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二人で世界に、立ち向かっていく。  作者: さんけい


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10/10

第10話 終わったら帰りましょう

 エリンはマレートの胸に飛び込んだ。

 鎧が硬くて、冷たかった。それでも構わず抱きつくと、夫の腕がしっかりと背中に回された。


「エリン! よかった、無事だったんだね」

「あなたこそ! 怪我は? 大丈夫なの?」


 エリンは身体を離し、夫の顔を確かめた。

 頬に小さな傷がある。鎧には泥がつき、ところどころに血らしいものまで見えた。

 マレートは慌てて首を振った。


「この血は私のものじゃないよ。頬の傷も、かすっただけだ」

「本当に?」

「ああ。それより君は?」


 そう言って、彼はエリンの右手に目を留めた。

 布を巻いた手首を見て、表情が変わる。


「エリン、これは?」

「ああ、ちょっと。街道で敵と出くわしてしまって」

「敵と?」


 マレートが目を丸くした。

 エリンは少し困ってしまった。どうやら、これは叱られるらしい。


「剣を一度受けただけよ。兵士たちが助けてくれたから、大丈夫」

「剣を受けたって……君が?」

「ええ。もちろん、私一人で戦ったわけじゃないわ」


 マレートはしばらく何か言いたそうにしていたが、やがて大きく息を吐いた。


「……無事でよかった」

「ごめんなさい。心配させて」

「いや。君も必死だったんだろう」


 彼はエリンの右手をそっと持ち上げ、巻かれた布を確かめた。


「あとで医師に診てもらおう。骨を痛めているかもしれない」

「ええ。そうするわ」


 エリンは夫の顔を見上げた。

 戦場から帰ってきたばかりだというのに、彼はまず妻の怪我を心配してくれる。

 十年前なら、こんなふうに顔を見合わせて話すことさえ、まだぎこちなかった。

 あの頃のマレートは、いつも何かを恐れていた。

 けれども今、エリンを抱きしめているのは、十年間ともに暮らしてきた夫だった。


「子供たちは?」

「妹と一緒に、北へ向かったわ。先ほど、無事に到着したと知らせが来たの」

「そうか……よかった」


 マレートは心底安心したように笑った。

 エリンもつられて笑う。


「息子がね、あなたが帰ってきたら、またお菓子を作るんですって」

「……また、あれを?」

「今度は柔らかいのがいいそうよ」


 マレートは少し情けない顔をした。


「そうか。あれは、やはり固かったか」

「ええ。かなりね」


 二人で笑った。

 こんなところで、こんな話をしている場合ではないのかもしれない。

 けれども、エリンはどうしても夫と笑いたかった。

 あの人が、ちゃんと帰ってきてくれたのだから。


 *


 町の守りがひとまず落ち着くと、マレートは部下たちへ指示を出し、負傷者の手当てと周辺の警戒を命じた。

 敵は撤退したものの、隣国の反乱そのものが収まったわけではない。

 国境の向こうには、まだ敵軍がいる。

 それでも、北の町を守り、避難民たちを無事に逃がすことはできた。

 マレートは、エリンの判断のおかげだと言った。


「君が南の谷を警戒してくれなければ、危なかった。北の町についても、君の知らせがあったから間に合ったんだ」

「でも、私はただ、思いついたことを伝えただけよ」

「それでも、助かった。ありがとう」


 エリンは少し迷った。

 あの時、自分には敵の動きが分かっていた。

 ただの思いつきではなかった。

 そして、その理由も今は知っている。

 けれども、夫はまだ知らない。

