第161話 夢ノード編20 キラー・メアリ ――捕まったら、夢を剥がされる――
七瀬心音は、案内役ではなく帰還案内になった。
けれど、帰る道の先には、夢を瓶詰めにする標本室が待っていた。
メアリは笑う。捕まえたら、夢を抜いてあげる、と。
七瀬こころ――いや、七瀬心音は、黒板の前に立っていた。
夢層校舎の教室は、まだ少しだけ夕方の色を残している。窓の外には存在しない校庭が広がり、チャイムの鳴らない時計だけが、秒針を逆向きに動かしていた。
彼女の足元に、白いログが浮かぶ。
【旧役割:案内役】
【新定義:帰還案内】
【対象:帰りたい者】
【禁止:強制誘導】
心音は、両手を胸の前で握りしめていた。さっきまでの案内役めいた笑顔はもうない。そこにいるのは、ただの少女だった。誰かを連れていくために作られた声ではなく、自分の名前を取り戻した子供の顔。
「わたし、もう連れていかない」
震える声で、心音は言った。
「でも......帰りたい子には、道を教える」
「それでいいんだ」
俺は、黒板に浮かぶログを見ながら頷いた。
「無理やり連れていくのは、救助じゃねぇ。帰りたいって言えたやつに、帰る席を用意する。それで十分だ」
ルースが隣で端末を展開する。白い光の文字列が、彼の小さな指先に沿って走った。
「役割再定義、安定しています。ただし、夢層中核への干渉が増加中です」
ステラが心音の手をそっと握る。
「ここね、だいじょうぶ?」
「......うん。ありがとう、ステラちゃん」
その瞬間だった。
きぃん、と。
校舎の奥から、チャイムが鳴った。
いや、チャイムではない。古い鉄の鐘を、水の底で鳴らしたみたいな音だった。教室の机が小さく震え、窓ガラスの向こうの夕焼けが、一気に夜へ塗り替わる。
【卒業式準備:開始】
【未処理児童ログ:再整列】
【N.M.E.-01中核領域:開放】
心音の顔色が変わった。
「だめ......」
「心音?」
「あそこは、帰る場所じゃない」
彼女の声が、急に幼くなる。
「あそこは、帰りたい気持ちを、しまう場所......!」
床が割れた。
教室の机も、黒板も、窓も、全部が紙芝居みたいに一斉にめくれ上がる。俺たちは抵抗する間もなく、暗い校舎の下へ落ちていった。
―――――
くるくると転げ落ち、着地した場所は、夜の廊下だった。
しかし、ただの校舎ではない。
白い壁は病院のように冷たく、床は学校の廊下みたいに長い。左右には保健室のベッドが並び、その奥では卒業式の紅白幕が垂れていた。児童回収施設と、学校と、標本室が、悪夢の中で雑に縫い合わされている。
この場所は空気が湿っている。チョークの粉、消毒液、古いランドセルの革の匂い。それに混ざって、甘ったるいキャンディみたいな匂いが鼻の奥へ残った。
「......ここ、いや」
そういってステラが俺の袖を掴む。
廊下の壁には、子供の絵が貼られていた。
ケーキ屋さんになりたい。
お母さんに会いたい。
名前を呼ばれたい。
もう一回、家に帰りたい。
くれよんで描かれた夢の上に、赤黒いスタンプが押されている。
【回収済】
「ふざけやがって......」
俺の声は、自分でも分かるくらい低かった。
天井からは、透明な瓶がいくつも吊るされていた。瓶の中には、光る糸、泡、名前の欠片、子供の声みたいなものが浮かんでいる。
瓶のひとつが、どくん、と脈打った。
内臓ではない。血でもない。けれど、それは確かに何かの中身だった。夢とか、希望とか、帰りたい気持ちとか。そういう、本当なら胸の奥にしまっておく大切なものが、剥がされて、吊るされていた。
【N.M.E.-01中核領域:標本室】
【保管対象:未処理児童ログ】
【抽出項目:夢/希望/魂片/帰還願望】
【警告:捕獲時、夢魂剥離処理が開始されます】
「夢魂剥離......」
ルースの声が硬い。
「瓶内部に、児童ログ由来の感情断片を確認。保存ではありません。これは......分離されています」
「きれいなのに、こわい」
ステラが小さく言った。
「ぱーぱ。これ、なに?」
「飾ってんじゃねぇ」
