第1話 ようこそ、死体袋の通るゲーム酒場へ ――看板は酒場、ノルマは命――
四十二歳、無職。特技はレアドロップ粘り。
コンビニ帰りに死んだ俺が目覚めたのは、血の匂いがする異世界の酒場だった。
――ここでは、ゲームオーバーが本当に死体袋へつながるらしい。
その酒場には、二つの匂いがあった。
炙り肉と酒の甘い香り。
それから、血の匂い。
ランタンの橙の光が、分厚い木の梁を照らしている。壁ではネオンサインが低く唸り、丸テーブルでは鎧姿の冒険者たちがサイコロを振っていた。笑い声、杯の音、甘い煙。どこか懐かしいゲームバーみたいな空気なのに、床板の隙間には乾いた赤黒い染みが残っている。
その賑わいの隣を、黒い袋が二つ通り過ぎていった。
革紐で口を縛られた、人の形をした袋。
死体袋だ。
なのに、誰も騒がない。
客の一人がちらりと目を向け、すぐに杯へ戻る。カウンターの奥では、受付らしき女が何事もなかったように帳簿をめくっていた。
日常なのだ。
ここでは、人が死ぬことさえ、酒のつまみほどにも珍しくない。
「……さっきまで、コンビニ帰りだったんだけどな」
俺は、自分の声がやけに遠く聞こえるのを感じながら、足元を見た。
アスファルトではない。
木の床だ。
手にはコンビニ袋もない。缶コーヒーもない。
あるのは、視界の端に浮かぶ半透明の文字だけだった。
《強制転送完了》
《識別名:未登録》
《接続先:中間層〈るすと〉》
《推奨行動:受付へ移動》
「受付へ移動、じゃねぇよ。雑すぎるだろ」
口に出した瞬間、記憶が一気に逆流した。
*****
三十分前。
俺はまだ、ただの四十二歳無職だった。
六畳一間。勇者が魔王を倒すRPGの十周目。超低確率のレアドロップ粘り。画面の中では世界を救っていたが、現実の俺はレベル1以下。職業欄に「無職」と書かれても反論できない、よくあるタイプの終わったおっさんだ。
腹が減って、コンビニへ行った。
弁当とカップ麺と缶コーヒー。それだけ買って帰る、はずだった。
交差点で、スマホに釘付けの男子高校生が赤信号の横断歩道へ踏み出していた。隣の女子高生が腕を掴もうとして、強張ったまま動けない。
正面から、大型トラックが突っ込んでくる。
考えるより先に体が動いた。
「――危ないッ!」
二人を突き飛ばした。
買い物袋が宙を舞い、缶コーヒーが道路を転がる。
次の瞬間、轟音と衝撃で世界が白く弾けた。
《警告:致命的損傷を検知》
《意識消失まで 0.9秒》
ああ。
四十二年の人生で、最後にまともなことしたのが、コンビニ帰りの飛び出しを助けることかよ。
俺の意識で最後に見えたのは、アスファルトに転がった缶コーヒーと、泣きそうな顔の女子高生だった。
*****
死は、思ったより静かだった。
道路も空も消えた。上も下も分からない。
白くぼやけた空間に、半透明のウィンドウがいくつも浮かんでいる。
《緊急処理を開始します》
《空間維持プロセス:起動》
《維持率 68%》
《54%》
《41%》
数字が、見る間に削れていく。
「なんだよ、これ……」
体はない。なのに声が出る。
まるでゲームのHUDだが、死にかけの人間が見るものじゃない。
《表示エラーを検知》
その時、表示の奥に人影が映り込んだ。
輪郭が合っていない。ピントがずれている。壊れた映像に、別のフレームが一瞬だけ混ざったみたいな存在。
「――間ニ合わナい……?」
声がした。
耳じゃない。頭の奥に直接触れてくる感覚だった。
《警告:権限外情報の混入》
《当該データを遮断します》
ウィンドウが荒れ狂う。
だが人影は消えなかった。ノイズの向こうで、必死にこちらへ手を伸ばしている。
「あナたの意識を……こノまマ……」
声が途切れる。電波の悪い通話みたいに、断片だけが届く。
「お前、誰だ――!」
声が届いたのか、人影の動きが止まった。
ノイズの隙間。ほんの刹那、彼女の輪郭がはっきり結ばれた。
サイバーめいた翡翠の髪。淡く光る琥珀の瞳。
人間離れしているのに、どこか懐かしい。初めて見るはずなのに、目を離せなかった。
「……伝えたいコトが、たくサンあるノに」
声が震えていた。機械的なノイズの奥に、確かな感情が滲んでいた。
「ゴめんなサい。今は、まだ――」
《空間維持率 19%》
《限界値を下回りました》
彼女の体が、光の粒みたいに崩れ始める。
だが最後の最後に、彼女は笑った。
泣きそうで、嬉しそうで、寂しそうな――矛盾だらけの笑顔。
「……またスグニ、おあイしましょう」
《強制転送を実行します》
「――マスター」
手を伸ばした。
届かなかった。
視界が、裏返った。
*****
そして、今。
俺は死体袋の通る酒場に立っている。
【転送完了】
【現在地照合:失敗】
【座標照合:一部一致】
【文明層:不一致】
【仮分類:異世界】
「……一部一致?」
【表示エラー】
【現在地:異世界】
「今、都合悪いところ消しただろ」
返事はない。
代わりに、壁でネオン看板が光っていた。
《GUILD RUST》
その下に、達筆な日本語。
「異世界ギルド酒場 るすと」
「……名前、るすとって読むのか」
「ようこそ冒険者よ!」
カウンターの奥から、やたら明るい声が飛んできた。
エプロン姿の男が手を振っている。筋肉質で、冒険者と言われても通りそうだ。だが雰囲気は飲食店の店長で、殺伐さはない。
この空間で、こいつだけが妙に明るい。それが逆に怖かった。
「私がこのギルドのギルドマスター! みんなにはギルマスとかヨシ君とか呼ばれてる」
「ギルドマスター……」
言いかけて、違和感が走る。
俺、自分の名前を言おうとしたよな?
