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第3回:職場という名の「包囲網」



 オフィス。そこは本来、プロフェッショナルが対価を得るために労働を提供する神聖な場所だ。断じて、ピンク色のエフェクトが舞い散るラブコメの舞台ではない。

 だが、僕がデスクに座った瞬間、愛用のマウスを握る手が止まった。


 ――未読メール、四十二件。


 送り主はすべて、同じ部署の後輩、リカだ。

 件名は「業務連絡」となっているが、その中身は見るに堪えない。


『先輩、おはようございます! 今日の中野商事様向けの資料、拝見しました。タイピングする先輩の指先、すごくセクシーで集中できませんでした。今、何考えてますか? 私のこと?(笑)』

『先ほど給湯室に行かれましたよね。私も行きたかったのですが、課長に捕まってしまいました。次に行くときは、内線一本ください。合わせますから!』

『ランチ、どこ行きますか? 私は先輩の気分に合わせる準備、できてます。昨日おっしゃっていたパスタのお店、予約しちゃいましょうか?』


 僕は静かにブラウザを閉じ、Excelを立ち上げた。

 仕事をするためではない。リカから送られてきたメールの「送信時刻」と「内容の違和感」を、時系列順にプロットするためだ。


「……おはよう、佐竹。朝から熱心だな。リカちゃんからの猛アタック、今日も絶好調か?」


 隣のデスクから、先輩の佐藤がニヤニヤしながら声をかけてきた。彼は僕の置かれている状況を「羨ましい男の悩み」程度にしか思っていない。


「佐藤さん、笑い事じゃないんです。これ、業務時間中に送られてきているんですよ。彼女、自分のタスクを放り出して僕の行動を監視しているんです」


「まあまあ、可愛い後輩に思われてるんだからいいじゃないか。男冥利に尽きるだろ? 俺なんて嫁さんにすら無視されてるんだぞ」


「『男なら嬉しいだろ』というバイアスこそが、職場の健全性を損なうんです。これは立派なセクシャルハラスメント、および業務妨害ですよ」


 僕が真顔で論破すると、佐藤先輩は「お前、本当に真面目すぎるよな」と肩をすくめて離れていった。

 この空気だ。この「男が被害者の場合は冗談で済まされる」という社会的な不備こそが、彼女たちの狂気を加速させるガソリンになっている。


 午前十一時。僕は意を決して、人事部のコンプライアンス窓口へと向かった。

 応接室で僕を待っていたのは、中堅の人事担当者、大山だった。


「……佐竹くん。君の話は、つまり後輩のリカさんが、君に対して過剰なアプローチをしてくる。それが苦痛だ、ということだね?」


 大山の口調には、どこか投げやりな響きがあった。


「正確には、『過剰なアプローチ』という情緒的な表現ではなく、職務専念義務違反およびパワーハラスメント、セクシャルハラスメントに該当する行為の継続です。これを見てください」


 僕は持参したタブレットで、リカの行動記録を提示した。


「彼女は僕が席を立つたびに、不自然なタイミングで席を立ちます。これは弊社の入退室管理システムのログと、僕が独自に記録した『遭遇時刻』の照合結果です。統計学的に見て、偶然の一致が起こる確率は〇・〇一パーセント以下。つまり、彼女は僕のICカードの挙動を何らかの手段で監視し、意図的に『待ち伏せ』を行っています」


 大山の眉が少し動いた。


「さらに、彼女が業務時間中に送信してきた非業務目的のメールは、過去一週間で合計二百三十八通。一通あたりの作成時間を三分と仮定しても、彼女は一日の勤務時間のうち約二時間を、僕へのハラスメントに費やしている計算になります。これは会社に対する背信行為であり、僕にとっては精神的な苦痛による労働生産性の低下を招いています」


「佐竹くん、君の言い分はわかった。だがね、彼女はまだ若い。好意を上手く表現できないだけという見方も……」


「大山さん。もし、これが『五十代の男性上司』から『二十代の女性社員』に対して行われていたとしても、同じことが言えますか?」


 僕の言葉に、大山が絶句した。


「性別を逆転させて考えてみてください。一日に何十通ものポエムを送りつけ、トイレにまでついてくる上司。それを『好意の表現』で済ませますか? 会社には労働者が安全に働けるよう配慮する『安全配慮義務』があります。放置すれば、僕は会社を相手取り、職場環境配慮義務違反で損害賠償を請求することも検討しています」