俺は、吊るされた瓶を見上げた。
「剥がして、吊るしてるだけだろ」
ポメ子が珍しく黙っていた。水色の髪を揺らしながら、廊下の奥を睨んでいる。
「ダーリン。ここ、海より深いわ」
「水はないぞ」
「そういう意味じゃないの。沈めたら守れる場所じゃない。ここは......夢そのものを切る場所」
カイロが、無表情のまま足元の影を見た。
「終端線が近い。でも切れない」
「切れない?」
「切ると、瓶の中の子まで落ちる」
つまり、簡単に壊して終わりにはできない。
俺が歯を噛みしめた時、ルステラ断片の声が、耳の奥に響いた。
【警告】
【本領域デハ、通常再走権限ガ制限サレテイマス】
【ルステラループ:使用不可】
【理由:夢層中核ニオケル、コアストーン参照遮断】
【ショートリープ:残機制ヘ変換】
【残機:3】
【残機共有対象:マスターおよび同行者全体】
「......共有だって?」
俺は思わず聞き返した。
「俺だけじゃねぇのか」
【肯定】
【同行者ノ捕獲/致命判定ニヨリ、残機ヲ消費シマス】
【残機0時、捕獲対象ハ夢魂標本化サレマス】
「まじでクソゲーすぎるだろ......!」
タニシが青い顔で眼鏡を押さえた。
「アニキ、これはまずいでござる。残機共有は友情破壊ゲームの最上位でござるよ。ひとりヘマしたら全員の空気が終わるやつでござる」
「黙ってろ。だいたい合ってるから余計にイラッとする」
ヘルメスが通信端末を抱えて、真面目な顔をした。
「ぼく、校内放送を掌握できます。避難誘導、危険区域通知、あと迷子のお知らせと、今日の給食メニューと、好きなパンランキングも――」
「最後三ついらねぇわ!」
「重要度整理、失敗しました!てへっ」
「自分で言うな!」
少しだけ息が戻った。
けれど、その息はすぐに凍った。
廊下の奥から、足音がしてきたからだ。
ぺたん。
ぺたん。
ぺたん。
子供の上履きが、濡れた床を踏む音。
闇の奥から、赤いランドセルが見えた。
黒い制服。小さな体。片手には、黒い出席簿みたいな刃。もう片方の手には、巨大な卒業証書の形をした鋏。
顔は笑っている。
でも、目は黒板に空いた穴みたいに真っ黒だった。
メアリ。
いや。
N.M.E.-01。
悪夢そのものが、少女の形を成して歩いてくる。
「みんな、みーつけた」
全員の背筋が凍った。
メアリは走らない。ただ歩くだけ。なのに、俺たちとの距離が詰まる。廊下の長さが、あいつの歩幅に合わせて、順々に縮んでゆくような錯覚に陥った。
「逃げた子は、卒業できないよ?」
くすくすと、メアリは笑った。
「捕まえたら、夢を抜いてあげる。怖い夢だけ残せば、もう希望で痛くならないから」
「お前、それを救いだと思ってんのか」
俺は言った。
メアリが首を傾げる。
「だって、希望があるから泣くんだよ?」
その声は、妙に優しかった。
「夢があるから、なくした時に痛いんだよ? だから、先に抜いてあげるの」
「それを死んでるって言うんだよ」
メアリの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが次の瞬間、また口角が上がる。
「先生、怒った」
「誰が先生だコラ」
「じゃあ、鬼ごっこしよ~」
メアリの影が、彼女の足元から床いっぱいに広がった。
【N.M.E.-01:追跡開始】
【恐怖反応探知:起動】
【警告:視認遮断のみでは回避不能】
「全員、走れ!」
俺の声で、一斉に動いた。
―――――
廊下が伸びる。
曲がり角が増える。
保健室の扉、音楽室の扉、購買部のシャッター、古いロッカー。すべてが夢みたいに位置を変え、追われる俺たちを迷わせようとしてくる。
ルースが前に出た。
「視線経路、解析します。メアリの視界は直線ではありません。恐怖反応を経由して追尾しています」
「つまり、怖がるとバレるってことか!」
「はい」
「無茶言うな! こんなの怖いに決まってるだろ!」
ステラが、震える子供ログのそばへしゃがみ込む。
廊下の隅。小さな白い影が泣いていた。瓶に吸い込まれかけた子供ログだ。顔ははっきりしない。ただ、胸元に小さな名札の残骸が揺れている。
