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「気をつけて行ってらっしゃい」
由美はいつものように夫をこてつとともに見送った。いつも通りの朝の風景だ。
だが、由美は浮かない顔をする。どうも最近、夫の様子がよくない気がする。別に体調が悪そうだとか、憔悴して見えるとか、そんな訳ではないのだけれど……。
昨夜も夫があまり好みでないのは分かっていても、せっかくの旬だからと作った料理を、味も解らずに食べているようだったり、飲みごろの暖かさに入れたお茶に気付かぬまま手を付けずに冷ましてしまったり。
小さな事だけれども、引っかかる事が続いている。
何か気になって上の空でいるというよりも、激しい緊張感から解放されて、放心しているような感じを受けるのだ。
「よほど仕事が大変なのかしら? 仕事の愚痴は一切言わない人だから、かえって心配だわ」こてつに話しかける。
こんな時ほどもどかしい事はない。何せ夫は自分が夫の仕事の事に触れるのを、極端に嫌うのだ。
自分が知って何か役に立てる訳でもないのだろうが、ねぎらう言葉に実感を込めてあげたい。それとなくでも分かっていてあげたい。そうは思うが、肝心の夫が何も話してはくれない。
「真柴さんなら、何か聞いていないかしら?」
由美はひとり言をつぶやくと、真柴を訪ねてみようかという気になった。
香はハルオにいきなり靴屋に連れてこられた。これから尾行だというのに、なんで買い物なんか? そんな顔の香にはお構いなしに、ハルオは香の靴を選ぶ。
「は、履き心地を、た、確かめてください」
ハルオに言われて靴に足を通す。ピッタリだ。
「なんで靴を買うんです? スニーカーぐらいなら自分で持ってますよ」香は怪訝な顔をした。
「く、靴底の柔らかい物を、は、履いてほしいんです。あ、足音もしないし、いざという時にもすぐに駆け出せます」
確かにこの靴は、底が柔らかくてフィット感がいい。店のリノリウム張りの床でさえ、独特の「キュッ」という音さえ立てない。これなら気配なく、素早く行動しやすいだろう。
「それからこれ、羽織って下さい」そう言って、ハルオは薄手のパーカーを渡してきた。
「そんなに寒くはないわよ」そう言う香に
「い、印象が変わるんです。上着を脱いだり、着たりすると。そ、その服はリバーシブルになってます。顔をあまり見せたくなければ、フードが役に立ちます。お、同じ人間につけられている事を気付かれにくくて、べ、便利なんです。そ、それから、ケータイにクレジット機能、ついてますか?」
「ついてない、です。でも、なんで?」
「だ、だったら、小銭を用意しましょう。急に電車やバスに乗ったり、自販機で物を買うふりをしたり、み、店でレジの時間がかかり過ぎないようにできます。ど、どこをどう歩くか、わ、分かりませんから」
なるほどね。これはプロだわ。香はハルオを少し、見直した。
用意周到な事前の準備。そのくせ、考え方は臨機応変に対応する事を念頭に置いているらしい。
それに買い物中のわずかな説明で、その必要性を伝えられるのも、ハルオの優秀さの証明だ。どもってはいるが、分かりやすい。こいつ、意外と甘く見れないかも。