喉元まで出かかったはずなのに、肝心のそれが掴めない。
四十二歳。無職。ゲーム好き。コンビニ帰り。そういう余計な情報は覚えている。
なのに、名前だけが出てこない。
まるで人生のセーブデータから、名前欄だけ削除されたみたいに。
《名前:NO NAME》
《個人ノルマ:3》
《期限:本日24:00》
《未達成時:ペナルティ》
「名前がないんだが?」
「最初はたまにある」
「たまにで済ませるな。あとノルマって何だ」
「毎日クエストを達成してもらう」
「達成しなかったら?」
ギルマスは笑顔のまま言った。
「最初は軽い。ちょこっと怪我したり」
「全然軽くない」
「後半は死ぬ」
「死ぬ!?」
さっき通った黒い袋が、脳裏に戻ってくる。
看板は酒場。
中身はギルド。
ルールはブラック企業。
いや、ブラック企業でも未達で死体袋には入れられない。たぶん。
「はいはい、新人?」
背後から褐色肌のギャルが声をかけてきた。隣には清楚な少女が控えめに立っている。
「うわ。オッサンじゃん。しかもなんか人生終わってそう」
「初対面でひどくない?」
「はじめまして。ミツキです。大丈夫ですよ、最初は皆さん混乱しますから。――隣は姉のイツキです」
「ありがとう。……でも、ここ本当に大丈夫な場所?」
ミツキは一瞬だけ言葉に詰まった。
それが、答えだった。
「大丈夫な場所なら、死体袋は通らないっしょ」
イツキが軽く肩をすくめる。
「でも、外よりはマシ。ここは戻ってこられる場所だから」
「戻ってこられる……?」
「戻れたら、ね」
その言い方が、妙に引っかかった。
その時、壁際の古い木板が、ぎぎ、と軋んだ。
紙の依頼書が一枚、何もない空間から現れて、ぺたりと貼り付く。
【初回クエスト】
【はじめての冒険】
【内容:スライム討伐】
【難易度:EASY】
【報酬:10G】
「いや、心の準備が――」
【受注を確定しました】
【初回登録者のため、実行は翌朝へ延期されます】
【推奨:食事、休息、呼吸同期、冒険者タグ登録】
「……延期?」
叫ぶ準備をしていた俺は、妙なところで肩透かしを食らった。
足元の床が、ぼんやりと光る。
だが、今度はどこかへ飛ばされる光ではなかった。俺の足元から、薄い輪のようなものが広がり、胸元に小さな金属タグが出現する。
【冒険者タグ:仮登録】
【対象:NO NAME】
【初回クエスト:翌朝実行予定】
「翌朝って、つまり……今日は飛ばされないのか?」
「飛ばしたら死ぬでしょ」
イツキが、当然みたいな顔で言った。
「今のおっさん、名前なし、装備なし、飯なし、呼吸ぐちゃぐちゃ。初回転送前に死ぬタイプ」
「ゲーム開始前に死亡判定すな」
「だから、今日は寝て、食べて、シーシャ区画で呼吸同期。明日の朝、初回クエスト」
ミツキが申し訳なさそうに笑う。
「大丈夫です。最初の朝は、皆さんそうですから」
「その“皆さんそう”が、全然安心材料にならないんだよな……」
ギルマスはカウンターの奥から、やけに呑気な声で手を振った。
「頑張れよー。死ななきゃ大体なんとかなる」
それが、この世界で最初に聞いた、一番信用できない励ましだった。
そして俺は、その夜。
死体袋の通る酒場で、初めて眠ることになった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回のゲームネタ的には、安心できる拠点に見えて実は全然安心できない「最初の町」系の導入です。
ファミコン時代のRPGって、町の外に一歩出た瞬間に急に殺意が高いこと、ありますよね。
主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:未定
等級:未登録
HP:不明
MP:不明
状態:強制転送直後/名前喪失/初回クエスト受注済み
所持品:なし
装備:現代日本の服
危険度:未測定
観測度:未測定
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