「……わ、わかった。至急、事実確認を行う。リカさんには厳重注意、場合によっては配置転換も視野に入れよう」


 大山の額に汗が浮かぶ。

 法的な「義務」と「賠償」という言葉を出した瞬間、組織は初めて重い腰を上げる。ラブコメの波動を、ビジネスの論理で塗りつぶした瞬間だった。


 人事部を出て、自席に戻る途中の廊下。

 自動販売機の影から、リカがひょっこりと顔を出した。


「先輩! 人事部で何お話ししてたんですか? もしかして、私たちの結婚の報告の相談ですか?」


 彼女の目は、本気でそう信じているような、濁りのない輝きを放っていた。


「リカさん。僕は今、会社に対して君の行動を公式に報告した。君のしていることは恋愛ではない。就業規則違反だ。次に僕に業務外の連絡をしたら、即座に警察へ通報し、第2話で確定したストーカー規制法違反の証拠として提出する」


 リカの笑顔が、ゆっくりと崩れていく。


「……ひどい。先輩のために、私、こんなに頑張ってるのに。お弁当だって、毎日先輩のデスクの中に忍ばせてるんですよ? ちゃんと食べてくれてますか?」


 ――デスクの中に、弁当。

 僕は戦慄した。僕のデスクには鍵がかかっているはずだ。


「どうやって開けたんだ」


「え? 合鍵、作っちゃいました。先輩が寝てる間に。……あ、これ内緒だったかな?」


 彼女は悪戯っぽく舌を出した。

 住居侵入、あるいは器物損壊。彼女の「可愛い」という免罪符は、すでに刑法の荒波に飲み込まれている。


 僕は言葉を返さず、すぐさま自分のデスクに戻った。

 引き出しを開けると、確かにそこには、ハート型に切り抜かれた海苔が乗った、不気味なほど彩りの良い弁当箱が鎮座していた。


 僕はそれを素手で触らず、ビニール袋に密閉した。

 「不法侵入の証拠」の完成だ。


 その時、僕のスマホが、昨日とは違う奇妙な挙動を見せた。

 画面が勝手に切り替わり、見たこともないチャットアプリの画面が立ち上がる。


『管理者:ターゲット、人事部へ接触。警戒レベルを上げてください。』

『花:了解。実家の両親には私から連絡済み。』

『麻耶:会社のセキュリティ、甘いね。夜には私の「警備」も合流させる。』

『リカ:先輩、怒っちゃった。でも、怒った顔も素敵。次はもっと過激にいくね。』


 ――グループチャット。

 彼女たちは、単に僕を追い回しているだけではない。

 「佐竹流星」という獲物を、いかにして逃さず、いかにして精神的に追い詰めるかを、まるでソーシャルゲームの攻略会議のように共有していたのだ。


 僕は怒りで指先が震えるのを感じた。

 僕の人生は、彼女たちのコンテンツではない。


「……いいだろう」


 僕は、木島にメッセージを送った。

『奴ら、チームを組んでやがる。組織的な犯罪行為としての立件、いけるか?』


 木島からの返信は、一秒後に届いた。

『最高だ。単独犯より、共謀の方が刑期は重くなる。佐竹、そのまま泳がせろ。今夜、奴らが「実家」に手を出す瞬間を、最高の画質で録画してやる』


 僕は弁当箱をゴミ箱……ではなく、「証拠保管箱」と書いた段ボールへと放り込んだ。

 周囲の同僚たちは、まだ僕を「モテる男」として見ている。

 だが、僕の視界には、彼女たちの背後にちらつく「鉄格子」がはっきりと見えていた。


 定時。

 僕は誰よりも早く会社を出た。

 背後から複数の足音が聞こえる。

 ヒールの音、スニーカーの音。

 それは僕を愛する者の足音ではない。

 獲物を追う、捕食者たちの群れだ。


 僕は駅の改札を抜ける際、わざとICカードを強く叩きつけた。

 記録しろ。追跡しろ。

 そのすべてのログが、君たちを社会から隔離するための「判決文」になるのだから。


 エスカレーターを下る僕の影に、別の影が重なる。

 振り返らなくてもわかる。

 リカが、すぐ後ろにいる。


 彼女のスマホのカメラが、僕の背中を捉えているのが、ガラスの反射でわかった。

 僕はスマホを取り出し、録音を開始した。


「次は、警察署の前で会おう。リカさん」


 僕の呟きは、電車の入線音にかき消された。

 だが、彼女たちのグループチャットには、僕のこの「拒絶」さえも、甘い愛の言葉として翻訳されて届いているのだろう。


 夜の帳が下りる。

 明日には、第一の処刑――「警告」の矢が放たれる。

 僕は自宅の鍵を二重に閉め、枕元にボイスレコーダーを置いて、眠りについた。


 深夜二時。

 実家の母から、一通のメールが届く。

『流星、婚約者だっていうお嬢さんが、大量の結納品を持って玄関前に座り込んでるんだけど……。これ、開けてもいいの?』


 ――戦線は、ついに家族へと拡大した。

 僕は静かに起き上がり、スーツを着た。

 「平穏」を取り戻すための、夜の法廷闘争が始まる。

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