 どう話せばよいのだろう。

 十年前、彼が初夜に告白してくれた時のことを思い出した。

 あの時の自分は、夫の話を理解できなかった。

 それでも、彼は一生懸命に説明しようとしてくれたのだ。

 エリンはマレートを見上げた。


「ねえ、あとで少し、お話しできる?」

「もちろん。何かあったのかい?」

「ええ。……とても大切なことなの」


 マレートは不思議そうな顔をしたが、すぐにうなずいた。


「分かった。少し待っていてくれるかな。兵たちに指示を出してくる」

「ええ。待っているわ」


 エリンは微笑んだ。

 十年前から、ずっとそうしてきた。

 彼が話したい時には話を聞き、自分が困った時には相談する。

 そうやって、夫婦になってきたのだ。


 *


 日が暮れてから、二人は教会の奥にある小さな部屋で向かい合った。

 マレートはようやく鎧を脱ぎ、借りた上着に着替えていた。

 エリンの手首も医師に診てもらい、幸い骨には異常がないと分かった。ただし、しばらくは無理をしないようにと言われている。

 マレートはそれを聞いて、安心したようだった。


「それで、話というのは?」

「……十年前のことを、覚えている?」


 エリンがそう尋ねると、マレートは少し驚いた顔をした。


「十年前?」

「私たちが結婚した日の夜よ。あなたが、自分には何かおかしいところがあるって話してくれたでしょう?」


 マレートの表情が変わった。

 彼はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。


「……覚えているよ」

「もう一人の自分が目覚めたような気がするって。知るはずのないことを知っていたり、見たこともない場所を思い出したりするって」

「ああ」


 マレートはゆっくり息を吐いた。


「あの時は、君にひどく奇妙な話をしてしまったと思った。初夜だというのに、あんなことを……」

「私は、聞いてよかったと思っているわ」

「エリン……」

「でもね、今になって思うの。あなたは、あの時どんなに苦しかったんだろうって」


 マレートはうつむいた。

 エリンは彼の手を取った。


「私は、戦場で疲れてしまったのだろうと思っていたの。だから、ここでゆっくり暮らしてもらえれば、少しずつ元気になるんじゃないかって」

「……それで、十分だったよ」


 マレートが顔を上げた。


「本当に、十分だった。君が話を聞いてくれたことが、どれほどありがたかったか」

「そう?」

「ああ。君は私を恐れなかった。奇妙なことを言う男だと思いながらも、一緒に暮らしてくれた」


 エリンは微笑んだ。


「だって、あなたはとても優しい人だったもの」

「……私は、そんな立派な人間じゃないよ」

「知っているわ。寒がりだし、お菓子作りは下手だし、子供たちには甘いし」

「エリン」


 マレートが困ったように笑った。

 その顔を見て、エリンも笑う。

 ああ、本当に。

 自分はこの人を愛している。

 戦場で鬼神と呼ばれた第五皇子でも、もう一人の自分に苦しんでいた青年でもなく、十年間、ともに生きてきたこの人を。

 そして、マレートもまた、自分を愛してくれた。

 辺境伯として仕事に追われ、子供たちに手を焼き、時には失敗して落ち込むエリンを。

 そのことが、何よりも嬉しかった。


「マレート」

「何だい?」

「あなたと結婚して、よかったわ」

「……私もだよ」


 彼はエリンの手を握り返した。


「私は、君と出会えて本当によかった。あのまま戦場にいたら、どうなっていたか分からない。ここへ来て、君と暮らして、子供たちが生まれて……ようやく、生きていてよかったと思えるようになったんだ」


