3-2彼女は変わりたい
朝、ギルバートは日課のランニングから戻ると、まだ寝ているレーガを起こさないように軽くシャワーを浴びてから勉強を始めた。
静かにペンを走らせながら、ふと、昨日ミーナから避けられたことを思い出す。
「(…俺は、前にユーリが言っていたように、ミーナから嫌がられているのか…)」
ギルバートはそんな考えがよぎって、ペンを動かす手が止まる。
彼女が白い結婚だなんだと言い出したのは、オリバーのことが忘れられないだけでなく、自分のことが気に食わないからなのだろうか。
ギルバートは、幼い頃のミーナを思い出す。いつもご機嫌でにこにこしていて、彼女の周りの空気だけ、普通よりもゆっくり流れているような特別な雰囲気だった。
母親を早くに亡くしたギルバートに、父は早く大人になるように強いた。男ならこうしろ、男のくせにこんな事をするな、という父や家の者からの厳しいしつけが続く中、ギルバートは、ミーナといる時だけはいつも緊張で張りつめた体がゆるむ感覚がした。
「(…彼女はいつも笑っていたけれど、感情を押し殺している時だってあった)」
ギルバートは、ジャックやその取り巻きの男たちにからかわれていた時のミーナの目を思い出す。
いつもならすぐそいつらを怒鳴りつけて追い払うギルバートだったけれど、その時は一瞬ミーナの横顔を見つめて硬直してしまったのだ。目の奥の光が消えて、呆然と彼らを見つめていた。しかし、ギルバートが見ているのに気がつくと、ぱっといつもの笑顔になって、困ったねえ、と笑っていた。
その時にギルバートは、絶対に自分が彼女を守ろうと思ったのだ。重圧に押しつぶされそうな自分を、彼女にその気がなかったとしても守ってくれたように。
ギルバートは、椅子に深く腰掛けて腕を組んだ。
「(…あんなに俺といて笑っていてくれたのに、本心では嫌がっていたのだろうか…)」
そんな恐ろしい予測に背筋が凍る。考えてみれば、自分との結婚が決まってから明らかにミーナが自分に笑顔を向けることがなくなった。
ギルバートはユーリから言われた、暑苦しくて古臭くて煩い、という単語に頭を殴られる。
「(……とりあえず、ミーナが本当に俺を嫌がっているかは、まあとりあえず、…一旦、とりあえず、さておいて…)」
ギルバートは認めたくないことを見ないことにした。ギルバートは頭を軽く振って頭の中を整理する。
ギルバートは確かに過去、アイリーンのことを好きだとミーナに言ってしまっている。過去にそういう時期はあったけれど、現在は何とも思っていないという設定にした。がしかし、ミーナはそれをギルバートの嘘だと思っている。
さらに厄介なことに、周りの人間もギルバートがアイリーンを好きだと思っている。過去に適当に名前を挙げただけなのに、ここまで周りに浸透してしまっているとは、噂とは恐ろしいものである。
しかし、ミーナのことが好きなのだという風に問い詰められたことに焦った自分が未熟だっただけの話ではある。
「(…あのときはあのジャックに問い詰められたから…)」
ギルバートは忌々しい気持ちであの日のジャックを思い出す。
ジャック・ベイリーは侯爵家の嫡男で、幼い頃からミーナをからかう男子の筆頭だった。彼が執拗にミーナを嘲笑するせいで、周りがそれに倣って彼女を笑い者にしていた風潮がある。ギルバートはジャックやその取り巻きがミーナにひどいことを言うたびに鬼の形相で追いかけ回していた。
ジャックは、大人になるにつれていつの間にかミーナのことを執拗に言わなくなったが、ギルバートはそういう過去があって、今でも成績のことなどで絡まれたりもするが、もう深く相手になどしていなかった。
そんな相手に自分の本心を知られてなるものかという防衛本能がとっさの嘘となって出てしまったのだ。
「(…ジャックたちについた嘘はこのさいもうどうでもいいとしても、問題はミーナについた嘘だ…)」
ミーナがオリバーのことが好きだと知って動揺してついてしまった嘘は、男として訂正できない。好きな人に不誠実な嘘をついていたなんて事実は、とても受容できない。
そして、ミーナに好きだと伝えることも男としてできない。男なら恋愛なんかにうつつを抜かさずに、心を乱されずに、どっしり構えろという父の教えが身について、どうしても言えない。ましてや、ミーナのことを好きだと思い始めると、まるで自分が軟体動物になったような気持ちになるのだ。それは全くもって男らしくない。
「(…そもそも、父さんの教えを守ってどっしり構えていられれば、あんな嘘をつかなくてよかったのに)」
ギルバートは頭を抱える。机に額を押し当てて、未熟な自分にあきれかえる。
「(…それ以前にミーナはオリバーが好きなんだ。仮に好きだと言ったところで、拒否されるだけだ)」
