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没落した『元』貴族令嬢は、歌姫への道を駆けのぼる  作者: 冬生 恵
【第一幕】睡蓮座、デビュー
15/18

14.初舞台(後編)

 第二幕後の休憩。観客たちは興奮して、連れと何事かを語り合っている。活気のあるざわめきに手応えを噛み締めながら、オデットたちは第三幕に備えた。


 第三幕は再び、ジャンの子爵のソロから始まる。妻の姪であることにも気付かず、年の離れたメイドに熱を上げる子爵。

 彼女の名を呼びながら、屋敷中を探し回る彼に、突如背後から忍び寄る影があった。


「お前、人の女に手を出すとは、どういうつもりだ!?」

「ヒッ!」


 テノールの大音量に、子爵は声を裏返して悲鳴を上げる。バスのジャンの無理な高音に、客席がどっと沸いた。

 モーリスの演じる軍人は、さらにいかつく見えるよう、滑稽(こっけい)なほど衣装や化粧を「盛って」いる。背後には、これまた勇ましく武装した、同年代の青年たち。軍の仲間のうち、非番である友人に協力を仰いだのだ。どう見ても無頼漢にしか思えない姿の彼らに、子爵はあからさまに怯えた。


「ご、誤解だ! 私は、使用人である彼女を労おうと……」

「あんな猫撫で声でか? 年甲斐もなくデレデレとして、見苦しい!」


 悪鬼のごとく様相で、容赦なく怒鳴る若い軍人に、また客席に笑いが零れる。「許してくれ」と情けなく同情を乞う子爵に、苛立った軍人が仲間を振り返った。


「何を言っても無駄だ。やっちまおうぜ!」


 大声で応えた彼の仲間が、一斉にナイフや剣を取り出す。モーリス演じるメイドの恋人も、躊躇(ためら)いなく抜剣(ばっけん)した。

 彼が振り上げた剣が、悲鳴を上げる子爵の身体を、今まさに真っ二つしようとした、その時。



「――少しは懲りたかしら?」


 夫人役のアンヌマリーの涼やかなアルトが、舞台上に響き渡る。

 驚いた子爵が振り返る横を、メイド役のオデットが恋人のもとへ駆け抜けて行った。寄り添い合う彼らをよそに、夫人はツカツカと夫のもとへ歩み寄った。


「この人はふしだらですが、彼女には何も手出ししておりません。不快な思いをさせてしまったことは謝ります。どうか、この辺で収めてやってもらえませんか」


 若い二人に深々と頭を下げる妻を、夫は黙って見上げていた。一方、謝罪を受けた方の二人は、しばらく顔を見合せている。肩を(すく)めた軍人が、メイドの肩を抱きながら、子爵を見下ろして言った。


「……こんなに素敵な奥さんがいるんだ。悲しませない方が良いんじゃないのか?」


 息子ほどの年齢の青年の忠告に、子爵は無言で俯いた。軍人とメイド、軍人の友人が静かに舞台を去り、あとには子爵夫婦だけが残された。

 オーケストラの低い演奏だけがしばし流れ、夫人は溜め息のような声で告げた。


「あなたが誰を愛するかは、あなたの自由です。……ですが、あまり、心配させないでください」


 夫人の言葉に、子爵は目を見開いて立ち上がった。しばらく気まずそうに視線を逸らしていたが、やがて、子爵は意を決したように、妻をそっと抱き寄せる。夫人は、驚きに息を飲んだ。


「――すまない、私が愚かだった。永遠の愛を誓った相手は、間違いなく君だったのに」


 しばらく妻への愛を語っていた子爵は、込み上げる思いとともに、次第に声を張り上げる。そこに、歓喜の滲む夫人の声が重なった。


 二人は交互に、歌を交わす。やがて、最高潮に達した音楽に乗せ、二人はかつて結婚式で誓った言葉を、揃って口にした。




『病める時も健やかなる時も、道に迷った時でさえも。共に手を取り、支え合い、末永く一緒に生きていこう』




 アルトとバスの落ち着いた響きが、最後の一音と共に空間に溶けていく。


 しんと静まり返っていた客席に、やがて割れんばかりの拍手の音が響き渡った。






(すごい……すごい、ジャン、マリー!)


 舞台の中央で喝采(かっさい)を浴びる仲間を、オデットは舞台の袖から見つめていた。二人の目にはうっすらと光るものがある。オデットも頬を紅潮させ、舞台の袖から拍手を贈った。

 背後から近寄って来たモーリスが、オデットの耳元にそっと囁く。


「……忘れられない光景になるね」


 興奮に掠れた声に、オデットはパッと背後を振り返った。満面の笑みを浮かべる彼女に並び、モーリスは拳を握り締めた。


「次は、僕たちの番だ」

「モーリス……?」

「早くあの二人に並び立てるように、頑張ろう。――皆で、『睡蓮(すいれん)座』を盛り上げるんだ」


 いつも引っ込み思案な彼が発した力強い言葉に、オデットは目を丸くした。すぐに彼女は頷き、舞台の中央に視線を戻す。


「――そうね」


 二人は舞台袖で視線を交わし、笑い合った。

 






「――お疲れさん!」


 興奮の冷めやらない出演者たちは、全員楽屋に残っていた。そこに、頬を上気させたフィリップが姿を見せる。彼は珍しく浮かれた様子で、オデットたちの肩を順に叩いて回った。


「皆、よくやってくれた。大盛況だ! 明日の分を求める客が殺到して、売り場が大変なことになっていた」


 フィリップの言葉に、全員が歓声を上げる。はしゃぐ彼らに、ジャンが苦笑しながら言った。


「明日の公演も十八時からだから、今日と同じ時間に稽古室に集合で良いですか? フィリップさん」

「ああ、今日はしっかり寝ろよ」


 元気よく全員で返事をして、彼らは予備の衣装を抱えて寮へ向かった。

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