「だいじょうぶ。こっち」
ステラは必死に笑った。
「こわくてもいいよ。こわいまま、隠れよ」
ネムリが、ふわりと白い霧を広げる。
「眠ったままでも、返事していいよ」
カイロが床に指を置いた。
「終端じゃない。保留線で止める」
黒い影の進行が、一瞬だけ鈍る。
ポメ子が水の膜を床に走らせた。
「湿度、上げるわよ。ダーリン、転ばないでね」
「俺だけピンポイントで心配するな!」
「だってダーリン、足腰が不安じゃない......」
「否定できないわあ!」
タニシはロッカーに紙片を貼りまくっていた。
「即席予約席ロッカー! ここは安全! たぶん安全! いや安全であってほしいでござる!」
【予約席ロッカー:生成】
【隠密成功率:上昇】
【警告:恐怖反応探知ニヨリ、完全隠密不可】
天井のスピーカーから、ヘルメスの声が響く。
『えー、現在、東廊下から赤ランドセル接近中! かなり怖いです! あとノエルくんがすごく頑張っています! あと、ぼくの放送、聞こえてますか!?』
「実況すんな! 場所だけ言え!」
『東廊下! 接近中! あと怖いよお!』
「怖いは分かってる!」
メアリの声が、背後からした。
「見えなくても分かるよ」
ぞわり、と空気が冷える。
「怖がってる音がするもん」
曲がり角の向こうから、黒い鋏が壁を裂いた。
ノエルが息を呑む。
少年の顔は青い。剣を握る手は震えている。それでも、彼は逃げる列の最後尾にいた。俺よりずっと若いくせに、誰かを先に通そうとしている。
「ノエル、前に出ろ!」
「でも、後ろの子が!」
廊下の端で、子供ログが泣いていた。
瓶の吸引に引かれ、半透明の体が少しずつ浮き上がっている。
ステラが手を伸ばす。
「待って! その子、まだ帰りたいって言ってる!」
メアリが近い。
俺は一瞬、判断に迷った。
その迷いを、ノエルが踏み越えた。
「僕が走ります!」
「ノエル、待て!」
「怖いです!」
ノエルは、はっきり言った。
「でも、僕も白磁だった頃、マスターとか、みんなに助けてもらいました! 足手まといだった僕を、置いていかなかった人がいました!」
彼は泣きそうな顔で、それでも笑った。
「今度は、僕が走る番です!」
「ノエル!!!」
止めるより早く、ノエルは子供ログへ駆け出した。
タニシが叫ぶ。
「ロッカー二番! ここでござる! 予約席、貼ったでござる!」
ノエルが子供ログを抱える。
その背後で、メアリの上履きが止まった。
「みーつけた」
メアリは、ノエルの体ではなく、影を踏んだ。
卒業証書の巨大な鋏が開く。
血は出なかった。
肉も裂けなかった。
代わりに、ノエルの影から白い糸が抜けた。
「強くなりたい」
「誰かを守りたい」
「もう、足手まといになりたくない」
声にならない願いが、白い糸になって瓶へ吸い込まれていく。
【捕獲判定】
【対象:ノエル】
【夢魂剥離処理:開始】
【抽出項目:希望/恐怖/帰還願望】
【剥離完了まで:2秒】
ノエルの目から、光が消えかけた。
「ノエル!」
俺は走った。
でも遅い。
間に合わない。
ルースが叫ぶ。
「マスター、間に合いません!」
ステラが泣きそうな声を上げる。
「いや! ノエル、返事して!」
俺の奥で、何かが切れた。
「ふざけんな」
喉の奥から、低い声が出る。
「その願いまで持ってくな」
俺は、胸元のコアストーン残滓に意識を叩きつけた。
「死線上書――!」
【ショートリープ発動】
【残機:3 → 2】
【警告:残機0時、夢魂標本化】
【ルステラループ:使用不可】
―――――
世界が、数秒だけ戻った。
ノエルが、走り出す直前。
俺の肺には、さっきの叫びの熱が残っている。ノエルの影から願いが抜かれる感覚も、まだ指先に残っていた。
「右じゃねぇ! 影を踏ませるな!」
俺は叫んだ。
「ポメ子、床!」
「了解よ、ダーリン!」
「カイロ、保留線!」
「止める。終わらせない」
「タニシ、ロッカー二番に貼れ! 一番じゃない、二番だ!」
「は、はいでござる! 二番! 二番予約席、確保!」