ギルバートはゆっくり机から頭を上げると、目を伏せて小さく息をついた。そして、1度目を閉じると、ペンを握る手に力を込めた。
「(…とにかく、せっかく結婚できるのに、白い結婚だけは避けたい…)」
ギルバートは、また椅子に深く座ると腕を組んで天井を仰いだ。
「(…今は正攻法で説き伏せようとしても駄目だ。何を言っても俺のついた嘘がノイズになる…。なら家のことをだすか…。結婚はそもそも家のためにするものであって、白い結婚なんて知ったら親はどう思うか…という点から話してみるか…)」
ギルバートは以前思いついていたことを改めて吟味してみて、我ながらいい案だと自画自賛する。家族と仲のいいミーナなら、家族の話を出したら諭せるかもしれない。これはいい、そうしよう。
「(……果たしてそれは、男らしい…のだろうか…)」
ギルバートは一瞬冷静になりそんなことを考える。これは家族を盾にした脅しではないのだろうか。
考えてもわからずに、ギルバートが座ったままのけぞったとき、起きたらしいレーガに、だ、大丈夫…?と心配された。
ギルバートは一瞬固まったあと、何事もなかったように背筋を伸ばして座りなおすと、おはよう、と爽やかに返した。
朝食を終えて、ギルバートは学校に向かった。すると、前の席のジェームズが珍しく早い時間に教室にいた。
「おはよう。お前がこんな時間にいるなんて珍しいな」
ギルバートはそう言って席についた。するとジェームズが、満足げな顔でギルバートを見つめた。ギルバートは怪訝な顔で彼を見た。
「…なんだよその顔は」
「喜べギルバート。ミーナ・ワイアットが痩せようとしている」
ジェームズの言葉に、ギルバートは予想外すぎて目を丸くした。
「なんでまた、そんな…」
ギルバートはよくわからなくて混乱する。ジェームズが、何言ってんだよ、と笑いながら軽くギルバートの肩を叩いた。
「お前のためだって、そう言ってたぞ」
「え?」
「お前のために痩せたいって、ミーナ・ワイアットが!」
ギルバートは、ジェームズの言葉にこれまでずっと抱えてきた頭のもやもやが、一気に晴れるのを感じた。
「(…ミーナが、俺のために何かをしようとしてくれている…)」
ギルバートは嬉しさから口元が緩みそうになりひくひくと震えた。嫌いな人のために身を削って何かをしようとはしない。つまりミーナは、自分のことを嫌いなわけではないのかもしれない。それが嬉しくてギルバートは肩が震える。
がしかし、すぐに冷静になってから困惑した。
「…なんで俺のために、痩せるんだ?」
彼女の痩せる理由がわからずにギルバートは口元に手を当てる。するとジェームズは、呆れたように、はあ?と声を上げた。
「痩せたほうが綺麗だからに決まってるだろ」
ジェームズの言葉に、ミーナが自分の為に綺麗になろうとしていることは素直に嬉しくなるけれど、しかしギルバートはよく理解ができなかった。
「(…今のどこが、彼女は不満なんだ…)」
ギルバートにはそれがよくわからなかった。今で充分に可愛いのに、これ以上どこを綺麗にしたいのか、そもそも彼女になにが不足しているのか、ギルバートには見当もつかなかった。
それどころか、痩せるとなれば彼女の好きな甘い物など食事を制限することになる。それは彼女にできることなのだろうか。
考え込むギルバートに、はあ、とジェームズがため息をついた。
「そもそも、年頃の女のくせにあんなブクブクで気にしないほうがおかしい。普通は結婚相手を探すために必死で体型維持するはずだ」
「…別にミーナは不健康じゃないんだから構わないだろ。というか、またミーナを執拗に見ていたな。何度言えばわかるんだ。見るな。お前は地面のアリが列になって巣へ戻るところでも眺めておけ」
ギルバートはそう言ってジェームズを睨む。
ジェームズは特に気にした様子もなく、とにかくよかったな、とギルバートに笑いかける。ギルバートはその能天気な笑顔を見ながら、そもそもなぜこの男は、無断で人の大事な婚約者と話しているのかと、心の中で歯ぎしりをした。
「(…ミーナがそうしたいのなら、俺に言うことはない、けれど…)」
ギルバートは少し不安な気持ちで窓の外を見た。そして、小さくため息をついた。
ランチの時間になり、ギルバートはジェームズとともにカフェテリアに向かった。
食事を選び終え、トレーを持って席を探していたら、ジェームズが誰かを見つけてそちらへ向かってしまった。ギルバートが追いかけると、ジェームズはミーナとあの友人の座るテーブルを覗き込んでいた。
「ジェームズ、何をして…」
ふと、ミーナの食べているランチがギルバートの目に入った。大盛りパスタにコーンクリームスープ、それに、デザートのケーキもつけていた。
