第一章 一話 鈴の音
朝露に草木が濡れる。
男は縁側に座って、
静かに庭を見ていた。
「主……」
男は黙ったまま。
正確には、男は何も見てはいなかった。
「……夢でも見たかい?」
脳裏に焼き付いて離れない。
泣きながら笑う
かつての友の姿が……
男は、あの地獄のような日から
何度も友を夢に見ていた。
「別に、珍しいことではない。」
男は低い声でそう返した。
透子は夢を見ていた。
白い糸。
泣き声。
「タスケテ……」
どこか遠くから誰かが助けを求めている。
──シャラン……
「っ……!」
透子は勢いよく目を覚ました。
「……はぁ。はぁ。
また、同じ夢……」
胸がざわつく。
障子の向こうはもう明るい。
朝だ。
透子は額にうかぶ汗を手で拭った。
スパーン!
「透子様!
おはようございます!」
「いちさん!
おはようございます。」
少々驚いたが、
いちの騒がしさに慣れてきた透子。
勢いよく開いた襖の向こうに、
満面の笑みを浮かべたいちが立っていた。
「朝ごはんできてますよ!
早く食べましょう!」
「はい、
今行きますね。」
さっきまで胸を締め付けていた悪夢が
少し遠ざかった。
「ん?
透子様、どうかされました?
少し、顔色がお悪いような……」
いちが不安そうに眉を寄せた。
「あ、大丈夫です。
ちょっとまだ、眠いだけですから……」
慌ててそう言いながら、透子は苦笑した。
「……そうですかぁ?
体調がお悪いなら
ちゃんとおっしゃってくださいね。
みんな透子様のこと、大事なんですから。」
心配させて申し訳ない気持ちと、
いちの優しい言葉に、
胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます。
でも、本当に大丈夫ですから。
すぐに着替えて行きますね。」
「じゃぁ私は、外で待ってますね!」
「はい。お願いします。」
そう言って透子は一度襖を閉めた。
「あっ、主様! ハク様!
おはようございます!」
「ん。
おはよう。
……透子は?」
着替えを待っていると、
二人がこちらに向かって歩いていた。
「透子様はお着替え中です……」
いちはそう答えながら、
先ほどの透子の様子を思い出していた。
「……何かあったのか?」
「いえ。
……それが、透子様、今朝は少し、
元気がないように見えまして。」
「入るぞ。」
男は透子のことになると見境がなくなっていた。
「あ!ちょっ!
主様!まだお着替え中……」
いちは慌てて止めようとしたが、遅かった。
男は透子の返事を聞く前に襖を開けていた。
「あっ、ごめんなさい。
まだ……」
透子は襦袢姿で立っていた。
白いうなじが、
朝日を受けて淡く光っていた。
男は一瞬、言葉を失った。
透子と男の目がかち合う。
「す、すまない……」
男はとっさに襖を閉めた。
いちとハクは、片手で目を覆って、
主の失態を悔やんだ。
やってしまった……
男は口元を手で覆う。
透子は顔を真っ赤にしながら、
着物の袖に腕を通した。
「……黄泉守様の、ばかっ。」
小さく聞こえた声に、
男は固まった。
ハクは吹き出しそうになるのを堪えて、
肩を震わせた。
いちはやれやれと呆れている。
しばらくして、
着替え終えた透子は襖をそっと開けた。
「……おはようございます。」
「お、おはよう。
……ああ、その……
体調は、どうだ?」
透子はまだほんのりと頬を赤くしたまま、
小さく頷いた。
「はい。
もう大丈夫です。」
それを聞いて男はほっと胸を撫で下ろした。
その様子をはたから見ていたハクは、
わざとらしくため息をついた。
「やれやれ。
主は透子さんのこととなると、
本当に余裕がなくなるよね。」
「……うるさい。」
男はぼそりと呟いた。
いちは我慢できずに吹き出した。
「……」
男はじろりといちを見る。
いちはいたずらっ子のように、
舌を小さく出した。
座敷にはもう皆が集まっていた。
透子が屋敷に来てから変わったことが
いくつかあるが、
この朝食もそのひとつだ。
透子が来る前は、
皆好き好きに日々を過ごしていたが、
今は毎朝座敷で朝食をとるのが
日課になっている。
「おはよう! 主!」
「おっ、透子様!」
「おはようございます!」
「今日の朝餉は焼き魚ですぞ!」
「骨はとってあります!」
口々に声をかけられ、
いちに席を案内されながら、
透子は思わず微笑んだ。
「おはようございます、皆さん。」
こんな風に、
誰かと朝を囲むなんて、
少し前の自分には考えられないことだった。
「ほら主も、
早く座りなよ。」
「ああ。」
男は上座に座る。
透子はその隣に座っている。
いちに渡された湯呑みを持って、
熱かったのか、
ふーふーと息を吹きかけている。
「……主。見すぎだよ。」
ハクに言われて、はっとする。
「……」
「ぶっ……!」
バツが悪くなり、
誤魔化すように茶をすする男に、
いちは吹き出した。
妖たちもクスクス笑っている。
透子は、
なんのことだか分かっていないようで、
キョトンとしている。
「なんの話ですか?」
透子が首を傾げた瞬間だった。
──シャラン……
透子はぴたりと動きを止めた。
え?
鈴の音……?
夢の中で聞いたあの鈴の音が、
聞こえた。
「どうかされましたか?
透子様?」
どうやら他の者には聞こえていなかったようで、
やっぱり気のせいかなとその場を誤魔化した。
「いえ。
やっぱりまだ少し、
眠いみたいです。」
そう言って、
温くなったお茶をすすった。
賑やかな朝食を終えた透子は
男に手を引かれながら
廊下を歩いていた。
「……気分はどうだ?
まだ悪いか?」
男は気遣わしげに問いかけた。
「はい。
もう大丈夫です。
ご心配をおかけして、
すみません……」
「いや、謝らなくていい。
……庭にでも出てみるか?」
「今日も、良いのですか?
黄泉守様もお忙しいのでは?」
「……毎日務めがあるわけではない。
心配するな。」
男はわずかに、
握った手に力をこめた。
「じゃぁ。
今日もお願いしますね。」
透子も手を握り返した。
庭に出ると、
秋風に乗って、
甘い香りが透子の鼻をくすぐった。
「良い香り……」
「金木犀だな。」
清々しい朝の風と、
金木犀の香りに、
透子は深く息を吸い込んだ。
男は自然と、
透子の姿に目を向ける。
「もっと近くで嗅いでみるか?」
「はい。嗅いでみたいです。」
男は透子が砂利に足を取られないように、
ゆっくりと歩きだした。
少し歩くと、甘い匂いが強くなった。
「ここだ。」
「……良い香りですね。」
「ああ。
部屋に飾るか?」
「良いのですか?
涼さん、怒りませんか?」
男がパキッと枝を折った。
「これくらいなら大丈夫だろう。」
男は透子にそれを握らせた。
「これが、金木犀……」
透子はそっと枝に顔を近づけた。
その瞬間。
──シャラン……
また、あの鈴の音だった。
透子の指先がぴくりと揺れた。
「透子?」
そんな透子の異変に気づいた男は、
透子の顔を覗き込んだ。
透子は鈴の音がした方に目を向けた。
しかし、そこには誰もいない。
「……鈴の音が。
いえ、なんでもありません。」
「……鈴。」
男の目がわずかに細くなった。
秋風が吹く。
金木犀が強く香る中。
どこか遠くで、
また鈴の音が聞こえた気がした。
一話 鈴の音 [完]




