第1.5話 ゲーム酒場の朝は、煙から始まる ――クエスト前の一服は、義務らしい――
初回クエストは、勝手に受注確定。
けれど実行は翌朝へ延期され、マスターは初めて《るすと》の朝を迎える。
飯、シーシャ、そしてロリ魔女ババア。死地へ行く前の準備回です。
初回クエストの受注が、勝手に確定した翌朝。
俺はまだ、生きていた。
ギルド酒場の朝は、思ったよりも平和だった。
少なくとも、死体袋が通らない時間帯だけを切り取れば、の話だが。
木の床を掃く音。
グラスを磨く音。
鉄鍋の中で、肉と芋がぐつぐつ煮える音。
カウンターの奥からは、香ばしい匂いが流れてくる。
焼いたパン。塩気の強いスープ。肉の脂。あと、よく分からない香草。
「……普通に飯はうまそうなんだよな」
俺がぼそっと言うと、ミツキが少し嬉しそうに皿を置いた。
「朝食です。クエスト前は、ちゃんと食べてくださいね」
皿の上には、黒パンと厚切りベーコン、芋のスープ。
見た目は質素だが、湯気だけで腹が鳴る。
「これ、金かかる?」
「初回登録者用の支給食です」
「無料飯……!」
「感動するところ、そこなんですね」 フフッと、ミツキが優しく微笑む。
四十二歳無職に、無料という言葉は強い。
俺は手を合わせ、ありがたくスープをすする。
塩が濃い。
でも、うまい。
生きている味がした。
この世界ではクエストをこなさなければ死ぬ。クエストでもおそらく死ぬ。
怖い世界だ。
だが、この酒場には朝飯がある。
誰かが皿を出し、誰かが文句を言い、誰かが笑う。
たぶん、こういうものがなければ、人はすぐに壊れる。
俺が二口目のスープを飲もうとした時、イツキが帳簿を片手に言った。
「マスター、食べ終わったらシーシャ区画ね」
「……シーシャ?」
「うん。クエスト受注前の義務」
「待て。なんで命がけの依頼前にシーシャ屋行くんだよ」
「精神負荷の測定、呼吸同期、マナ循環の確認。あと、単純に落ち着くから」
「後半だけ店側の都合じゃない?」
「大事だよ。落ち着かない冒険者は、だいたい死ぬ」
言い返せなかった。
ギルド酒場の奥には、半地下のような小部屋があった。
吊りランタンの橙色の灯り。低いソファ。壁際には、色とりどりの瓶と、奇妙な形のシーシャ台が並んでいる。
ゲームバーで、ギルドで、酒場で、シーシャ屋。
属性を盛りすぎだろ、この店。
甘い煙が、ゆっくり天井へ昇っていた。
その煙の向こうで、煙をくゆらせながら、小さな影が足を組んでいる。
――見た目は、少女に見えた。
長い銀髪。
大きめの三角帽子。
紫のローブ。
小柄な体。見た目だけなら、十代前半どころか、もっと幼く見える。
だが、目が違った。
眠そうで、退屈そうで、全部見飽きたみたいな目。そして何とも言えない独特の惹き込まれるような魅力が彼女にはあった。
その小さな手がシーシャのホースを持ち、ゆっくり煙を吸う。
吐き出された煙が、輪になって揺れた。
「ほっほ。新入りのおっさんかえ」
「……子供がシーシャ吸ってる、違法じゃねえか!!」
俺が反射で言うと、イツキが小声で訂正した。
「見た目で判断しない方がいいよ。フー子さん、たぶんこの酒場で一番年齢詐欺だから」
「年齢詐欺」
「ロリ魔女ババアって呼ぶと、たまに笑って許してくれる」
「たまに?」
「許してくれない時もある」
銀髪の少女――いや、魔女らしき何かが、目だけでこちらを見た。
「聞こえとるぞ、小僧ども」
「俺、四十二なんだけど」
「妾から見れば、だいたい小僧か小娘じゃ」
さらっと言われた。
重みが違う。
フー子は、煙の向こうで小さく笑う。
「クエスト前に煙を吸うのは悪くない。息を整えれば、足も止まる。足が止まれば、罠を見る余裕ができる。罠を見れば、死ぬ確率が少しだけ減る」
「妙に実用的だな」
「この世界で実用的でないものは、長く残らんよ」
その言葉だけ、妙に古かった。
イツキがシーシャ台を一つ準備する。
ミツキが横で小さなタグを差し出した。
「冒険者タグをここに置いてください。呼吸と心拍を登録します」
「健康診断とシーシャが混ざってる」
「るすと式です」
「便利な言葉だな」
俺は言われるままに座る。
甘い煙を少し吸うと、喉がひやりとして、胸の奥の強張りがゆっくりほどけた。
死体袋。
ノルマ。
名前のない自分。
全部消えるわけじゃない。
だが、少しだけ距離ができる。
「……落ち着くな、これ」
「じゃろ」
フー子は満足そうに笑った。
「命を張る前に、茶を飲み、飯を食い、煙を吸う。馬鹿馬鹿しいと思うか?」
「いや」
俺は煙を吐いた。
「たぶん、必要なんだろうな」
「そうじゃ。死にに行くな。帰るために行け」
その一言に、なぜかガロと同じ匂いがした。
外では、クエストボードがぎぎっと鳴っている。
また新しい依頼が貼られたのだろう。
酒場では誰かが笑い、誰かが皿を洗い、誰かが次のクエストの準備をしている。
俺はまだ、この世界のことを何も知らない。
ルステラの声の正体も、自分の名前も、ノルマの本当の意味も分からない。
ただ一つだけ分かった。
ギルド酒場では、死地に行く前に飯を食う。
煙を吸う。
馬鹿な会話をする。
それが、帰ってくるための儀式なのだ。
フー子が煙の輪を作り、にやりと笑った。
「さて、新入り。今日も死なずに戻れるかのう?」
「不吉な応援やめろ」
「応援じゃ。妾なりのな」
俺は立ち上がり、冒険者タグを手に取った。
クエストボードの前へ向かう足は、まだ重い。
でも、さっきよりは少しだけ、呼吸が楽だった。




