に、祈祷師の口元がわずかに歪んだ。
「さすが曹操様です」
フードを目深に被り、顔を見たことはなかった。
声は低くも高くもない。体格も普通で、背もあまり高くない。
特質すべき特徴がないので、喋らなければそこにいると気づかないことが多かった。
それが逆に不気味なのだと曹操は感じていた。
何を考えているのか分からない。
だが、彼の助言は信頼出来た。だからこそ、重用している。
「何故だ? 風がなければ戦えぬぞ」
水上戦は、風が命。
その風が吹かぬならば、船上での戦いを諦めるしかないのだ。
「この戦では、風が命取りなのです」
「どういう意味だ」
祈祷師は、外を見る。
つられるように曹操も外を見た。
先ほどと変わらず、船の帆は垂れ下がったままだ。
まるで風がない。
「風が吹けば、曹操様が負けます」
祈祷師がこちらを振り返り、断言する。
いつもならば、このようなことを言われれば不敬罪で即刻首を刎ねていただろう。
だが、その言葉の強さに怒るよりも先に戦慄が走った。
「我が負ける、だと⋯?」
こちらはもともとの北軍の精鋭たちと荊州討伐で降伏した7万の兵力を合わせて22万の軍勢。
相手である孫権と劉備の連合軍は、多く見積もっても5万ほどしかいないはず。
その戦力差がありながら負けるなど、あり得ない。
「この戦いは、風を制した方が勝利するのです」
祈祷師の言葉は揺るがない。
「そのために、風を止めました」
船の帆は依然として揺れない。
それどころか、水面には波ひとつ立たない。
────まるでこの世界から風という概念が無くなってしまったかのように。
続きです!