「(…普通に食べてる…。俺のために痩せる、とは…)」
ギルバートは思考の果てに飲み込まれるがしかし、ミーナが普通にしてくれていることに安心する自分もいた。
「(…そもそも、痩せてほしい、なんて俺は微塵も思っていないし…)」
「……」
すると、鬼の形相をしたジェームズが、無言でミーナの腕を掴み、颯爽とどこかへ歩き出してしまった。
ギルバートは、お、おい!と突然のことに動揺しながら彼らを追いかけようとした。すると、腕をミーナの友人につかまれた。
はやく2人を追いかけたくて慌てる気持ちで、ギルバートはミーナの友人を見下ろした。
「…なんなんだ君は、前から。一体何のつもりだ」
ギルバートは怪訝そうな顔をして、友人に掴まれた手を払った。ミーナの友人はそんなギルバートに眉を上げると、次は険しくひそめた。
「まさかあなた、…私を知らないの?」
ミーナの友人の言葉に、ギルバートは少し気まずい気持ちになる。自分に関わりのない生徒の名前は基本的にギルバートは頭に入れていなかった。ましてや不特定多数の女性と親しくなることは軟派な男がするものだと思っていたため、親戚以外の女性との関わりなどミーナ以外ほぼなかったため、女子生徒の名前はほとんど覚えていない。
ギルバートは軽く咳払いをした。
「顔は知っている。ミーナの友達だろ」
「…私の名前は?」
「……すまない、存じ上げない…」
「……」
ミーナの友人は頬杖をついてしばらく考え込んだ後、じっとギルバートの方を大きな赤い瞳で見据えた。
「…あなた、一体どういうつもりなの?」
「は?」
ミーナの友人の言葉の意味が分からずに、ギルバートは固まる。
彼女の言う事も気になるが、今はそれ以上にミーナとジェームズのことが気になったギルバートは、すまないが失礼する、というと、手に持っていたランチをそばにいた男子生徒に渡すと、慌てて2人を追いかけた。
追いかけたものの、結局ギルバートは2人を見つけられなかった。
昼休みを終えてギルバートが教室に戻ると、始業ギリギリにジェームズが席についた。ギルバートは、おい、とジェームズの肩を引っ張った。
「ミーナを連れ去って、一体どういう了見だ」
ギルバートがジェームズを睨むと、ジェームズは爽やかな笑顔を向けた。
「万事俺に任せろ。必ずうまくいく」
「はあ?」
謎がさらに深まったところで教師が教室にやってきてしまった。ギルバートは意味が分からないまま悶々とした気持ちで授業を受ける羽目になった。
ギルバートは夜に宿舎で宿題をしていた。
ミーナとのことは聞いてもはぐらかされ続け、放課後になると、ジェームズは颯爽と何処かへ行ってしまった。
「(…なんなんだ…なんなんだ一体……!)」
悶々として頭を抱えていたとき、背中合わせにして机に向かっていた同室のレーガも頭を抱えているのに気がついた。
「…何かあったか?」
ギルバートが尋ねると、レーガは、あっ!と目を丸くした。
「実は…宿題が…」
レーガは言いにくそうに目を伏せた。ギルバートは椅子から立ち上がり、レーガのノートを眺めた。そして、彼の躓いているところを解説した。
「…となるから…」
説明途中に、レーガがギルバートの顔を呆然と見つめていることに気がついた。
「どこか不明なところがあったか?」
「あっ、う、ううん」
レーガは頭を振った。そして、目を伏せた。
「ギルバートは、優しいね」
「優しい?」
「他のクラスメイトと違って僕をバカにしない」
「君は一生懸命やっている。バカにする理由が見当たらない。…というか、バカにされていたのか、すまない知らなかった…」
ギルバートは額に手を当てた。レーガは苦笑いを漏らして、ジャックたちにね、と言った。レーガはその名前にあきれたような顔をした。
「あいつは本当に…、昔からしょうもなかったが、今も変わらんのか…」
ギルバートは忌々しい気持ちが湧き上がるのを感じる。昔からミーナを取り巻きたちと一緒になってからかっていたあの男を、ギルバートは何度怒鳴って追い回したことか。
「(…最近ミーナに変なことを言わなくなったと思っていたから大人になったと思っていたのに、標的を変えただけか…)」
ギルバートはため息をついて、レーガの方を見た。
「あいつは昔からそういうやつなんだ。もう相手にしないほうがいい。時間と体力の無駄だ」
ギルバートの言葉に、レーガは苦笑いを漏らす。
「ありがとう、ギルバート。相手にしない…か、できるかな、僕に」
「できるさ。いないものとして扱ったらいい。しつこかったら俺のところに来たらいい」
ギルバートはそうレーガに言った。レーガは目を丸くしたあと、あ、ありがとう…!と目を輝かせた。ギルバートはそんなレーガに小さく笑うと、他にわからないところはないのか、と聞いた。