ポメ子の水膜が床を滑り、メアリの足元をずらす。カイロの細い黒線が、メアリの影を一瞬だけ縛る。タニシの貼った紙片が、ロッカーの扉を淡く光らせた。
ノエルは子供ログを抱え、転がるようにロッカーへ飛び込む。
メアリの鋏が、空を切った。
がちん、と。
嫌な音が廊下に響く。
助かった。
だが、俺の視界にはリアルで残酷な数字が残ってしまった。
【残機:2】
【本領域デハ、再走権限ガ残機制ニ変換サレテイマス】
【死亡時ノ世界線巻戻シハ発生シマセン】
「......今ので、もう一つ消えたのか」
【肯定】
ルステラ断片の声は、いつもより遠かった。
廊下の向こうで、メアリが拍手する。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
「すごい!先生」
メアリは嬉しそうに笑った。
「まだ二回遊べるね」
「遊びじゃねぇよ」
俺は膝に手をつき、息を吐いた。
体はまだ動く。だが、心臓の奥に、ノエルの夢が剥がされかけた感覚が残っている。死ではない。傷でもない。けれど、もっと嫌なものだった。
メアリは首を傾げる。
「じゃあ、授業?」
「違う」
「次は、誰の夢を隠すの?」
廊下の天井で、瓶が一斉に揺れた。
中の光が、怯えたみたいに小さく震える。
【標本室内、未処理児童ログ:多数】
【N.M.E.-01、追跡継続】
【警告:次回捕獲時、剥離深度上昇】
【残機:2】
あの悪夢から、逃げ切ったわけじゃない。
ただ、ひとつ失って。
我々はまだ、標本室に残されているのだ。
■ 今回のお話について
今回は、夢ノード編のホラー色を一気に強める回でした。
七瀬心音は【帰還案内】として再定義されましたが、その先にあったのは、子供たちの夢や希望を瓶詰めにする標本室でした。
メアリは今回は倒す敵ではなく、まず逃げなければならない殺人鬼として登場しています。
マスターたちが強くなっていても、ルールそのものが敵側にあると、単純な戦闘では勝てない。
ここが夢ノード終盤の怖さです。
■ ゲーマーおっさん解説
今回のゲームネタは、『Dead by Daylight』や『クロックタワー』系の“追われるホラー”です。
強い武器を持っていても、ルール上倒せない敵がいる。
見つかったら終わり。
隠れて、逃げて、仲間を助けて、時間を稼ぐ。
さらに今回は、マスターのショートリープがパーティ共有の残機制になっています。
昔のゲームでセーブ回数やコンティニュー回数が限られている時の胃の痛さ、あれです。
「あと何回やり直せるか」が見えているだけで、プレイヤーの手汗が増えるタイプですね。
■ 登場キャラクター紹介
● メアリ/N.M.E.-01
ナイトメア系悪魔AI。
今回は赤いランドセルを背負った殺人鬼として登場。
夢や希望を抜けば苦しまなくて済む、という歪んだ理屈で子供ログを標本化しています。
● ノエル
子供ログを逃がすため、自分から囮になりました。
怖がりながらも逃げない“普通の勇気”担当。
今回はマスターの残機消費によってギリギリ救われました。
● 七瀬心音
旧・案内役。
現在は【帰還案内】として再定義されました。
強制的に誰かを連れていくのではなく、帰りたい者にだけ道を示す存在です。
● タニシ
即席予約席ロッカー担当。
相変わらずうるさいですが、こういう逃走戦では意外と役に立ちます。
ただし発言の信頼度は低めです。
● ヘルメス
校内放送担当。
重要情報と余計な情報を同時に流すため、マスターに怒られています。
でも危険区域通知そのものはかなり有用です。
■ 主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:マスター
等級:青玉相当/翠玉査定候補
現在地:NODE06〈夢〉中核領域・メアリの標本室
状態:ショートリープ残機制下/残機2
使用可能:観測迷彩、死線上書
制限:ルステラループ使用不可
危険度:極高
観測度:不安定
精神負荷:上昇中
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