 エリンは、思わず夫の胸に顔を寄せた。

 マレートがそっと抱きしめてくれる。

 十年前の初夜にも、こうして一緒にいた。

 あの頃は、まだ互いをよく知らなかった。

 けれども今は、何も言わなくても分かることがたくさんある。

 彼の腕の中にいると、安心する。

 そして、彼も自分を抱きしめることで、少し安心してくれるのだろう。


 *


 しばらくして、マレートが口を開いた。


「……エリン。私は、今でも時々考えるんだ」

「何を?」

「あの頃、私の中に目覚めたものが、何だったのかということを」


 エリンは顔を上げた。

 マレートは窓の外を見つめている。


「十年経っても、分からないことがある。あの奇妙な記憶は、今も消えない。自分がどこか別の場所から来たような気がすることもある」

「……ええ」

「だが、今はもう、以前ほど怖くないんだ」


 彼はエリンを見た。


「君がいるからね。それに、子供たちもいる。ここで暮らしてきた十年間は、私にとって何よりも大切なものになった」


 エリンはうなずいた。

 彼も、同じことを考えていたのだ。

 あちらの世界の記憶があっても、こちらで生きてきた時間は消えない。

 十年間、愛し合い、子供たちを育ててきた。

 そのことは、どちらの世界にいようと変わらない。


「……ねえ、マレート」

「何だい?」

「私、あなたと一緒にいたいわ。これからも、ずっと」

「もちろんだよ」


 マレートは笑った。


「私も、そう思っている」


 エリンは彼の手を握った。

 まだ、分からないことがたくさんある。

 この世界は、いったいどうなっているのだろう。

 あちらの世界では、どれほど時間が経っているのだろう。

 自分たちは、帰ることができるのだろうか。

 そして、子供たちは。

 あの子たちを、どうすればいいのだろう。

 エリンには、まだ答えがなかった。

 それでも、もう一人で悩む必要はない。

 マレートと二人で考えればいい。

 十年間、領地のことも、子供たちのことも、そうしてきたのだから。

 今度も、きっと。


 エリンは夫の顔を見つめた。

 あの頃のような、疲れ果てた青年はもういない。

 目の前にいるのは、自分が愛し、愛されてきた人だった。

 エリンは微笑んだ。


「……終わったら帰りましょう」


 マレートが、少し首をかしげた。


「もちろんだよ。子供たちも待っているし、屋敷のことも気になるからね」

「ええ。でも、そのことだけじゃないの」


 エリンは彼の手を両手で包んだ。


「十年前、あなたが帰りたかったところよ」


 マレートの顔から、笑みが消えた。

 彼はエリンを見つめたまま、しばらく動かなかった。

 それから、震える声で尋ねた。


「……エリン?」

「ええ」

「君は……」


 エリンはうなずいた。


「思い出したの。全部ではないけれど、あなたが何に苦しんでいたのか、今なら分かるわ」


 マレートの唇が震えた。

 彼は何か言おうとして、うまく言葉にならない様子だった。

 エリンはその手を握り直した。


「でも、今すぐに帰るわけにはいかないわ。戦争も終わっていないし、子供たちのこともあるもの。あの子たちを置いていくつもりはないわよ」

「……ああ」

「だから、これから一緒に考えましょう。どうしたらいいのか。何ができるのか」


 マレートはうなずいた。

 その目から、涙がこぼれた。

 エリンは驚いて、彼の頬に手を伸ばした。


「まあ、マレート。泣かないで」

「……すまない」


 彼は笑おうとしたが、うまくいかなかったらしい。

 エリンの手を握りしめ、何度もうなずいている。

 十年前、たった一人で抱えていたことを、今、妻も知っている。

 そのことが、どれほど嬉しいのだろう。

 エリンは夫を抱きしめた。

 マレートも、強く抱きしめ返してくれた。


「……ありがとう、エリン」

「何が?」

「帰ってきてくれて」


 エリンは少し笑った。

 自分は、どこへも行っていなかったつもりなのに。

 けれども、彼にとっては、そうなのかもしれない。


「こちらこそ、ありがとう。十年間、ずっと一緒にいてくれて」


 マレートは涙を拭い、それからようやく笑った。

 エリンの大好きな笑顔だった。

 彼は妻の額にそっと口づけた。


「ああ。帰ろう。一緒に」


 エリンはうなずき、夫の肩に頬を寄せた。

 窓の外では、夜の町に教会の鐘が鳴り始めていた。

 戦いは、まだ終わっていない。

 明日になれば、また忙しくなるだろう。

 それでも、今夜はこうしていられる。

 夫が隣にいて、子供たちは無事で。

 エリンは目を閉じた。

 明日は、きっと晴れる。

 そして、すべてが終わったら。


 今度こそ、二人で帰ろう。



End

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